大きな壺と小さな杯
「人の寿命って何なんだろうね」
「人が健康のまま生きていける上限、でしょうか」
曖昧で概念的なエウリューケの問いに、僕は簡単に答える。僕が答えたのは、言葉の定義に僕なりの注釈を加えたものだがそう間違ってはいまい。
エウリューケは僕の言葉にピョコンと髪の毛を揺らす。それから、その大きな目で僕の目を真正面から捉えた。
「じゃ、なんでそんなもんがあんの? あたしたち、いくら生きてもいいじゃん」
「……それは……」
僕は言い淀む。
多分、僕はその答えのようなものを知っている。以前読んだことのある論文で、いくつも見たことがある。当時は僕もほとんど興味がなかったが。
染色体末端にある末端小粒。それが分裂により短縮し、やがてすり減りきるとヘイフリック限界を迎えて細胞が未成熟細胞老化を引き起こす。
その他にも紫外線や放射線、細胞へのストレスで傷ついた細胞の分裂が抑制され、抑制中に修復出来なければ老化する。
それが、細胞の寿命。
そして細胞一つ一つは小さな粒でも、それが重なっていけばどんどんと全体的に痛んでいく。
細胞分裂が遅くなり、時には起こらなくなり、機能不全を引き起こしていく。
その小さな機能不全の集大成が、細胞の集合体である人体の老化。
いずれその老化に耐えきれなくなり、人体そのものが死んだその時、それが人の寿命だ。
そういう答えは持っている。
だがそれは僕が考えついたものではなく、ただ読んだだけ。そして、前世の知識だ。
前世の知識というのはこの際どうでもいい。
前世の知識を広めるのは嫌だけれど、それでもグスタフさんの役に立つのならばそれはこの際構わないとも思う。
しかしそれ以上に、どこまで説明するべきかわからない。前提となる知識も常識も違う目の前の女性に。
それに、この知識がどこまで通用するかもわからない。魔力も闘気もあるこの世界。人が金属を食べ、山よりも高く樹木が生長する世界。そんな世界に、その常識を当てはめて良いものかとも思う。
もちろん、全て話してみてもいいだろう。この世界において、僕よりも詳しく優秀な彼女なら、その中で必要な情報もより分けてくれる。
僕の逡巡を見透かしているのかいないのか、それはわからないがエウリューケはニ、と笑う。そして、ペチペチと屋根を叩いた。
「聖教会じゃね、寿命ってのは神様が定めたもんだって決められてんのさ」
「……聖典に、たしかにそう……」
「読んだことあっしょ? そうそう、だから、優れた奴は長く生きて、神のご意志に適わない奴は早く死ぬ。神に仕える治療師は、だから長生きすんだって」
「そんなもの、当てにはならないでしょう」
そんなものは単なる選民思想の元だ。自分たちだけが賢く優れていると、耳に心地のよい思想が書かれているだけの。
実際には知らない。だが、少なくとも僕はそう思う。
「当たり前じゃん!」
僕の思想に共感するようにケラケラとエウリューケは笑い、可笑しいというように屋根を叩く力を強めた。
「あんな奴らが優れてるもんかね! いるかもわからん神様に全部丸投げして、思考停止して、目の前の人間を見捨て続けてるあいつらが!」
エウリューケは足を組み、胡坐をかいてのけぞった。
「でもでも、それでも今のところ人体に一番詳しい集団は奴らなのよねー。だから、人の寿命についても、そりゃ詳しいのよねー」
「詳しいのに、そんな簡単な一文で済ませてるんですか?」
「そりゃ、それだけで充分なんだもん」
右手の人差し指の先で、エウリューケは屋根を叩く。
その先から、波紋のように光が広がった。
僕とエウリューケの間、板が張られた屋根の上に、光の線が広がる。
発光しているかのようなその帯は幾重にも重なり、やがて何かの図形のようなものを描き出した。
強い光で描かれた長方形。その中は淡く光り、水が湛えられているかのように揺らいでいる。
「『凡そ全ての生物は、闘気を帯びている。使える使えないにかかわらず』……と、これは君も知っている知識のはず」
「……ええ」
すると、この四角形は生物、中身は闘気を表しているのか。
「その闘気、一生のうちに消費出来る量は限りがあるんだ」
「回復はしない、と?」
そんな馬鹿な。闘気を使い消耗しても、寝れば大部分は回復するし、待っていても幾分かは回復する。その実例もあるし、僕も何度も体験してきた。
「するよ。でもそれは、こっちの分」
光が走り線を描く。四角形に繋がるように、もう一つ小さな四角形が作られる。光が大きな四角形からその四角形に流れ込むように移動し、なみなみと満たした。
「皆が見ている、君も見ているのはこの小さな四角形の分。回復はする、でもそれはこの大きな四角から小さな四角に補給されただけ。そして大元の中身がなくなれば、人の闘気は尽きる。闘気がなくなった場合の末路は君もご存じでしょうなぁ」
僕は唾を飲む。
即ち、死、だろう。
調和水を飲んだとき、普通の人が死ぬように。
「これが、聖教会の一派が唱える『寿命』の正体さ。闘気限界説。あたしも割とこの説を支持しとるんよ」
「……しかし、これではまだ説明不足です。闘気使いや魔力使いの寿命が長い理由になっていません」
むしろ、この説明では闘気使いは短命だ。総量に限りがあるのであれば、強大な闘気を使うサーロやデンアはすぐに死ぬ。それとも、《山徹し》は命を削る技とでも言うのだろうか。
「そ。足りない。だから、いくつか注釈が入る」
エウリューケがくるくるとこねるように指を回す。それにつられ、四角形がじわじわと大きくなり始めた。
「成長期が終わるまで、人の体は成長を続ける。そしてそれに合わせて、この大きな四角も大きくなって、中に湛えられた闘気も補充され続ける。成長期が終わるまではね」
ぴかりと一際明るく発光したのは、成長が完了したサインだろう。
「だから、成長期を終えるまでは寿命は尽きない。当然じゃな。そしてここで、闘気使いと普通の人間の明暗が分かれる」
「ここで……どこです?」
「体を鍛える行為は、この大きな壺を鍛えることなんじゃよ。あ、今便宜上つけたけど、この一番目の四角が大きな壺ね!」
言うが早いが、四角形がうねうねと姿を変える。上下がくびれた壺の姿になって、また水を湛えるように中の光が揺らめいた。
「そして、この小さな杯……二番目の四角のことな。小さな杯も少しずつ大きくなっていく。君たちが、闘気の量としているものがこれ」
「…………」
僕は黙って頷き、続きを促す。
「大きな壺から水が流れ込んで、小さな杯を満たしていく。そして小さな杯から人は水を汲み出して利用する。闘気使いは、この杯に汲み出す水の量を調整出来るようになった人間なのさ」
パシャ、とエウリューケは水辺で水を掬って飛ばすよう片手を振る。
それに合わせて飛沫が飛び……、ああ、本当に水撒いてる。下で通行人が僅かに悲鳴を上げてこちらを見た。通行人からは見える位置でないのは幸いか。
「……これは魔術ギルドのほうの研究成果なんだけど……、空気に重さがあるって知ってた?」
「……ええ、まあ……はい……」
水を撒いたかと思えば、突然の話題変更。……いや、違うな、これは話題を変更したわけではなく、理解しやすいように言い換えてるのか。
だが、僕がエウリューケの問いに肯定を返すと、エウリューケは唇を尖らせる。
「ちぇー、なんだいなんだい。へー、そうかいそうかいなんだよこのやろー、あたしより詳しいってかこのやろー!」
バタバタと手足をばたつかせ、エウリューケが吠えた。
多分、不味いことを言った……のかな?
「いえ、そんなわけじゃ」
「じゃあじゃあ、固定空気と空気はどっちが重いのかな? 言ってごらん? 言ってごらん??」
「……固定空気……」
「けー!!」
バタン、とエウリューケは倒れる。それから駄々っ子のようにゴロゴロと体を屋根に擦りつけるように転がった。
「じゃあもうあたしより詳しいからいいんじゃんもういいんじゃん……」
「か、完全無欠のエウリューケさんにはまだまだ劣りますので……」
慌てて取り繕った僕の言い訳。だが、その言葉にエウリューケはうつぶせの状態からちらりと僕を見る。
「えー、でもー」
「お願いします。エウリューケ師匠、ね?」
「……しょうがねえな!!」
ガバリと体を起こす。その顔は満面の笑みになっており……なんというか、ちょろい? で表現は合ってるのだろうか。
胡坐で座り直し、パンと両手を体の前で合わせ、エウリューケは気を取り直したように大きく息を吐いた。
「空気には重さがある。だから、空の上の上にいるときと比べて地上にいるとあたしたちの体には空気の重さがのし掛かってる。だから上空で空気を瓶詰めにすると、地上に持ってきたときに栓が中に押し込まれちゃう。そんな圧力を、あたしたちは感じてないのにね!」
そうすると、空気よりも水に喩えた方が簡単だと思うが。
「その圧力が、闘気でも起こると」
「そうそう。大きな壺が大きくなるに従って、小さな杯に流れ込む水の量は多くなり、そしてなだれ込む勢いも強くなる。そうするとやがて、普段は感じていなかった闘気の流れを感じ取れるようになる。その流れを制御する感覚を掴んだ人間。それが、闘気使いね」
板に描かれた光の図。その大きな壺と小さな杯の間に水門のような弁が描かれる。
開けば水が杯に流れ込み、閉じれば止まる。
沈静化したときが、この閉じたとき。活性化したときが開いたときだろう。
「戦うときでもなければ、闘気なんて体の維持以上には使わない。闘気使いは普通の人間が垂れ流しにしている闘気を無意識に節約して生きている。そして、そもそも大きな壺の容積も広く、そこには潤沢な在庫がある。だから、闘気使いは長生きなんだ」
……すると、《山徹し》が命を削る技というのもあながち間違いではないわけか。
いや、《山徹し》に限らず、闘気を使うという行為そのもの全般が。
「その大きな壺の大きさには個人差がある。極端な例を出すと、成長期終わり際にやっと闘気を身につけると、この大きな壺をあまり広げる行為なしに水門だけつけることになる。普通の人間よりは長寿になるかもしれないけれど、よく使う分どっこいどっこいでしょ」
それは、スティーブンの話だろうか。スティーブンにも当てはまる、長寿でない闘気使い全般に当てはまる話。
「そして水門の扱いにも個人差がある。他にもたとえばレーちゃんは、先天的な障害でこの水門を開くことが出来ない。先天的闘気賦活不全症。無理矢理こじ開けて、それでも一瞬だけこじ開けることが出来るのが精々だ」
「……ああ、だから」
昔戦ったときのことを思い出す。クラリセンでの戦闘で、レイトンの闘気の出力に矩形波的な波があった。本人の口からではないが、これは聞いてもよかったのだろうか。
「そして逆に、生まれながらに水門の扱いが上手い奴もたまに聞くよ。種類は違えどあたしと同じ……ね、あれだよね、言ってごらんカラス君!」
「……あれ……?」
僕が一瞬迷ったように首を傾げると、エウリューケはグッと体を近づけて僕の両肩に手を置く。圧が強い。
「さあ、今君の心に浮かんだ賛辞の言葉をさあ、口に出していってごらん?」
実は一瞬浮かんだが、あまり本人に言いたくない。だが、ここは言わなくちゃいけないだろうが……。
「……天才?」
「かーっ! あたしはそこまで言ってないけど! けど!! あのカラス君に言われちゃ否定出来ねえな!! かーっ! かーっ!!」
照れるように身をくねらせるが、言わせておいて何を言う。
それでも落ち着いたようで、肩を上下させ頬を吊り上げながら僕の方を向くと、エウリューケはふと視線を下げた。
「……普通の人間が長生きするには、どうすればいいかわかったじゃん?」
「大きな壺の中身を増やすか、……水門を閉じるか」
「そう。全部閉めちゃうとそれはそれで弱って死んじゃうから、それも適度にね。そこで登場したのが、じっちゃんがずっと飲んでいたあの毒水」
「調和水は、水門を強制的に閉める毒」
コクン、とエウリューケは頷く。打って変わって元気がなくなったその姿に、何となく年齢が大人びた気がする。
「いくつかの生薬と調合して、効果を調整する。闘気使いと同じように大きな壺の中身を節約するために」
「そして、それをグスタフさんはずっと飲んでいた」
僕は唾を飲む。
甘露は若返りの薬、とスティーブンは言っていた。だがそれは違った。
グスタフさんは長命薬と言っていた。それも、少し表現が違う気がする。
エウリューケの説明を聞いた僕には、甘露は『死ぬのを先延ばしにする薬』という表現がぴったり合う気がした。
「さあ、さあ、それが現状、そしてあたしの見解だよ。寿命は延ばすことが出来ても、いつか必ず終わりが来る。闘気が尽きて、水が涸れ、乾いた体が崩れ去る。人は必ず死ぬんだ」
「……魔力使いは」
「??」
絞り出すように口にした僕の反論。それに応えて、エウリューケが首を傾げる。
「魔法使いや魔術師、魔力使いの寿命が長い理由に、なっていません」
「……それもはっきりとしたことはまだ言えねんだよねぇ。大きな壺が小さくても、水門をほとんど開いていないからとか言うけどさ。ほら、あたしとか、か弱い細腕を見れば鍛えてないこともわかるっしょ」
そもそもエウリューケの腕は袖に覆われ見えていないけれど。たしかに小柄で、そして筋肉等もほとんどついていないのだろう。
「大きな壺、小さな杯、これは概念的な話で、そういう器官があるわけでもない。この大きな壺に闘気を補充出来れば何とかなるかもしれないけれど、概念的なそれに補充は出来ない。以上、じゃあじゃあ、君はどうすればいいと思う?」
「…………」
話を振られる。そうだ、エウリューケは最初に言っていた。これは『討論』だと。
ならば僕の側にも何か意見があるはずだ。意見を戦わせ、時にはすり合わせ、そしてよい結論を導く。それが討論の役割のはずだ。
しかし、僕の側にはそこまで大きなものはない。専門家相手に、無理な話か。
いいや、まだだ。
拳を握りしめる。僕の側の知識。どこまで言っていいのかわからないが、それでも何かが変わるかもしれない。
今回は、僕の信条を少しだけ曲げてもいい。曲げるべきだ、きっと。
「……エウリューケさんは、ムジカルに行ったことはありますか?」
「いつかは行ってみてえなー、案内しろこの野郎」
「……。まあ、その時には」
元気よく叫ぶエウリューケに反論出来ず、つい了承してしまう。まあその程度ならば構わないけれど。
僕は眼鏡の縁を持ち上げる。ずれてきていたわけでもないが、つい。
「ムジカルでは、こういった眼鏡や遠眼鏡が発達しています」
だから、というわけではないが……。
「同様に、小さなものを見る眼鏡も。顕微鏡というんですが」
「小さなものを見る眼鏡なら、あたしも作ってみたよん。あんたさんに微生物って奴をおしえられてからな。なんかうじゃうじゃ見えて気持ちわりーの」
エウリューケが頬を歪めて殊更に体を震わせる。胸の前で竦めた腕に力がないので演技だろうが。
だが、顕微鏡を作っている。本当に、どこからその発想が出てくるかわからない。
天才とは、本当に理解出来ない人種だ。
「人の体……に限らず、生物は小さな粒で出来ている。これも、ご存じですか?」
「……おうおう。知っとるけど」
ニヤニヤと笑ったどや顔。褒めてほしいのだろうが、褒めはしないでおこう。
「その粒が増えて、人の体は大きくなる。そして、傷が治る。これも多分ご存じですね」
「…………」
エウリューケが黙る。この先僕が何を言うのかと期待したような顔で。
期待して貰って申し訳ないが、これは僕が発見したわけでもない。おそらく、僕が普通に生きていたら自分で発見することは一切ないはずの知識だ。
だが、それでも。
脳裏に、あの日殺したレヴィンの顔が浮かぶ。
殺す直前の憎々しげな顔。それが嫌らしい笑顔に変わり、何かを言おうと口を開いて。
『ほら、お前も』
そう言っている気がする。声ももう記憶の彼方に消えているが。
うるさい。
今は、黙れ。
「その中に、設計図のようなものがあります。粒……便宜上、細胞と言いましょうか。細胞が増える際に使う、設計図が」
「ほう、ほう?」
「細胞が増えるときに見ることが出来ればわかりやすいんですが、増えたり減ったりする糸状の何か。寿命は、それが傷つくことで生まれると、そういう話もありました」
ムジカルで唱えられていたわけではない。これは僕の前世の話。それも、語弊が多分に含まれるざっくりとした言い方。
僕が詳しくないので、そもそも詳しく話せないということもあるが。
エウリューケに倣い、僕も屋根に光を描く。細胞分裂の簡単なアニメーションだ。
「この、分裂のとき棒状になるこれ。これが、……溶液で染まるので染色体と言いましょうか。この染色体が、設計図です。そしてこの先、終端に当たる部分が、分裂の度に短くなっていく」
「……限界、と?」
「そう、それが擦り切れたら限界で……、もう増えることも出来ず、増えないから傷も治らない。これが全身で起こり、もう修復不可能になった状態が、寿命を迎えたということ」
未だ動かし続けているアニメーションを、エウリューケが真面目な顔で見つめる。
指を咥え、それでもその動きを真剣に見つめ、先程までのおどけた感じは影を潜めていた。
「……これが、僕の認識です」
エウリューケは顔を上げる。真剣な顔で、僕を見つめていた。
「じゃあじゃあ、この設計図を直すことが出来れば、寿命の枷は外れるというのかえ?」
「……どうでしょうか」
僕は即答出来ずに悩む。この話には、闘気の要素が含まれていない。
闘気限界説と競合するわけではないが、それでも対応させるとおかしな点がいくつもでるだろう。
男性の笑い声が耳に響く。
エウリューケが先程殺した男性の声ではない。僕の脳内から響く声だ。
エウリューケがガンガンと自分の頭を叩く。
「信じがたい話だし、あたしゃそこまで確認してないからね、あたしもわからんけど……」
バサバサと羽音が響く。そちらにエウリューケは目を向け、それから溜め息をつく。
羽音の先を僕も見れば、そこには灰色の小鳥。足には鉄の筒がくくりつけられていた。
「……残念ながらお時間きましたえー、延長は出来かねますなぁー」
「仕事、ですか」
僕も息を吐く。たしかに、エウリューケを長い間ここで拘束しているわけにはいかないけれど。
エウリューケは立ち上がり、眼下を見た。
血に塗れた死体がいくつも運び出され、通行人が眉を顰めてそれを見守っている。
「カラス君のさっき言ってた話、あたしも実証実験してみましょうね。本当だったら、少なくとも、聖教会じゃ知られていない新発見じゃ。ムジカルも侮れんわい」
「……よろしくお願いします」
ムジカルの、というところは信じてくれたらしい。それが逆に、僕の胸を刺したが。
思い出してみれば、下から血の臭いがした。人が死んだのだ、それが当然だろう。
「君は、じっちゃんに生きててほしい?」
「……はい」
当然。そう言いたい。今生で一番世話になった人物。あの人がいなければ、僕は今でも野生の人間として生きていただろう。今、半分ほどは社会に足を踏み入れられているのは、あの老人のおかげだ。
「善悪の話とかはレーちゃんの方に聞いたほうがいいけどさ。あやつなら、くわしくいやらしく話すからいいけど。でも、……さっきの強盗の話覚えてる?」
「今まさに、下で亡くなっている方たちですね」
僕が視線を向けて呟くと、エウリューケは頷く。
「適当な民家に押し入って、殺して奪って生きていた。どう考えても悪人だよ」
憎々しげに呟いて、それからエウリューケは相変わらず真面目な顔で僕の方を向いた。
「それはじっちゃんも承知だった。盗品の売り先はじっちゃんだったし、黙認してたんだよね。ちょっと前までは」
黙認。放置していたということだろうか。まあ、売り先が石ころ屋に限られている以上は、統制が取れているとしてグスタフさんも放置するのだろうけれど。
「……何が変わったんでしょう」
盗品を石ころ屋で売りさばく強盗。もちろん本来その存在は許されるべきものではない。
グスタフさんはそれを黙認していた。なのに、ならば何故今エウリューケがここに?
「今朝。石ころ屋の工作員かつ協力者の家に彼らは押し入った。だから、彼らは今日は大儲けだったんだ。笑いが止まらないはずだよね、人生を何回も寝て暮らせるほどの金が手に入ったんだもん」
僕は息をのむ。石ころ屋の関係者の家に押し入り、成功させた。それが示す、二つの事実に。
一つは、エウリューケも言っている。大金が手に入るということ。必要経費や報酬として潤沢な資産を持つ彼らを襲撃し成功すれば、一般人ならば泣いて喜ぶ資産が手に入るだろう。
そしてもう一つが。
「成功、出来たんですね」
石ころ屋の工作員。彼らは例外なく無力ではない。手練れと言うほどでもないが、それでもほぼ必ず何かの心得はある。そこらのごろつきに負けるような者たちではない。
「全員元がつくけれど、一人は探索者。残りは騎士と衛兵。君にもわかるように言うと、全員が色付き相当だったみたいだよ。だからわざわざ、あたしがここに来た」
……もったいない。僕はそう思った。
色付きの集団。真面目に働けば、どれほどの名声と資産が何の良心の呵責もなく手に入ることだろう。
「それはこの際どぉーでもいいんだけどね。でも、彼らは昨日まで野放しだったんだ。そして今も変わらず、じっちゃんにとって脅威でもなんでもない。それを、殺した」
「……石ころ屋の店主としては、普通の行動では」
自分の協力者が殺され、そして金品を奪われた。奪い返すのは報復もあるし、組織運営としても必要なものだろう。
「昨日まで野放しだったのに、自分の協力者が死んだから」
エウリューケは言葉を切る。それからもう一度眼下を見下ろすと、唾を飲んだように見えた。
「敢えて言うよ。身勝手じゃね? 人に迷惑をかけていた奴を放置していたのに、いざ自分に刃が向いたら殺したんだよ?」
「…………」
エウリューケも本心ではない……気がする。無理矢理に言っている……と思う。僕の推測だけれど。
「君は、生きてほしいと思ってる。でもでも、死んでほしいと思っている人もいると思うよ。あたしは、ね」
それでも、僕は。
そう言い返したい言葉を抑える。なんとなく言ってはいけない気がして。
エウリューケが笑顔を作る。いつもの天真爛漫な笑顔を。
そして僕にそれを向けて、少しだけ跳んだ。
「……討論ってほどの時間も作れなかったない……、しゃーなし! じゃね!! 何かあったら連絡するからね!!」
「ええ。また」
目を瞑り頷くと、エウリューケはまた跳ねる。着地する瞬間にはその姿も消え失せて、何もいなかったような静けさが残る。
下から香る血の臭いも、風に吹かれて消えていった。




