閑話:ふいご
カラスがサンギエで、病床の母を助けるために崖を登る兄妹を相手に戯れていた頃。
イラインから遠く北。
「次っ!」
水天流の道場。石で組まれた床には汗とわずかな血が垂れる。
まばらな円状に並ぶ男たち。
中央に立つ男性。そのかけ声と同時に、一人の男性が飛びかかった。
握りしめた木の棒は槍の代わりに。しかしその裂帛の気合いは、本番さながらだ。
長い黒髪を後ろでまとめた細身の挑戦者。その細身は虚弱故ではなく、ただ筋肉のみによって絞られている。
挑戦者の槍が振りかぶられ、それに合わせて中央の男は槍を合わせるようにクイと動かす。
迎撃。だが、挑戦者は応じない。
惑わし。
槍の穂先をぴたりと止め、握った拳ごと石突きを突き出すように回転させる。
下からの打撃が、このまま進めば顎に当たる。そう思った。
だが。
その石突きよりも更に低く中央の男は身を屈めた。
そしてそのまま足で挑戦者の足首を払う。重心を崩すためのものではない。もっと強く、当てられた足首を壊すための、そして宙を舞わせるための足。
挑戦者の体が半回転する。
それに構わず自らの蹴りの勢いで回転した男は、受け身も取れず勢いのまま倒れた挑戦者の頭部の横を突く。
砕ける石。パラパラと破片が降りかかるのも払わずに、汗で張り付いた瓦礫もそのままに、挑戦者は起き上がり頭を下げた。
「次!」
その姿を一瞥し、そしてウェイトはまた大きな声で次の挑戦者を指名した。
「お疲れ様です」
道場の師範代であるマルスは、ウェイトに手拭いを差し出す。
稽古をつけられていた門下生たち。彼らは皆水天流の中目録以上を持っている。そんな実力者十数人相手との休みなしの組み手であっても、ウェイトにとっては軽作業に過ぎなかった。
その門下生たちはウェイトの体に一撃を加えることも出来なかったが、それでも体を動かす以上汗はかく。
一筋垂れる汗を拭い、ウェイトは一息吐いた。
「全員、一度基礎鍛錬からやり直しだ。反応速度が遅い。動作に迷いがある」
「殺す気で、などという注文では難しいと思いますが」
半笑いでマルスはウェイトの言葉に反論する。冗談じみてはいるが、本気だ。
誰が道場稽古で相手を殺す気になれるだろう。もちろん、本気でやれといつも指導はしている。多少の怪我を負うのは、加害者被害者含めて誰も気にはしない。
それでも、命を奪う気での攻撃を同門相手に繰り出さなければいけないのであれば、躊躇して当然だろうと。
だが、その言葉にもウェイトは眉を顰めた。
「全員、衛兵や騎士だ。殺す気でかかってくる犯罪者や敵兵相手に、切り替えが出来ず手も足も出ないとなれば大問題だろう」
腕に覚えのないものなど一人もいない。職務上、荒事に一切関わらないということもありえない。
道場内を見回せば、皆、思い思いに自主練習と休息に時間を使っている。
「敵がいつもそういう素振りをしているとは限らない。仕事の性質上、その瞬間までは笑って親愛の態度をとっていた者が次の瞬間殺す気で刃を振りかざしてくるかもしれんのだ」
「それでも、程度がありますな」
ウェイトの言葉に、困ったようにマルスは笑う。水天流へ師事したのがウェイトより遅い彼は、その序列によりそれ以上強く言うことが出来なかった。
「それに、ウェイト様とはやはり腕前が違います。恐れから遅くなるのも仕方がない」
「それも、仕方がないでは済むまい。腕前が違うからと怯んでいては、たとえば我のような者が暴れ出した際に制圧に出られないのも困る」
重ねられたウェイトの言葉に頬を引きつらせ、勘弁してくれ、とマルスは思った。
エッセン王国では一定以上大きな街には必ず置かれている騎士団。大抵はその団長をその街もしくは領地の主が定め、騎士はその下に集う。
街や領地の兵といってもいい。
故に、騎士団は領地もしくは街所属の兵なのだ。
だが、聖騎士団は違う。
彼ら十七の聖騎士団は、王直属。
精鋭が集められ、そして騎士団よりもなお上位の権限を持つ。
魔物相手にも怯まず戦い、その団長ともなれば竜と互角以上に戦える存在であり、この国の最高位の腕前を持つ者たちだ。
団員であっても、精鋭揃い。鬼の集団程度であれば単独で撃破し、ときには一人で戦線を支えることすら出来る戦力。
その聖騎士団。現在ミールマンに駐屯している《日輪》の団員、ウェイト・エゼルレッド。
彼に匹敵する腕前の者が暴れたら、などというのは悪い冗談だ。
ウェイトは門下生を眺めてから呟くように言う。その意識は、どちらかといえばこのミールマンよりも北に飛んでいたが。
「たとえ巨竜が相手であっても、怯まず立ち向かわねばなるまい」
「そんな胆力の持ち主は、そうそうおりませんでしょ」
水天流免許皆伝のマルスであっても、竜よりも一回り小さく弱い亜竜ですら、相手にすればまず避難を考える。もちろんその場に誰か守るべき者がいれば別ではあるし、命を賭して戦えば、一矢報いることは出来るかもしれない。
しかし、怖いものからまず逃げるというのは正当なことだと考えていた。
いるわけがないのだ。
相手取れるかもしれない自分ですら、亜竜相手には恐らく逃げ出すのだろう。
ましてや倒せぬ巨竜相手になど。
いるわけがない。
倒せるはずもない強大な怪物に、ただ心意気だけで立ち向かっていける者など。
「それにしても……」
マルスは道場の床に目を留める。そこに残るのは、ウェイトが突き砕いた跡。
穂先の代わりに丸めた布を緩衝材としてつけた木製の槍で、闘気もなしに、石畳を割る。
その技量もさることながら、その危険性にもマルスは内心溜め息をつく。
先ほどの組み手で決着を示すために、わざと頭部からは外した一撃。ウェイトとしても当てる気はなかったが、もしもそれが頭部に当たっていたら。
……おそらく、治療師を呼んでも間に合いはしなかっただろう。そうなったときのことを思い浮かべ、血や怪我に慣れている師範代であっても背筋が凍る思いだった。
「急にどうしたのです? 休暇明けてすぐに門下生の衛兵や騎士を集めて稽古とは。しかもわざわざ訓練の一環として許可まで取って」
「なに、ちょっとした気まぐれだ」
もう一度、乾きつつある汗をウェイトは拭う。壁の上、ちらちらと揺れる火の明かりが、やけに熱く感じた。
それは少し前のこと。
獄中のカラスの潔白を証明するためにエウリューケに伴い小さな街へと出かけた彼は、釈明を終えたその後すぐに戻ってきていた。
ミールマンの外殻を覆う城壁の上。朝の時間には人目につかない。
「じゃ、今回はありあっしゃした! あたしゃまた戻っから、どこへなりとも好きにしゃっせぇ!!」
転移魔術を使いウェイトを運んだ青髪の魔術師が、口早にそう告げる。
転移魔術。
聖騎士にすら秘匿されているため、ウェイトは一定以上の魔術に詳しくはない。だが、勇者の時代以降の使い手をウェイトすら知らないというところから、その使い手は少ないということは推察できた。
遠く離れた街間を瞬時に繋ぐこの便利さがありながら、使い手が少ない。つまりこの魔術の習得もしくは使用は難しく、そしてそんな魔術を使える以上、この魔術師も凄腕なのだろう。
凄腕の、悪人なのだろう。ウェイトはそう結論づけ、威圧も兼ねて睨んだ。
ひとつ疑問があった。自分が何故行かなければいけなかったのか、未だにウェイトはわからなかった。
「……何故、カラスはあそこに留まっていた? 奴なら、あの牢獄を破壊し逃げることも出来ただろう」
「んー?」
体ごと首を傾げ、エウリューケはウェイトの言葉を咀嚼する。
牢獄の破壊。取り方によってはそれを勧めているような口ぶり。官憲の口から、そんな言葉が吐かれるとは思いもよらず。
「気になる? 気になっちゃう!?」
「…………」
短く跳ねながら口にする、囃し立てるようなエウリューケの言葉に、ウェイトは不機嫌さを増す。その不機嫌な顔を見て、叱られた子供のようにエウリューケは肩を落としそっぽを向いた。
「本人に聞けばよかったのにー!?」
「……それはたしかにその通りだ」
今度はウェイトが目を背ける。その端に涙が浮かびそうになるのを、必死で堪えた。
「だが、それは出来ん。我の個人的な都合ではあるが」
本人に聞けなかった理由は簡単だ。あれ以上の長時間カラスの前にいたら、我慢できる自信がなかった。
何故お前が生きている。そう叫びたい気持ちで喉が裂けそうだった。
同僚であり、そして親友でもあるプロンデ・シーゲンターラー。その彼の死体は今、憎き男の手により副都イラインへと移送されている。
ウェイトがリドニック入りを希望したために、プロンデが固めた嘘。『イラインで長期の休暇を取る』という嘘。
その嘘を塗り固めるために。
その嘘を、限りなく真実に近づけるために。
リドニック王城でのプロンデの死に際を思い浮かべる度に虫酸が走る。
力なく立ち尽くした体。生気は失せ、焦点の定まらない目が中空を見ている。
切り口に首は乗ったまま。
その姿を見ても、およそ戦いがあったとは思えない。
相棒は、戦って散ったのではない。無残にも殺されたのだと思った。
我慢が出来なかった。
国を背負う聖騎士が、ろくな抵抗も出来ずに殺されるという不名誉。
信用し、その腕を信頼していた相棒すらも、抵抗できなかった事実。
何故殺されたのかすらわからない、不可思議さ。
その場にいたレイトンへ、怒りをぶつけた。
グーゼルの取りなしで、レイトンの話を聞いてもなお。
だが話を聞けば、レイトンは犯人でないとウェイトは思う。
状況が整いすぎている。
今まさに殺された死体がそこにあり、そのすぐ横にレイトンが立つ。ただそれだけでも、現行犯として捕縛、斬殺されてもおかしくはないのに。
そんな迂闊なことをあの男がするものか。
もしもレイトンが殺したのであれば、そのすぐ横に脱出口など用意しない。レイトンの姿は消え失せて、そして誰にも疑いが向かない時間にプロンデの体は裂けるはずだ。
不思議な信頼。あの男ならば、すぐに疑える場所にはいないと。
そして、ならばと疑われた犯人、プリシラと名乗る占い師の女性。
まずはその存在自体が疑われたが、それは実際に会い、話していたスティーブンの言葉で解決した。
だが、それ故に許せなかった。何も出来なかった自分を。
彼女を捕らえることも出来なかった。灰寄雲のせいでしばらく外出も出来ず、そしてようやく調べられる頃には足跡や痕跡も一切見つからなくなっていた。
追えなかった自分。何か知っている風なことを言うレイトンはウェイトの問いには答えず、ただ情報は手に入らない。
実際には、レイトンにすら行き先はわからない。だがレイトンは知っていると思いたいウェイトの目に、レイトンが不審に映っただけだ。
歯がゆかった。
今もなお、プロンデの『行方不明』を誤魔化し続ける身の上であることが、さらに苛立ちを募らせた。
当時戦場で共に戦い、その生存を喜ぶべき男に対してまで、怒りをぶつけてしまいそうなほど。
わずかに黙ったウェイトを嘲笑うように、エウリューケはぴょんと跳ねる。細く編まれた髪の毛の束も、つられて跳ねるように舞った。
「……そうだねぇ。あの子なら簡単に逃げられたし、牢獄どころか建物ごとぶっ壊しちゃったりなんかしちゃうことも出来たね! もちろんその気なら、衛兵が取り押さえることも出来なかったんじゃね?」
「…………」
その通りだとウェイトは思う。しかし同意したくても出来ない。牢獄を壊して逃げられる、衛兵を打ち倒し逃走する。本当は、それが出来ることからしておかしいのだ。衛兵とは、暴れる犯罪者を軽く抑えられる存在で、牢獄とは犯罪者を確実に拘禁しておける場所のはずなのに。
しかし、出来るならば何故。
「我を呼ばずとも、逃げればよかったのだ。エッセン辺境の街道で長期間行われていた強盗殺人。我にすら、奴が犯人でないことは明白だったのに」
「そうそう。明白じゃったのに、あの子は犯人になった。されちゃった。気の毒よねー」
へらへらとエウリューケは笑う。その態度に、ウェイトは更に苛ついた。この女とは絶対に気が合わない。そう自覚した途端、目の端が痙攣した。
「でも」
だが、ウェイトは握りしめた拳を解いた。目の前の女性のがらりと変わった真面目な雰囲気に。澄んだ大きな目が、ウェイトを真正面から捉える。
「カラス君は言っていたよ。『前は短絡的な手を使って失敗した。だから今度はまともに問題を解決しようと人に託した』ってさ」
「……何を」
「わかんない? わっかんねーか!! そっか、そっか、あんたもそっか!!」
一転して笑顔になったエウリューケが、ウェイトの肩をばしばしと叩く。痛みはないが、その手の強さに宿る馴れ馴れしさに、またウェイトは眉を顰めた。
それからくるりと回りながらウェイトから離れ、エウリューケは大きく両手を広げて天を仰ぐ。演出のために使った魔術で無意味に小さな光が舞った。
「あの子はね? きちんと誠実に話したら衛兵が信じてくれると思ったんだって、馬っ鹿だよねー!! あいつらが信用できるわけねーもん!」
キャッキャと笑う。その言葉と態度に、ウェイトは更に不快になった。額の血管の怒張が、自らにもわかるほどに。
「……馬鹿な、とは」
随分な言いぐさだ。とウェイトは思った。
無辜の民が、衛兵に助けを求める。衛兵は、民の話を真摯に聞いて対応する。当たり前の話だ。それを誠実に行った者が馬鹿を見るなど、けしてあってはならない。
だが、ウェイトもそれ以上の反論は口に出来なかった。
考えてみれば、現実に捕縛されたのはカラスだ。
言い分を調べればすぐに間違いだとわかるはずなのに。自分が釈明になど出向かずとも、
「いや、なるほど、な……」
「お? お? なんぞ? 元気がいきなりなくなりよったぜこの人!」
少しだけ俯いたウェイトの顔をエウリューケは覗き込む。
この女は、人が考え込むことすら許さないのか。ウェイトの拳がまた握りしめられる。心底目の前の女に腹を立てた。
拳を握り睨み付けるウェイトに、エウリューケは応える。その意図を本気で勘違いして。
「お? やるのけ? 今のあたし強いぜ? 超強いぜ? 〈白限〉への備えで準備超積んでっからな! 今ならニクスキーどんにも勝てるかもしれねーし!!」
一歩下がり片手を突き出し、あちょー、と片脚立ちで適当な構えをとる。当然、エウリューケには一切の肉弾戦の心得はないが。
ざわりと蠢く腕の刺青。起動すれば、そこに充填された優に千を超える魔術が無詠唱で発現する。その全てを把握し、最適な組み合わせで発動する。それがエウリューケの数十を超える奥の手の一つだ。
臨戦態勢。実際に、戦うとなれば一万の民が住むこの街は壊滅するだろう。
どちらが勝つにせよ、緑のカビが蔓延り、瓦礫の山と化す都市。ネルグに一度飲まれてから再生するまで、数十年は人の住めない土地になる。
ぶつかれば、ただでは済まない強者同士。
だがそれを知らず、殺気もなにも感じられないエウリューケのその様に、ウェイトは気が抜けたように立ち尽くす。
そして、ふと鼻で笑った。
「なるほど。『原因がなければ彼らはそれをしなかった』、か」
「ほへ?」
受け答えではない。明確な独り言に、エウリューケも気が抜ける。ストンと手足を下ろせば、刺青のざわめきも収まった。
「そしてカラスは『壁を壊して逃げることも出来た』。クク、なるほどな」
少しだけ可笑しくなる。
そこにまた親友の声を聞いた気がして。
ウェイトは顔を正す。少しの笑みに、表情筋が解れた。
「なるほどな」
ふと煙草の匂いがした気がする。全くの気のせいではあるが。
「女、貴様は帰れ。我には少しやることがある」
「帰れって言われなくても帰りますぅー! ああ、あたしのカラス君待っててね!!」
ぴょんと一度小さく飛び、エウリューケは姿を消す。
唐突に消え去った。現れるときも唐突だったが。
エウリューケが消え去ったあとを、ウェイトはただ見つめる。考えを整理する時間がほしかった。
積まれた足下の石。ざらざらとした感触を足の裏で撫でて、確認する。
カラスは、牢獄を破壊して逃げなかった。衛兵たちを打ち倒して逃げなかった。あの男にはそれが出来たし、そしてそれを行う動機もあるのに。
牢獄を破壊する、人を傷つけるという悪行を働かなかった。その理由がウェイトには先ほどまでわからなかった。
カラスを釈放するために、青髪の魔術師は自分をあの小さな街へ連れていった。
カラスは、親子で行っていた山賊に遭遇し、それを撃退、衛兵に突き出したところ自らが捕縛されたという。
間違いなく不当な捕縛。逃げればよかったのだ。それなのに、何故石ころ屋の関係者であるあの男は暴れもせず残ったのだろう。
わからない、が、きっとそれが親友の遺した言葉の一端なのだ。
何となくそんな気がした。
「……事情を、調べてみなければなるまい」
この事件。捕縛されたのが石ころ屋の関係者でなければウェイトは知る由もなかっただろう。だが、知ってしまった。少し前に共に戦った男が捕縛されて。
これがまた石ころ屋の策かもしれない。
また自分たちを巻き込むことで、商売敵を効率的に追い詰めるための何かかもしれない。
しかしまだ、人が死んでいない。いつもならば人が死んで自分たちが注目するのに。
ならばまだ間に合うかもしれない。
ただ助けを求められただけならば、ならば気にかかることがある。そして奴らの策であれば、まだ間に合うかもしれない。
ウェイトには、指令でもない限り衛兵の指揮権は存在しない。
だが、衛兵には水天流門下生が多い。
師兄の頼みとしてならば、少しの融通は利く。越権行為はもはや怖くはない。いつもやってきているのだ。今更、それを躊躇することはない。
詳細を知りたいのであれば、本当は、先ほどの魔術師に尋ねるのが手っ取り早かったのだろうとウェイトも思う。
しかしウェイトは、その手段を採りたくなかった。
勝つためではない。ただそのほうが、正しいと思ったから。
早朝の眠気も感じさせぬ足取りで、ウェイトは衛兵の詰め所本部に向かった。




