退屈しのぎ
「そうですか。では、戻りましたらよろしくお伝えください」
『スケルザレは遊行の旅に出ており、あと数ヶ月は戻らない』。スケルザレの召使いの女性にそう告げられた僕は、軽く頭を下げて一歩下がる。
門前払いともいえるが、そもそも目的の人物がいなかったので仕方あるまい。
僕は召使いの後ろ側、白亜の城ともいうべき宮殿を見上げた。
一応の見た目は寺院のような古めかしい感じなのだが、近寄ってみれば壁という概念がないかの如く、素通しの見た目に白い柱が張り巡らされている。
昔見たインドなどの建築に似ている気がするが、それともまた少し違う気もする。
外側にある回廊の床材は透き通った砂で、わざわざガラス質の砂を選別して入れているようだった。
おそらく、ゴミが混ざれば目立つだろうに。それが全く見えなかったのは使用人の掃除の丹念さによるものだろう。
内部も丁寧に手入れされ、掃除も行き届いているようで埃も極端に少なく、中の石床は寝転んでも砂が肌を擦ることはないと思う。やったことはないが。
手入れの大変さはその建物の周囲にまで及んでおり、目隠しのような木々は葉っぱの大きな椰子のような植物で、しかもその根の位置には団粒状の土が敷いてある。
暑いこの国では土中に水分をなかなか保持できず、水脈を使わない種の植物は一日に数度の水やりをしなければいけないのに。
今日はその城の主、スケルザレに挨拶に来たわけだが、やはりいないらしい。
実は、スケルザレに会ったことは一度しかない。
この街に来た当初、エネルジコの紹介状を携えてこの城に来たとき。その時だけだ。
召使いに視線を戻す。僕をじっと見ていたが、待たせたらしい。
もう一度頭を下げると、召使いも頭を下げる。この国生粋の作法としてはお辞儀はないが、しかし作法すらも混ざり合っているこの国の人間は対応してくれた。
踵を返し、街へと戻るべく僕は歩き出す。
ここはジャーリャの郊外ともいえる場所。人も建物もまばらで、すぐ目の前が砂漠となっている。喧噪は遙か遠くにあり、この街のそこかしこで聞こえる弦楽器のような音も微かに漂う程度だ。
視線の先には石と土ばかりでもオアシスのような豊かな街。その街の中央にある城、宮殿は何階建てにもなり高く聳え立ち、標以上にその街の位置を示していた。
エッセンの王城は、上部が吊られた布のような形で高さはあったがどこか平べったい印象だった。
リドニックの王城となれば、透き通ったガラス質の材質も相俟って、お伽噺に出てくるような城だったと思う。
だがこの国の王城は、まさに宮殿だ。人に紹介する際には、王城というよりも王宮と言った方がおそらく正確な印象が伝わるだろう。
太い円形の石柱で支えられた石の天井。石材の質だろうが、赤みがかっていたり青みがかっていたりと様々な色で形作られている。遠くから見れば混色となり灰色がかって見えるが、近寄ってみればモザイク模様にすら見えた。
形的には、もしもミニチュア化すれば、飾り棚という風にも見えるかもしれない。
円柱と角張った天井で形作られた高い宮殿。その上階奥深くに、この国の王が住む。
勇者の時代の終わり際にこの国は生まれ、そしてエッセンと並ぶ大国となった。
千年近く続く大国。その象徴である宮殿。
砂上に立つ楼閣。日本ではすぐに消え去るものというたとえだったと思うが、きっとこの国の場合はそれは褒め言葉になるのだろう。
しかし、残念だ。
スケルザレ、一応世話になったからと挨拶をしようと思ったが、結局この国にいるうちには再度会えずじまいだった。
一度会って一言挨拶をと何度も来たのに。
まあ仕方ない。多分本人も気にしないだろう。エネルジコの紹介状を持っていっただけで、僕の素性も何も聞かずに自分の城に逗留を勧めて、それきりなのだから。
彼は、僕に無関心だった。きっと僕にだけではない。多分召使いや客にまで。
彼は、ダルマのようにいかめしい顔で、雪だるまのような体型をしていた。
まるで瞬きをしないかのようなまん丸な目で僕を見て、『ふむ』と呟いたのがつい昨日のように思い出される。インパクトあったし。
ここで大したことをしたわけではない。
彼がしたことといえば、僕を家に泊めただけ。
そして気が晴れるまで逗留してもいいが、その間、部屋から出るなと言われただけだ。
案内された部屋での生活は、それなりに快適だったと思う。
陶製の起伏のない壁。水洗のようなトイレに、水浴びも出来る水場がついた部屋。三食を召使いが出してくれて、メニューも豊富で飽きることはなかった。
藤のような植物で編まれた柔らかいベッドは少し不安定だが慣れれば心地よい。
窓もなく、食事の度に補給される照明の燃料の大きさも不規則だったため、時間の経過が食事でしかわからなかったというのだけが少しだけ不便だったが、そのおかげで時間を気にすることもなかった。
話し相手すらいない静かな生活。自分の立てる音だけが、僕の耳に響き続けた。
何となく、僕はその生活から病院を連想した。
多分前世でも病院での入院生活をしたこともなかったと思うが。
そんなある日、不意に体が動かしたくなった。
ただベッドの上で横になって、食事を待つ生活をしていた僕にとって、それは大きな変化だった。それまで一日のリズムすら自分でよくわからず、ただベッドの上で思考に耽りながら食事を待っていた僕からすると、凄まじい変化だ。
そしてその日、外を見たくなった。
今外は明るいのか暗いのか、それすらもわからなかったのに、今の時間が気になった。
部屋を出るときは、逗留をやめるときだと聞いていたのに、その時僕が躊躇せず部屋を出たのは未だに不思議だと思う。
食糧の不安もほぼなく、全くの不自由のない生活をしていたのに。
そして、中での生活で三ヶ月ほど経っていたというのはその時に初めて召使いに聞いたことだ。
彼女は笑顔で言っていた。
「飽きた人も、だいたいは十日ほどですし、長くても一月もかからないんですが。今回はしぶとかったですね」と。
召使いに聞いてみれば、どうやら以前エネルジコも同じようにここで生活をしたことがあるらしい。そして、エネルジコに限らず他の何人もの人間が。
正直、そこだけ聞いてみたら何となく宗教活動に聞こえて少しだけ気味が悪くなった。
日本にいたときに、どこかの宗教では最低限の食事だけで独房のような小部屋で経を唱え続ける修行があると聞いたことがあった気がする。
数ヶ月も続けておいて今更とも思うが。
だが、召使いの言葉に含まれていた『飽きた人』というフレーズで、何となく違う気もした。
エネルジコも言っていたのだ。『私はもう、飽きてしまったが』と。
多分、ここは同じような人が集まるのだと思う。
このムジカルの国民は、ほとんどが享楽的な生活をする。給付金を得て、ただ遊んで暮らす日々。それはきっと素晴らしいのだろう。
毎日何の心配もなく、食べて寝て遊んで暮らす。たまに近隣で戦争が起きれば戦い、そしてそれでまた給付金を得る。
毎日、三大欲求が全て満たせる暮らし。何の心配もなく明日を迎えられる。生まれてから死ぬまで。
きっと、エネルジコはそれに飽きたのだ。
そして、木鳥を作り始めた。僕にここを勧めたということは、多分本人もここを出た後で。
スケルザレ邸での暮らしは安息だが、一切の変化がなかった。
時間の感覚もなく、娯楽は一切ない。
普通の人間が入ったのであれば、すぐ出てくるだろう。話し相手もおらず、賭博も酒などの楽しみもない。退屈を苦痛に感じ、三日ほどで飛び出してくるのだろう。
このスケルザレ邸では、ただ人は生きているだけだ。必要最低限の栄養補給をして、呼吸だけして生きることになる。
人とも話さず、酒も娯楽も一切存在しない。
だが、かつてのエネルジコたちにとっては違う。……僕も含まれるか。
このスケルザレ邸も外も、変わらないのだ。
何の心配もなく明日が迎えられる日々。興味がある娯楽がないのも同じで、退屈なのは中も外も変わらない。
だから僕は、ずっとこの邸内にいられた。内も外も変わらないのであれば、外へ出る必要がないから。
この部屋から出るためには、なにか外へ出る自発的な理由が必要なのだ。
本当にやりたいことがなければ、人はこの部屋に留まり続ける。
そして何かをやりたくなれば、この部屋から強制的に出なければいけない。
安楽な生活を捨ててまでやりたいことが見つからなければ、ここから出ることは出来ない。
そして外に出る理由。エネルジコにとってはそれが木鳥作りで、僕にとっては歩くことと新しい景色を見たいという願望だった。
……というのは、だいたいが想像だ。
怪しげな宗教を想像してしまい、エネルジコがそういう者ではないと思いたいがための。そして僕がそういうのにひっかかってしまったわけではないと思いたいがための。
多分大まかには正しいと思っているが、本当に僕の想像が正しいのであれば、エネルジコもよくこんな矯正ギプスのような解決策を提示したものだ。
やりたいことが見つからないという僕の悩みへの答えとしては、たしかに効果はあったと思うけれど。
大体、スケルザレについても僕はほとんど何もわからない。
召使いにも色々と聞いてみたが、『旦那様は珍しいものを集めるのがお好き』『年の半分はこの街にいない』という感じの話しか聞けなかった。多分、召使いたちもスケルザレについてはほとんどわからないのだと思う。
年の半分とは言うものの、彼がいたという噂を聞いて僕がここに来たときに、いたことがないのだが。多分、年に数日もいないと思う。僕が会えたのも奇跡のような偶然だ。
それだけ不在ならば、奴隷が財産を持ち逃げしてもわからないくらいだと思うけれど……、そういうことがなさそうなのも不思議なものだ。
そんなスケルザレにも、会えたら聞いてみたいことが色々とあったのだが、まあいないのであれば仕方ない。いつか会えるかもしれないし、会えないかもしれない。
その辺は巡り合わせというものだろう。殊更に求める気もない。
では次に、必ず会えるだろう人に会っておこう。
あれから十日以上経っている。ガランテに、一応会っておかなければ。
僕がガランテの娼館を訪ねた時には、昼を少しまわったくらいだった。
「……あんたも急に動くねぇ。ま、仕方ないか」
勢いよく煙管の煙を吐き出し、ガランテは溜め息をつく。艶のある紫のグロスが吸い口についていた。
「イラインだったね、元気でやるんだよ」
「ええ。もちろん。ガランテさんもご健勝でおられますよう」
「ハハハ、金ももらえないのに体なんぞ壊してやるもんかね」
体を壊すのは多くの場合不可抗力だろうに。まあ、自分が壊す気もないというのは重要だと思うけれど。
「そういえば、フラム様が、あんたに会えないことを残念がってたよ」
「……僕は向こうを知りませんが、何故そんなことが起きるのでしょうか?」
察しはつくが、あえて聞く。ガランテは、僕の言葉にくしゃりと顔を歪めて笑顔を作った。
「わかってんだろ? あたしが流した、あんたと関わりがあるっていう根回しの噂のせいさ。そこまで大きくなるとはあたしも思ってなかったんだけどね」
「先走ってやるからそういうことになるんだと思います」
その言葉からすると、僕が石結と戦っていた時にはそんな噂を流していたのだろう。僕の名前がそんな宣伝に使えるとは思えないが。
だが、だから、ガランテは僕を連れて王宮に入りたかった。僕をこの娼館の従業員だと誤認させるために。……そういう手は、スティーブンで知っている。
「その言葉でハモルは青い顔で卒倒しそうになってたけど、それ見て笑ってもらえたからいいのさ」
「……本当に、残念がっただけですか?」
僕がそう尋ねても、ガランテは意味ありげに笑って答えない。
何となく嫌な気がした。
「……まあいいです。それでは……」
「あいつのことは聞かないのかい?」
僕が話を打ち切り出ようとすると、ガランテの方からそう尋ねてくる。だが、その答えは決まっていた。『あいつ』が誰だかもわかっている。
「ランメルトさんのことでしたら、僕が心配するようなことはないでしょう。……そうですね、本当に逃亡奴隷じゃなかったかどうかくらいは気になりますが」
「あいつの背中は真っさらだったよ」
「そうですか。ならば、他は結構です」
「薄情だねぇ」
ケラケラとガランテは笑う。そして黄ばんだ書類を一枚手に取り、広げてから首を鳴らした。
「じゃ、はやいとこ帰るんだね。そろそろ水くみが終わる頃だ」
「そうします。それでは」
僕は頭を下げて、ガランテはそれを見ずに書類を見つめる。
いつもの通りだ。そして、ならばもう出ていこう。
廊下を通り、外へ出る。
途中、見送りに来たセシーレには心付けを渡した。その掌の中を見つめて目を丸くしていたが、高額貨幣だったからだろうか。確認してないからわからないけれど。
元気で、と手を握られ何度も上下に振られた。客ではないのに律儀なことだ。
いくつかの得意先も回り、僕は砂漠の前に立つ。
さて、この街を出ていこう。もうここでやることはない。
標と行き先を確認し、僕は一歩踏み出す。
日は傾きつつあるが、構わない。
僕は自分の影の指す先を目指すように、街を背に歩き出した。




