閑話:熾火
2019/9/12 後半に若干の加筆があります
「……そういった報告書のまとめがあるはずだ。閲覧させてくれ」
「それは、また、困りますよ……」
詰め所にいた衛兵のうち、ウェイトは手近な衛兵に声を掛ける。道場でも何度も見たことがある。気弱だが、組み手で何度打たれても立ち上がるその根性は認められる男だった。
「一応部外者に見せるわけにはいかんのです」
「なに、お前が目を離した隙に、我が勝手に手に取り覗いただけだ。それでいいだろう」
「よくないですよ。ばれたら怒られちゃいますって」
それは資料の管理能力不足という。何も問題ないはずがなかった。
「……この詰め所の責任者も知っている。お前が咎を受けることはない」
衛兵には水天流門下生が多いが、そうでない者も多い。衛兵は、小声で話しながらきょろきょろと辺りを窺う。
この衛兵も、ウェイトの性格は知っている。まさしく大火のように、決めたら決して退かない男だ。
衛兵は、唇を結んで溜め息をついた。
「少しだけですよ? 交代が来るまでに済ませてくださいね」
「わかった」
戦況の素早い把握は戦術家にとって重要な能力だ。わずかな時間さえあれば、だいたい把握できる。ウェイトには、その自信があった。
渡された、今期の報告書の写し。
副都であるミールマンには、近隣の街で起きた事件の報告書が定期的にまとめられて送られてくる。写しであるため情報の欠落も多い報告書だが、今までは誰もそれを問題視しなかった。
「……あの村……いや、街か。あの街のものはないのか……?」
ペラリペラリと捲りながら、ウェイトは呟く。あの様子から、まだ出来て間もない街なのだろう。だが、ないのも変な話だ、と思った。
酒場での喧嘩による男二人の死傷。夫を毒殺したまさしく毒婦。他の街では山ほどあるのに。
そして、数十枚の報告書の束のうち、ようやく一枚の紙を発見することが出来た。
ただそれも、ウェイトの意にそぐわないものだったが。
「……なんだ、これは」
そこに書かれていたのは、まさしく報告書だ。
だが、その起きている事件の概要も簡素すぎる。
曰く。『近隣の街より、街道を通っていたはずの者がいなくなったとの報告があり。付近を見て回る際に、注意すること。行方不明者はリドニックの人間』
それだけだ。簡素で、とても人が消えたことに対する対応ではない。
衛兵の擁護をするならば、街にとってはこれだけで充分だった。
消えた人間はリドニックの人間で、街の人間ではない。街の人間の訴えがあったわけではなく、消えた人間がその街道を通っていたかすら曖昧だ。
本腰を入れて山狩りなどの捜索をするというところまではいかない。
ウェイトもその文章に薄々そう思いながらも、何となく薄ら寒さを覚えた。
『リドニックの民』。そこを強調する必要があるだろうか。気にしすぎかもしれない。それはたしかにその通りで、伝えるべき情報だ。だが、それでも、今カラスが捕縛されたという事実を考えて、ほんの少しだけ違和感を持った。
ウェイトは顔を上げる。
何となく覚えた違和感。それを解決するためには、おそらく少しだけ情報が足りない。
だが、ウェイトも一つ情報を持っている。明らかな無実のカラスが捕縛され、そしてそのカラスも現行犯を拘束していたと。
事件に進展があったはずなのだ。
昨日の今日でここに報告書が回ってくるはずがない。しかし、あの街の衛兵たちは進展した情報を持っているはずだ。
カラスが捕縛されたのは、昨日。そして先ほどカラスは釈放された。
報告書の記載が変更されたはずだ。それを、入手したい。出来れば石ころ屋と関わらない形で。
資料を差し出しながら、ウェイトは衛兵に話しかける。高圧的にならないように、慎重に。
「この街の事件の報告書、回収を急げないだろうか」
「……何故です?」
そそくさと報告書を荷物に隠すように紛れ込ませ、衛兵は聞き返す。何を不審に思うことがあるのだろう。いいや、そもそも何に興味を持ったのだろう。ウェイトの心中を推し量れず、疑問符ばかりが脳内に飛び交った。
「詳しくは話せないが、進展したはずなのだ。この犯人と思わしき人物が複数人、捕縛されたはずだ」
「……はあ……?」
断言するその口調。だが、衛兵の疑問は深まるばかりだ。
仮にウェイトの言葉通りに事件が進展しているといっても、だからなんだというのだろう。進展した、つまりそれはその街の衛兵たちにより解決に向かっているはずなのだ。
それに、仮にその詳細を知ったところでウェイトには何も出来ないはずだ。なのに。
「これは指示ではない。頼んでいる。お前の上長には説明しておくし、早馬を飛ばせば、行って昼までには帰ってくるだろう。頼む」
「……わかりました」
命令系統からすれば、ウェイトの命令を聞く必要はない。いかに王直属とはいえ、任務外で衛兵を動かす権限は持っていない。
だが、同じ道場の先輩というのはそれなりに大きな存在だ。師には逆らえず、師兄も無下には扱えない。
断りたい。
だがその言葉を無理矢理飲み込んで、衛兵は了承の言葉を口にする。
おそらく上長も同じような判断をするだろう。そう無理矢理に納得して。
ウェイトもわずかに心苦しく思う。
権限の逸脱。いつもならばこういったときに、プロンデが上手く言ってくれたものを。
権利の悪用とまではいかないが、濫用。それに、立場による圧力。
そういった、使う側の苦役までいつも自分は相棒に押しつけていたのだと、そう省みた。
「それでは、昼頃には戻りますのでそれくらいにここに」
「頼む」
ウェイトは同じ言葉を繰り返す。それくらいしか言えない自分が、酷く恥ずかしかった。
ミールマンの中央部、その一角。
与えられた居室に戻り、ウェイトは安楽椅子に腰掛ける。
この街特有の石だけで構成された部屋の中、寝台と机、そしてその椅子だけが生活感を彩る全てだ。
木の温かみなどウェイトは感じない。だが、それが視界に入るだけで、少しだけ寒々しさが和らいでいる気がした。
見上げる天井は、炎とそれを揺らす通風口からの風でちらちらと影を作る。
椅子を揺らす。
ウェイトはプロンデとの最後の会話を思い出す。
この数日間、ずっと続けている作業だった。
「奴らは弱い者、か」
恐怖に負けて死を選んだ者たちを、ウェイトはそう評した。
その通りだろう。弱いからこそ恐怖から逃げて、そして弱いからこそ盗まなければならなかった。
だが。
「『私の剣は人を守るための剣』」
暗唱するのは、幼いころ貪るように読んだ勇者の物語。そしてその言葉は、勇者の物語が普及しているこの国の騎士の標語のようなものでもある。聖騎士の場合は、『人』ではなく『人と法』となるが。
聖騎士は、王のための剣だ。だがその剣は、弱き者を守るために。
ぎい、と安楽椅子が鳴る。
レイトンを殺すために、ウェイトは聖騎士を志望した。
衛兵となり捕縛するのではなく、死刑の執行人となり首を切るだけではなく、その現場を押さえて即座に殺害できる職として。
しかし、それでも誇りはある。
この身が聖騎士である以上、この身は王の剣だ。この剣は人を守るための剣だ。そうであろうとしてきたし、そうである自信もあった。
ならば、どうするべきか。
剣が向けられる先は、王の敵だ。
王の敵は、この国の民の敵だ。社会を乱し、法に背く。
石ころ屋はその最たるものの一つだろう。
法に背き力を蓄えた彼らを悪人が頼り、またその力を増していく。
強盗を支援し、盗品を扱い、禁止薬物を流通させる。
民の身にありながら、私刑を躊躇なく行い、断罪する。社会を乱す悪党ども。
あの者たちが一つ動く度、法が侵される。
法治国家のエッセン王国。万人が法に従うというその原則が破られていく。
倒すべきだ。倒さねばならない。
彼らも、彼らではない別の犯罪者たちも。
そのために。
ウェイトは拳を握りしめる。怒張した前腕の血管が張り裂けそうになろうとも、緩めず。
プロンデは言っていた。
カラスは試金石だと。
ならば。その試金石が悪事を働かない世の中であれば。
今更ながら、ウェイトは朝の発言を悔やむ。
たしかにあの男ならば、牢獄を破壊して逃げられた。衛兵を殺害し逃げることも出来た。
それが出来た。なのに、しなかった。その意味が、ようやくウェイトにもわかってきた気がする。
そしてウェイトの発言がもしもカラスに伝わったら、伝わってしまったら、そのカラスが感じる感情の種類も。
息を吐く。
なるほど。次に手札を出すのはこちらの側だ。
そろそろ時間だ。頼んだ衛兵は報告書を入手し、帰ってきた頃だろう。
昼食もとらず、水だけを口に含む。
渇いた喉に、それが染みた。
「どうも、現在は一応犯人の一人が捕まったみたいですね」
「一人? 二人ではなく?」
衛兵が資料を紹介する言葉に、ウェイトは疑問を口にする。カラスは二人捕まえたはずだ。そしてその二人も被害者として扱われ、そしてカラスが捕縛された。
誰かが捕まるのならば、その二人が一緒に捕まるはずだ。もしかして、どちらか……その場合は父親だろうが、父親が一人で罪を被ったとでもいうのだろうか。
差し出された報告書を、ウェイトは読む。ついでに、と預かってきたミールマンに上げられていなかった報告書の写しの数に眉を顰めながら。
「街道を歩いていた親子二人に暴行を加えて出頭してきたカラスと名乗る自称探索者を取り調べたが、明確な証拠も証言も得られずに釈放。その後、衛兵長のマルセルが、暴行を加えられた親子の父親、ロイク・ロルモーに再度話を聞いたところ逆上、証拠となる金品も押収されたことからロイク・ロルモーを犯人と断定。娘の関与も認める発言から娘ロマ・ロルモーを追ったが、娘の行方は杳として知れない。近く、付近の森を捜索する……、……?」
概要を一息に読み上げたウェイトの手に力が入る。報告書の隅がくしゃりと丸まった。
「……間違いが、あるな」
声が震えるのが自分でもわかった。
カラスの釈放された理由。そこが、明確に間違っていると思った。
「どこです?」
衛兵はその言葉に聞き返す。ウェイトに何故それがわかるのかという疑問点は置いておいて。
「カラスが釈放されたのは、奴が事件発生時に違う場所にいたとわかったからのはずだ。何故、このような曖昧な書き方になっているのだ?」
自分の名前が挙がるのも困る。だが、誰かの証言によって間違いだとわかったからということが書かれていない。そして、確定できたはずの探索者も『自称』とつき、そしてカラスは出頭したわけではないはずだ。
まるで、『本当は犯人だが、断定できなかったため諦めた』とでも言わんばかりの文章。事情を詳しくは知らないウェイトですらも、不審に思うほどに。
「書いたのは、このマルセル本人か。……どんな人物かわかるか?」
「そこまではさすがに……。顔も見ていませんのでわかりません」
ペラリと報告書を捲れば、今までにわかった事件の概要が読み取れる資料が添付されている。
死体は今まで見つかった者だけで十八名分。うち、尋問により吐かれた余罪で殺された者の白骨死体まで二名分見つかっている。
手口は簡単で、少人数の通行人相手に限定、街道で娘が気を引いた隙に背後から襲いかかるというもの。
文字が乱雑になっているのは、頼まれた衛兵が急ぎ写したからだろう、その手間にウェイトは頭が下がる思いだった。
そして、『被害者』としての親子の証言まで記録されていた。
「木の実を採取しようと街道を歩いていたところ、突然小さな男に襲われた。男が奇声を上げて身が怯んだところを、ロマは大きな棍棒で強打され気絶、それから男は父親の頭を小突き、胴体を踏みつけて怪我を負わせた。……ハ、馬鹿な」
読んでいて、思わずウェイトは口に出してしまった。
あのカラスがそんな真似をするものか。素手でも充分な凶器となるあの男が、戦う力を持たない者を相手に棍棒など使わない。
それに、魔法がある。
魔法使いならば、威嚇でも奇声など上げず派手な魔法を使う。その方が威嚇としても効果的だ。
それからまた、とある文章が目についた。
報告書にまた違和感を覚えて。
「何故、この娘だけ個人名で書かれている……?」
「そういえばそうですね。知り合いだったからとか?」
ウェイトの呟いた疑問に、衛兵も同意する。通常、こういった報告書は口語をそのまま記しはしない。表記を揃えるはずだ。父親というのならば、娘。ロマというのであれば、ロイクと書かれているはずなのに。
それに、娘の部分に書かれている描写。
彼らから聞き取り、書いた衛兵の名前を確認すればこれはマルセルではない。
わずかな違和感だ。
この『男』が無実の人間だと知らなければ、流してしまうかもしれない文章。これが嘘の報告だと知らなければ、気付かなかった可能性が高い違和感。
だが、リドニックの強調に、カラスへの誘導に近い文。表記の揺れ。重なった違和感に、ウェイトの視界が少しだけ晴れた気がした。
この違和感は、以前にも何度も覚えたことがある。石ころ屋との争いで。レイトンに、『石ころ屋の工作員』と嘲りを受けた活動の中で。
そうだ、これは『そちら』だ。それも、いつもは手遅れの。
ならば、まだ間に合うかもしれない。
「捕まえるぞ」
「え?」
「ロマ・ロルモーを捕縛する」
生きている彼女に会う。それがまだ間に合うかもしれない。
だが衛兵は反駁する。それは無理だと思い。
「しかし、彼女は森に隠れていると疑われてますが?」
「ロマは戦う術を持つまい。持たないから、囮に徹して父親が通行人を襲っていたのだ」
ウェイトは即答する。
「地図を出せ。街道だけが描かれたものではない、衛兵に配布されているものだ」
「それは一応機密で……まあ、聖騎士さまであれば問題にはなりませんか」
衛兵や騎士に配布されている地図。それは、一般向けに発表されているものとは少し違う。
一般に配布されているものは簡素なもので、方角と目印、それと大きな街道しか描かれていないものがほとんどだ。細かいものでも、脇道が増えているだけの。
だが、衛兵たちのものは違う。
ミールマン周辺や、その周囲にある村や街の位置、地形やものによっては植生の変化に至るまで描かれている。
一応、地形の情報は軍事機密に近い。猟師や探索者に独自に伝わっている地図もあるが、それらと同じく一般に使われているものとは精度も情報量も段違いに多かった。
ウェイトの目が少しだけ輝く。
場所を会議室へと移し、数枚の大きな地図を広げ、指で辿る。
「森の中に隠れることは、戦う術を持たない者にとって厳しい。短時間ならばどうとでもなるが、数日間隠れることは難しいだろう」
件の街に接している森はネルグの森だ。獣も出るし、まだ拓かれていないため魔物すら目撃されることがある。そんな中、長期間森に留まることは慣れていない一般人にとっては恐怖でしかない。
「また、近くの村に逃げ込むこともないだろう。住民が少ない開拓村は、どうしても余所者が目立つ。逃げるには適していない」
ウェイトの頭脳が全力で働く。
これは捜査ではない。敵の能力を考え、目的を視野に入れ、その行動を予測する作戦計画だ。
聖騎士団〈日輪〉で部隊に分かれて戦闘を行う部隊演習。その最短勝利記録および最多撃破記録。それらの記録を持つ優秀な戦術家としての頭脳が、敵兵を追い詰めるために尽力していた。
「女の足、行軍速度を考えて、逃げだした時間から考えると馬などは手に入らない」
ウェイトにとっては最初からわかっていたような情報。しかし一応、衛兵にも説明を加えていく。協力してもらわなければいけないのだ。あの悪党どもに先んじるために。
「恐らく、あと数刻後、日没前にロマはこの街に現れる」
そして、あの悪党どもも。
「そこを、捕らえる」
あの悪党どもよりも先に。
日没後のミールマン。
ロマ・ロルモーはその酒場で一人静かに粥を啜っていた。
痛んだ髪の毛を下ろして、外套も着込んだままという変装で。
これからどうしようか。父親に、『逃げろ』と言われてここまできた。
ほぼ休みなしで走り通した足が痛む。明日はきっと筋肉痛で動けなくなるだろうが、そんなことはどうでもいい。
今持っている緊急用の資金は、手拭いに仕込んであるものを含めて金貨一枚半。慎ましやかに生活すれば、九十日は持つ。だが、そうしてどうなるだろう。
父は、迎えに来るまで戻ってくるなと言った。
ならばそれまで耐えればいいのだろう。マルセルと話すということは、上手く買収できればすぐに済む。
見上げて溜め息をつく。酸味のある粥が耳の下を締め付ける。
しかし、あの子供が衛兵を買収するとは。
撃退されたときには焦ったが、目が覚めてからは上手くいったと思ったのに。
自分たちの話を聞いた若い衛兵が、自分に好意を持っていることは知っていた。故に少しだけ涙を流してみせれば、ころりと自分好みの判断をしてくれた。
それに、マルセルも頼ることが出来た。
身内には甘い男だ。幼いときから何度も叱られたが、謝れば許してくれた。たとえ心中で舌を出していようとも。
余所者を生け贄に、今までの犯行を押しつけようというのはロイクの発案だ。それが上手くいき、これからはどんなふうにお金を稼ごうと親子二人で笑って話していたのに。
それなのに。
匙を握る手に力がこもる。
カチャカチャと皿に匙が当たり音が鳴る。
あの子供のせいで。面倒なことになった。
啜れば粥が唇で大きな音を立てる。行儀など誰も気にしない店内では全く目立たないが。
畑を耕し、作物を手に入れる。そんな仕事で得られる金銭などたかが知れている。あの小さな街では、金を稼ごうと思うことすら出来ない。
初めは、ただ金が欲しかった。
あの街から出るための金が。
あの小さな街では、大した金銭を得ることは出来ない。
何か新しいことを始めれば、すぐに誰かが寄ってくる。新たな商売も出来ず、そして日々の生活も窮屈で、あの街からすぐにでも飛び出したかった。
小さな時から何度もあった。親にねだってようやく手に入れたわずかな小遣いで、商人から農民にとっては高価な白粉を一つ買えば、次の日には村中にそれが知れ渡っている。
一度だけ、両親に連れられて、作物を売るためにこのミールマンに来たことがある。
それだけでも驚いたものだ。
畑もなく、野良着を着ている者などいない。
誰も彼もが土などで汚れてもいないきらびやかな服を着て、少し歩けばどこにでも商店や宿がある。
土も詰まっていない白い爪。農民と比べて日に焼けていない肌。頬の赤みが見えるような。
貴族はみな青い血を持つというが、これがそうなのかとロマは思った。
それでも、街に戻れば元通りの生活だ。
土を耕し、乾けば水をやり、要らない草が生えれば刈り取る日々。
毎朝日の出よりも早く起きて、水を汲む。収穫の時期は朝から晩まで走り回る。
いつもならば、耐えられた生活。それまでは、何の違和感も持たなかった生活。
けれど、ロマは知ってしまった。都市部のきらきらと輝く生活を。
母が死んでしばらくしてから、父が始めた街道での強盗。
ある日、血に塗れた銀貨を洗っている父親を見つけて、これはいいとロマは思った。
資金を作れば、この生活から抜け出せる。
お金を貯めて、家を買うだけの貯金が出来れば、いつかは都市に移り住むのだ。
そんな道筋が見えた気がして、
それなのに、あの子供が。
ウィヒヒヒ、と、声が聞こえた気がした。
明らかな気のせいで、空耳だろうとロマは思った。事実、周囲の誰もその声を聞いた者はいない。
だが、その原因の『反応』はロマの外套で確実に起こっていた。
ロマの外套に仕込まれている布に描かれているのは、エウリューケ謹製の魔法陣。
不可視の塗料で描かれたその魔法陣は、エウリューケが放った特有の魔力波に反応して種火を作る。乾燥した布。それに、蒸発はしないが可燃性の塗料。起こることは明白だ。
ロマの着ている外套が、わずかに赤熱する。
白い光が、そよ風のようにロマを覆った。
「はてさて、どこにいらっしゃるじゃろ?」
日が沈む街。その街の高台で両手を広げ、エウリューケは一人佇む。
ここにいるのは、ロマ・ロルモーを殺害するため。それも、石ころ屋の業務の一環だ。
街道を根城にしていた強盗犯が逃げている。それは、その付近の街や村にとって大打撃となり得る出来事だ。商人がその街道を使うことを躊躇し、積み重なった疑心から、流通も滞る。
冗談ではない。そんなものを放置したら、石ころ屋が取引する物資も割高となってしまう恐れがある。
とても小さく、影響自体は少ない。だが、ごく簡単に対処できるこの程度のこと、対処しておかなければ恐ろしい老人に叱られてしまうだろう。
石ころ屋の邪悪は勤勉でなければいけない。正義よりも、なお。それがグスタフの考えだった。
仕込みは済んでいる。
魔法陣を外套に仕込み、簡単に燃えるように。
ここミールマンは副都。何処へいっても人がいる。いかに女性の足であろうとも、半日もあればここに着いているだろう。
エウリューケにも、どこにいるのかは把握していない。だが、ミールマンに限定し魔力を飛ばせばきっと反応がある。反応がなくとも、目的地がここだということはわかっている。明日また繰り返せばいい。
そんな軽い気持ちで、エウリューケは薄い魔力波を放つ。魔力を持つ者や闘気を活性化させている者でなければ反応も出来ず、反応したところで気のせいだと感じてしまうほどの。
感じ取れる、人間たち。並ぶ物。建物の構造。
だが。
「ありゃ、……反応、した、かな?」
おかしい。
手応えはあった。魔法陣が反応し、その位置をエウリューケが読み取れるほどの。
だが、火が上がったとは到底思えない。そこまで励起されてもいないのに、反応する物体が消えた。
耐水性の塗料だ。洗って消えることはまずないし、その他の妨害も出来ないはず。
「んー? んんー??」
ぐりぐりと自分の拳でこめかみを押さえて、エウリューケは考える。その原因、不思議な挙動に。
検証するよりも、実際の目で見たほうが早い。
そう結論づけたエウリューケの姿がふわりと浮かび上がる。
場所はわかっている。城塞都市ミールマンの北の門、その近く。
さて、行き先は宿か酒場か食堂か。
短い転移を繰り返し、影が街の上空を舞った。
ロマの体を白い光が通り抜けるのを、ロマはしっかりと感じていた。
そして次の瞬間、警戒に顔を上げる。握りしめた匙を、そっと拳の中に隠して。
「見つけた」
顔を上げた先にいたのは、短髪の筋肉質の美丈夫。鍛えられたその細身の体が、服の上からでもしっかりとわかった。
慌ててロマは表情を作り直す。今の自分はただの町娘。内心そう言い聞かせながら。
「申し訳ありません、どなたでしょう?」
「ロマ・ロルモーだな。危ないところだった」
その言葉に応えるよう、ぞろりと周囲の人間が立ち上がる。この食堂で、今まで普通に食事をしていた人間たちが、老若男女を問わず八人ほども。
ロマの表情が鋭く落ち着く。この者たちは、自分を捕まえに来たのだ、と。そう正確に判断して。
「危ない、とは?」
「今まさに、貴様に不審な魔術を使われた気配があった。今我が止めなければ、恐らく貴様は死ぬようなことになっていただろう」
「……まあ」
驚きを声にだけ乗せて、ロマはゆっくりと瞬きをする。その真偽は、わからなかった。
ウェイトの言葉も、実際には間違ってはいる。エウリューケの使った魔術は単なる発火で、もし作用が発現していても全身の火傷と周囲の延焼で済んだだろう。もっとも、燃える物自体がこの石で作られた街には少ないのだが。
「落ち着いているな」
「この人数に、私の細腕。逃げられるわけがないでしょう」
「……観念した、と捉えてもいいだろうか」
「…………」
ウェイトの言葉には応えず、ロマは視線を周囲に漂わせる。諦めたわけではない、まだ助かろうと足掻いて。
少しだけ後ずさり、後ろにあった机に尻が当たる。そして、その音に反応していない、手近にいた、若い女。
その土が詰まっていない爪を見て、ロマは決めた。
椅子を振り上げ、周囲の者たちに投げつける。
衝撃で椅子が砕け、怯んだ隙に目をつけた女の首を掴んで、背後に回る。隠して持っていた匙をその目に押し当て、首に手を回した。
「動かないで」
「抵抗をするか」
わずかに目元を動かし、ウェイトだけが反応する。掴んだ女、掴まれた女、双方に湧いた怒りに、気炎のように闘気が上がった。
「……何故私がここにいるとわかったの?」
ロマとしても、無策でここに来たわけではない。
変装をした。逃げてきた街から繋がる門を避けた。人目につかない食堂を選んだ。街道でたまたま行き会った商人と、知り合いのフリもした。そもそもこの街にいることは父以外誰にも知られていないはずなのに。
そこまで考えて、ロマは一つの結論に行き着く。
まさか、父が?
そこに辿り着いたロマの手に力が入る。人質の眼球脇に匙が食い込む。人質となった女は、唇を結んでそれに耐えた。
「我らは戦場で、数百の要素が絡み合う部隊の行動の予測をする。貴様一人が逃げた程度、簡単に予想できる」
この街に現れることなど、誰が考えてもわかることだ。ウェイトは半ば本気でそう思っていた。
「……そして、衛兵たち。この者たちとて訓練を重ねている。後ろ暗いことは出来ないまでも、諜報、索敵、その他の能力。指揮さえ執る者がいれば、貴様らを相手にするためには充分な能力が育っている」
ウェイトは一歩踏み出す。それに合わせるように、ロマは一歩下がった。
「貴様が変装してこの街に入ってくることは予想できていた。門に配置した見張りから、不審人物を特定、追尾して調査する。貴様に似た人物は何人かいたので骨は折れたがな。だが、間に合った」
エウリューケの放火に間に合ったのは単なる偶然だ。魔力波を察知し、その目的がわからぬまでも闘気を波としてその干渉を打ち消した。この場ではウェイト以外には出来ない。並の騎士には出来ない高等技術だ。
「この街の衛兵を舐めるなよ。貴様ら社会を乱す者の敵として、常に訓練を積んでいる者たちだ。法を乱す者は何人たりとも逃がさない」
「社会を、乱す?」
ウェイトの言葉に、ロマの顔に笑みが浮かぶ。
笑い混じりの言葉に自分でも驚いていた。
「社会を乱す? いいえ、乱れていなかったわ、あの男が来るまでは」
あの子供が来るまでは、強盗の稼業もきちんとまわっていた。
あの村の誰も彼も苦しまず、自分も父も善良のままだった。
それなのに。
「私はいっぱい買い物をしたわ。それでお店の人たちも儲かった。私が少し着飾れば、男たちは喜んだ。それなのに、あいつが来たから」
「あいつとは、貴様らを拘束したあの探索者か」
「ええ。何が悪いの? 村のみんなもよろこんでいたじゃない。誰も傷つかず、お金を稼いで何が悪いの?」
「……誰も傷つかず?」
今度はウェイトが言葉尻を聞き返す。
ロマの言葉に、青筋が立った。
「傷つけていただろう。直近でも、貴様らが殺したのはリドニックで健やかに生きていた人間たちだ。そこから、お前らが奪った」
「…………」
ロマは、自分の発言の矛盾が理解できない。
狭い村社会で育った。都会の、きらびやかな世界を見てしまった。そんな矛盾に心を蝕まれて。
「もういいだろう。投降しろ。貴様の罪は、衛兵と所司が裁く」
「……お断り……」
ぐり、と匙が人質の眼球に食い込む。そのまま手を一ひねりすれば、抉り出されるはずだ。
流血すれば、そこに注意が向く。そうすれば、まだ逃げられるはずだ。この大人数相手でも、きっとそのはずだ。
そう、はず、だった。
人質だった女が匙を持つ手を掴み、引き抜きながら手首を捻る。
「……ふっ……!!」
そして首に回された手首を掴み、担ぐように脇を押さえ、腰を落としてロマの腰を下から跳ね上げる。
背負い投げ。素人相手でも、ここまでは綺麗に決まらないだろうというほどの。
「がっ……!?」
ロマの背中が机に叩きつけられる。受け身も取れず、衝撃に息が全て吐き出された。
「……この場にいる者は、全て衛兵たち。そしてみな水天流の門下生だ。当然、貴様ら何の心得もないものであれば簡単に制圧できる」
ウェイトの呟きに、女が一歩下がり頭を下げる。悶えるロマから手を引いて。
「我が友は言った。悪を働く者は、みなそれぞれに理由があると。しかし貴様にそれがあったとは到底思えん。貴様は悪だ。救われるべきではない、悪」
そのロマの首のすぐ横に、小剣が突き刺さる。
咳き込みながら、その剣を握るウェイトの顔を見たロマの背筋が凍った。
「これ以上抵抗するな。我は聖騎士、今貴様を捕縛することは出来ん。だが」
強い目。その迫力。逆光で影が差す顔に、恐怖を感じた。
生命の格が違うとまでロマは思った。
「逮捕は出来ないが、法の執行は出来る。十数人の殺害に関わった貴様を、この場で殺すという正義を、執行出来る」
つつ、と剣が机を裂きながら滑る。その冷たい輝きが、ロマの首に触れた。
「捕縛されるか、死か。好きなほうを選べ」
「…………! …………!!」
もちろん、賞金首にでもなっていなければ殺した場合はウェイトの立場上問題が出る。
だが、これ以上の抵抗をされた場合、ウェイトも躊躇する気はなかった。
数十人を殺害し、逃亡し、捕縛されそうになれば人質を取って抵抗する。紛れもない悪。一切酌量の余地がないほどの。
捕縛されれば、死刑台に送られる。
もしくはここで速やかに死ぬ。
どちらにせよ、正義の手でこの女は死ぬ。
どちらを選ぶにせよ、構わなかった。
エウリューケがロマの居場所に到着したのは、騒動が終わった後だった。
食堂の入り口から中を顔だけ出して覗き込む。外からは見えてしまっているし、中からも丸見えだが、本人は一切気にしていなかった。
「おいおいおいおいおー、あれあれ? あたしのろまった?」
両手を縛り上げられ、しずしずと腰の縄の引かれてロマが出ていく。エウリューケに構わず、野次馬たちの目にさらされて。
その姿を見て目を細める。このまま行かせていいものか。獄中で大々的に不審死してもらった方がいいのだろうか、そう悩んで。
そんな姿が、ウェイトの目に留まる。彼は一人食堂に残っていた。連れの衛兵たちはロマに付き添い出ていき、静かになりつつある店内で、食べかけの粥を見ていた。
「女。貴様か」
「おりょりょ? 見つかっちった? さすが美少女お姉さん魔術師エウリューケちゃん、どこにいても目立っちゃうもんね!!」
バチーンと片目を瞑り見得を切るが、ウェイトはそこには目もくれない。ただ騒がしさに、少しだけ苛ついた。
「今回、貴様らの出番はなかった。おとなしく手を引け」
「そうみたいっすね。あんたすげえっす」
全く心のこもっていない言葉。だが、本音ではあった。エウリューケは、ウェイトが彼女を守れるとは思ってもみなかった。
少しだけ気取りながら、知り合いの金髪の男性の真似をして、呟く。
「正義は遅れて現れる。それが世の常だと思ってたんだけどね」
我ながら似ている、とエウリューケは自分を褒め称えた。胸を張り、ウェイトの反応を待つ。
「奴の真似ならば似ていないぞ」
「ありゃあ」
だがウェイトの言葉に唇を尖らせる。レイトンのあの嫌みな雰囲気は、やはり出せそうにないと反省した。それも間違いではあるが。
「謝罪しよう。『何故逃げなかった』というあの言葉は、間違えていた」
「あたしに謝ることでもねーんでねーの」
「その通りだ」
ウェイトは笑う。たしかにそれは自分が間違っていただけで、誰にも迷惑を掛けたわけではない。
「ウィヒヒヒ、でも褒めたげよう。今後、同じように出来ればなおいいね」
「……どういうことだ?」
「さて、あたしゃあんまりあんたに肩入れはしたくないんよ。こっからは自分で頑張ってねー」
エウリューケがくるりと回る。
いちいち癇に障る。ウェイトの目元が、また痙攣を始めた。
「あたしゃ、この成功が、あんたの毒にならんことを祈るよ」
「そうはならん。我はこれからも、常に正義であり続けよう」
「……ウィヒ」
エウリューケは短く笑い、そして食堂から出る。
出入り口から片手だけ出し、手を振った。
そして、気配が途絶える。ウェイトにも捉えられないように。
エウリューケが消え去り、静かになった店内。
冷めた粥を前にして、ウェイトは一人佇む。
「そうだ。我は正義だ。正義であれば、奴らにも、石ころ屋にも勝てる」
誰もいなくなった店内で、ウェイトはそう呟いた。
「正義のまま、奴らを殺そう。悪を殲滅してやろう」
その瞳にわずかに宿った狂気。それを見咎める者も、もういない。
冷めた粥が残った器が、ひとりでに割れた。
後日。とある小さな街の衛兵の詰め所で。
コツン、と扉が叩かれた音がする。
暗闇の中、小さな明かりを頼りに書き仕事をしていたマルセル・ダールトンは顔を上げた。
それから、ふと不思議に思う。小さな街の灯りのない夜だ。出歩く者も少なく、響かない足音から、騒動が起きたわけでもないらしい。
それなのに、夜勤中の衛兵に用事がある。それはどういうことだろう。
「どなたか」
筆を置き、首を傾げながら扉に手を掛ける。その扉の向こうから、灯りが漏れていないことは不思議には思わず。
ギイ、と扉が開く。乾いて軽いはずの扉がやけに重たい気がした。
その扉の向こうに立っていた男。それを見て、またマルセルは首を傾げた。
「貴方は……?」
「マルセル・ダールトンだな」
「!?」
言うが早いが、マルセルの体が突き飛ばされ、部屋に押し込まれる。それでも呻き声一つあげられなかったのは、その際に男が突いた点穴の効果だ。もっとも、それは一瞬で効果が切れてしまうが。
マルセルは背中から壁に打ち付けられたが、大事なく咳き込みながら立ち上がった。そして暗い明かりの中、その男の顔をようやく確認して息をつく。
「……貴方は、この前の、聖……」
「黙れ」
一歩よろめくように男に近づいたマルセルの首を掴み、その男、ウェイトは壁に叩きつける。今度は片手でしっかりと首を保持し、気道と血管を締め上げながら。
「少し、貴様のことを調べさせてもらった。随分と町民に信頼されているようだ」
「……なに、を……」
ウェイトの言葉は確信を持ってマルセルを射貫く。拘束されてもいない両の手でウェイトの手首を掴んでも、鉄のようにぴくりとも動かず解けない。
「少々のやんちゃを笑って許し、それでも大事になれば厳格に叱り諭す人格者。それが、貴様の町民の評だ」
「……か、ふ……」
マルセルの口が泡を吹く。酸素不足で狭くなりつつある視界に、ウェイトの瞳が輝いて見えた。
「……何故、許した? その少々の『やんちゃ』の中には、窃盗や傷害事件もあったようだが?」
ウェイトの言葉に、マルセルは答えられない。
今まさに首を締め上げられている中、言葉が出せないということもある。だがそれ以上に、身に覚えがなかった。
事件? 窃盗? それが何を指しているのか、わからなかった。
「遊び半分で友人に怪我をさせた男を、貴様は謝罪だけで済まさせた。償いもさせずに。飢えてもおらず、ただ小腹が空いただけで作物を盗んだ子供を、元気が良いと見逃した。届け出されていない記録を少し調べるだけで、そんな話が山ほど集まった」
ウェイトは、ロイク捕縛の報告書を手に入れたときについでに衛兵が持ってきた書類を思い返す。
一応、町民から届け出があった場合は報告書に残している。頭の固い新人の衛兵の場合、届け出がなかったものも一応日報として記録しているものもあった。
その事件が重大でもないとしてミールマンには届け出ず、内々で処理していたのもマルセルだったが。
「専門でもない我にでもわかる。貴様のその性根。貴様が衛兵である以上、看過できるものではない」
「なに、……が、……わ……」
何が悪いのか、とマルセルは叫びたかった。暴れる腕がウェイトに当たる。ウェイトは、微動だにしなかったが。
「貴様は悪を見逃し、無辜の民を傷つけようとした。あのカラスは、今回は何の咎もなかったというのに」
もちろん、罪を犯せば誰であっても捕縛すべきだ。裁くべきだ。カラスが本当に強盗をはたらいていたのなら、マルセルは間違っていなかった。ウェイトも、いくらでも手を貸した。
だが、今回のカラスは違う。わずかにでも調べれば、明確に無実だとわかったはずなのに。
マルセルの食いしばった歯茎から出血する。それが唇から垂れても、ウェイトの力は一切緩まない。
「貴様の行動は、悪を生む。我らの王国を蝕む病魔だ」
マルセルの足が壁を掻く。もはや蹴り上げる力も残ってはいない。
黒目が不随意に上を向き、視界も闇一色になる。
それでもなお、ウェイトの言葉はしっかりと耳に響いていた。
「そして今回貴様は石ころ屋に関わり、その存在を示してしまった。そうなれば、早晩貴様は死ぬだろう。あいつらの魔の手にかかり、血を吐いた無様な姿か、血塗れの無残な姿で」
ピクピクとマルセルの体が痙攣を始める。苦しみさえ、感じなくなってきていた。
「それでは困る。貴様を裁くのは悪ではない。正義だ。そうでなければならない」
ウェイトは報告書の精査から予想していた。
このマルセルは、身内に甘い。身内である街の人間たちに甘い。
だから、街の人間ではないリドニックの民の命を軽視し、町民であるロルモー親子の言葉を信じ部外者のカラスを捕縛した。
無辜の民の証言をねじ曲げて、恣意的に解釈する。
そんな男を、今のウェイトは許せなかった。
だが、告発したところでどうにもならない。
マルセルのこの性格や行動が悪を生むとは思っている。叱られずに育った子供は増長し、より大きな犯罪を犯すだろう。常態化した盗みは、いずれ人の命にまで手を出すだろう。
それでも、マルセルを告発したところで問題にはならない。
彼は人格者だ。街の人間から見れば。身内から見れば。
それが許せなかった。
正義の人間でありながら、悪を生む手助けをする。まるで肉腫のような衛兵の病魔。
市井に紛れる悪魔のような男。
それが、裁かれないのが許せなかった。
裁くべきだ。正義の手で。
あの、石ころ屋よりも早く。
冷たい視線がマルセルを舐める。無様な姿だ。
「貴様らのような者がいるから、我らは信を得られぬ。まず我らこそが、ただひたすらに正しくあるべきだというのに」
レイトンの言うとおりだ、とウェイトは思う。清廉な官こそが、民へ安心を与える。それが未だに出来ていないのだ。聖騎士の剣は、人のための剣だというのに。
「…………!!」
「正義は我にある」
正確には、自分たちの手にあるべきだと、ウェイトは考えていた。
そしてそのためには、この男のような者は不要だ。存在してはならない。
「悪は、死ね」
ゴキン、とウェイトの手の先で音が鳴る。
同時に、マルセルの体の力が永久に抜けた。
ずるりとマルセルだった肉の塊が床へと落ちる。揺れる小さな橙の明かりが、マルセルの死に顔を鮮明に浮かび上がらせていた。
白目を剥き、長い舌を出した無様な死に顔。
それを見て、ウェイトは新たに決意する。
石ころ屋の連中。奴らも、いずれこうしてやる。レイトンだけではない。この国に巣くう悪党どもを、一人残らず駆逐してやる。
「リドニックには負けてられまい。この国が、悪の王国であってはならない」
それが、親友と交わした最期の会話だ。その言葉を実現するために、今は出来ることをしなければ。
まずは、ミールマンの官憲の汚職を一掃する。二枚舌を使い分け、法を弄ぶ奸賊を。
力不足の騎士や衛兵を立て直す。何の呵責もなく、正々堂々、悪を糾弾できるように。
それが、正義である自分の務めだ。
ウェイトはそう決意する。
ウェイトは気付かない。討伐しようとしている怪物が、今自らに宿っていることを。
深淵を覗き、深淵に囚われた哀れな姿。
それを咎める親友がもはやこの世にいないのは、彼にとって幸運だったのだろうか。
ともあれ。
『ロマ・ロルモーについて聞いておきたいことがあったので訪ねたところ、何者かの手で殺害されていたマルセル・ダールトンを発見した』
その言葉が疑われることがなかったのは、自らの正義の賜物だろうと、ウェイトはそう信じていた。
時は戻り、水天流道場。
ロマやマルセルとの騒動を思い出し、ウェイトは溜め息をつく。
そうだ。犯罪者に負けるような衛兵や騎士では困る。彼らは誰にも負けず、人々を守る義務がある。だからこそ、鍛え直し、一層の強化を図らねば。
手ぬぐいを握りしめ、ウェイトは決意を新たにした。
「強くなければいけないのだ。我も、皆も」
「はあ……?」
また気のない返事をマルスは繰り返す。たしかに、それがこの道場の存在意義でもある。門下生が強くなるのは、師範代としても異議はなかった。
「休憩終了! 次、乱取りを行う!!」
叫ぶウェイト。
その姿を見て、もはや今ではどちらが師範代かわからないと、マルスは苦々しく笑った。
閑章は、次話で終わります。




