閑話:分進合話
黒い影が踊る。
路地を通行する商人も、辻馬車の御者も娼婦も気付かぬように、その横をニクスキーが駆けてゆく。
浅黄色の外套を翻しながら、時には壁を蹴り、屋根の上を軽やかに跳ねるように。
ニクスキーは考える。今回の禁止薬物の騒動について。
ニクスキーがこの解決に乗り出したのは、グスタフの指示だ。そのグスタフがニクスキーに指示を出した理由は、末端の工作員の調査で何の不審点も見つからなかったからだ。
末端の工作員は、『薬を扱う新たな敵はいない』と言った。
しかし、実際には明らかに薬は出回っている。
そこに齟齬がある。ニクスキーはその点を、ずっと考え続けていた。
屋根の上、路地を横切るように跳ぶ。
その瞬間、下を歩いている十四人の視線には空が入っていない。ニクスキーの計算通りだ。
ニクスキーの修めている流派は黒々流。そして葉雨流。
攻撃と知覚の速度を追求する黒々流と違い、葉雨流の技法は速さにはこだわらない。むしろ邪魔ともされている。
あるのは視線誘導や意識の隙間を縫う技術。
屋根伝いに往来を飛び越えるというさりげない瞬間さえ、それが使われている。誰も上空へ視線を向けず、そして地面を這う影を気にも留めない。
故にこの街でのニクスキーの活動の多くは誰も肉眼で確認しておらず、それ故に殊更に恐れられていた。
誰にも見られぬよう、雑踏へと静かに降り立つ。気付いたのは、ただ道端にいた猫だけだ。
ラッズの尾行は問題なく行われている。
実際には、名前と職業を知った以上、ここで追う必要性は薄い。後の調査で身辺などいくらでも洗うことが出来るし、エドワードという男のほうから追っても構わない。
だが、今このとき、ラッズを追う必要があるとニクスキーは推測していた。
それが他ならぬグスタフの考えで、そしてニクスキーの考えた齟齬を埋める小片なのだと。
猫が歩き出す。魚を売る行商人の声が響く。
その横をニクスキーはすり抜けながら、小走りのラッズを追う。
ニクスキーの見立てでは、ラッズは明らかに野外に出て探索をする種の探索者ではない。人間相手の荒事を請け負うような、そんな探索者だと当たりをつけていた。
そういった者たちは、往々にして気配に聡い。
自分を尾けてくる者は曲がり角を三度曲がる間に判別し、視線をまともに向けずとも尾行者の顔を知る。それが出来るのが当たり前で、ラッズもそうかもしれないとニクスキーは警戒していた。
後ろ姿に注目しながらも、周囲を警戒する。
そんなニクスキーの耳に、カチッというわずかな金属音が響いた。
敵意はない。金属音は二度、それから間を開けて一度。石ころ屋の工作員の間で使われている符丁の一つだった。
微かな音だ。雑踏の音に紛れていたが、ニクスキーには関係ない。
その音の出所に目を向ける。そこに立っていたのは、見覚えのある工作員。両手足がひょろ長く、やけに頬が赤いのが目立つ男だった。
手元にちらりと見えるのは、音を立てるために薄い金属片を貼り合わせた道具。
それを見て、ニクスキーの中で最後の小片が埋まった。
工作員に歩み寄る。未だラッズの行方は意識の中で追いながら。
「お邪魔して申し訳ありません」
工作員は頭を下げない。雑踏でも、目立つ動作は避ける。常道であり、ニクスキーもそれは咎めなかった。
「…………」
それから工作員は路地の奥を指し示す。薄暗い路地裏は、昼も過ぎてまた閑散としていた。
「ご案内します。奴らの行き先へ」
「……必要ない」
ニクスキーは、工作員の言葉をぞんざいに断る。
そして外套の中に手を入れて指を開く。
もう何を聞くこともない。この工作員の案内する先にいく必要もない。
むしろ、危険なのだ。この路地の先は。
もう、知れた。『石ころ屋の工作員』が目の前に現れた時点で、その目的も。
「……そういうことか。『だから』調査でも不審な点は見つからず、『だから』グスタフさんは俺を動かした」
「ニクスキー様、どうか、急ぎませんと。奴が逃げてしまいま……す……!?」
ニクスキーが小剣を懐に戻す。そして振り返ったニクスキーを見て、工作員の男は寒気を感じた。
馬鹿な、何故こんなに早く。
「…………」
なるほど。歩き出し、ニクスキーは確信した。
今回グスタフから依頼された調査。途中から、おかしいと思ってはいた。
石ころ屋の工作員は、末端とて無能ではない。調査能力は探索ギルドの執行部員に劣らず、異変があれば必ず調査報告に上がる。
ニクスキーは今回手を抜いたわけではない。だが、綿密な調査というには疑問が残る。この程度の調査ならば、末端の工作員も出来るはずだ。
グスタフは、たしかにニクスキーに任せた。
今回は工作員の補助が最初からあるわけではなく、そして追加するならば必ず連絡があるはずだ。なにせ、必要なものは最初に全て渡されている。
ならば、ここで、工作員が現れるのはおかしな話だ。
本腰を入れて気配を隠す。往来にいる人間の視界にすら入らぬように。
辺りを漂う川魚のやや生臭い匂い。それに混じる、わずかな血の臭い。
悟られぬように、その場からニクスキーは立ち去る。
工作員の首から漏れ始めた赤い液体。その頬の色と同じ。
無表情で立ち尽くす工作員の足を濡らし、それが地面に落ちる頃には、ニクスキーの姿は消え失せていた。
どこか遠くの往来で悲鳴が響く。
その声に肩をふるわせたザラは、顔を上げてそちらの方向を見る。
ザラに対し、食堂の机の向こうにいるレイトンは、目だけ外を向けて笑い飛ばした。衛兵を呼べと叫ぶ声を嘲笑い。
「……何かあったみたいだけど、気にしないでよ」
「でも……」
「どこかで誰が何をされようとも、きみには何の関係もない話さ。さ、話してよ」
悲鳴というのは人の注意を誘う。歓喜で上げる者も含め、多くの場合それを上げるときは、その人物にとって一大事な場合が多いからだ。
そしてそれは、危険を表すときが多い。自分もしくはその場にいる他者の危機、さもなくばは何かが起きた痕跡を発見した際の。
故に、悲鳴というのは人の注意を誘う。
にも関わらず、それを気にした様子の見えないレイトンに、ザラは微かに違和感を覚えた。
しかし、その違和感も次の瞬間霧消してしまう。
「妹さんが、酷い目にあったんでしょ?」
へらりと唇を歪めた笑み。その言葉に、感情を揺さぶられた。
そうだ。この目の前の男は聞きたいといったのだ。衛兵は初めから聞く気がなかった話、話したくて話したくて、誰かに聞いてほしい話。それを。
膝の上で両手を固く握りしめ、一度ザラは唇を結んだ。
「……どこから話せばいい、いいの?」
「どこからでも。適当に話してもらえれば、勝手にこっちで整理するよ」
ザラの言葉にレイトンは軽く返す。レイトンとて、何も知らないわけではない。先ほどの衛兵との会話はほぼ聞いている。それ故に、それ以外の情報が手に入れば問題はなかった。
「ヴィネはとても、とても良い子だったの」
「…………」
ぽつりと口に出されたその言葉に、レイトンは反応しない。その妹がどんな女性だったかなど、正直どうでもいいのだ。
「たまの休み以外、私と一緒に工房で糸紡ぎをして暮らしていた。麻や蚕の繭から糸を紡いで、最近は兎の毛なんかからも……」
思い出し、ザラの目に涙が浮かぶ。
妹の紡いだ糸はムラもなく評価も高かった。最近では、最新式の足で踏んで回す糸車を買って、もっと多くの糸を売ろうと二人で遮二無二働いたものだ。
『糸紡ぎは私がやるから、お姉ちゃんは早くいい人を見つけて』と、いつも笑いながら言っていた。糸紡ぎをする女性は、婚姻から遠のくという言い伝えまであるのに。
「私が繊維を梳いて、妹が紡いで、私がそれを蒸して、ずっとその繰り返し。だから、妹が」
「夜外出するのも、たまの気分転換だと了承していた」
ザラの言葉を遮り、レイトンが継ぐ。その行為に言葉を止めたザラは、目を丸くしてレイトンを見た。
レイトンはその目には応えず、ただザラの次の言葉を細い眉を上げて催促する。
ぎこちなくゆっくりと頷き、ザラは続けた。止まった空気を振り払うように。
「今年になってから。妹が夜出かけるときに、化粧をするようになった」
ザラはその姿を思い出し、唾を飲む。今思えば、あの時気付いていれば。
「そしてある日、あの日見つけてしまった。妹が、私たちで貯めたお金に手を出すのを」
日々の細々とした収入から、貯まっていたのは銀貨十五枚。新しい糸車を買うために共同で貯めていた貯金だった。
戸棚を漁っていたヴィネを見つけ、咎めたザラは見た。いつにも増して濃い化粧を。
いや、その時初めて気がついた。妹の顔色の悪さと、昼にもその顔色の悪さを隠すために化粧を重ねていたのを。
「『ごめん、あの人にお金を渡さないと』って妹は言ってた。そのために、そのときにはもう自分の貯金も使い果たしていたみたい」
「……あの人、ね……」
レイトンは言葉の端々から推測を重ねていく。
その銀貨を、誰に、何のために渡していたのか。それを薄々感づきつつ。
「それは誰って私は聞いた。でも、妹は答えなかった。そしてそのまま家を飛び出していったの」
「そしてそれきり……って?」
レイトンの言葉にザラは頷く。
「衛兵へは?」
「二日後には探してとお願いしたけど、ただの家出だと断られた」
途切れ途切れで、取り留めのない言葉。しかしレイトンの脳内では、それは時系列に沿って重要な情報として並べられていく。推測も交えながら。
「……その相手が探索者だっていうのは?」
「夜遊びが多くなってきたくらいのときに、聞いた。酒場の喧嘩で、酒場で妹を守ってくれたって嬉しそうに言ってた」
酒場。その言葉を聞いて、また内心レイトンは笑う。
衛兵の言葉を聞く限り、ヴィネは成人前。禁じられているわけでもないが、成人前の飲酒は忌避されているはずなのに。
「その探索者と、仲間たちと、遊びに出てたって聞いてたから。だから、衛兵ならすぐに見つかると思ったのに……」
ギリ、とザラは奥歯を鳴らす。先ほどの衛兵の態度を思い出して。
殺されたにせよ自殺したにせよ、そのときに衛兵がきちんと探してくれていれば妹は死なずに済んだかもしれないのに。
いいや、妹は自殺なんかしていない。
そのとき探し出していれば、妹は殺されずに済んだのに。
右手で掻き毟った左腕から微かに血が滲む。
だが、痛みは感じない。それよりも、妹の痛みを想像して胸が痛んだ。
この街の衛兵は、妹の命を守ってはくれなかった。彼らを統べているこの街の統治者、王族たちは、自分たちの少ない稼ぎからも容赦なく税を奪っていくというのに。
街によって、衛兵の質は違うという。ザラはこのイライン以外の衛兵を知らない。だが、この街の衛兵たちが普通とは思いたくなかった。
「それから四十日は経って、ようやく衛兵は私のところに知らせてきた。妹の場所と」
「妹さんが死んだ報告を持って、ね。いいよ。だいたいわかった」
もう終わりだろうというところを見切り、レイトンは視線を横に向ける。
ザラの持っている情報、その過不足を読み、推論を積み上げていった。
一瞬の思考。そして、会話の想定も終わり、ザラへと向き直る。
その笑みに、何故だかザラは寒気を感じた。
「まず言おうか。きみにとって残念な報せだけど」
「……何?」
ニコリと笑みを強めたレイトンに、ザラは眉を顰める。今の話に、笑えるような箇所は一切なかったはずだ。
「きみの妹、ヴィネ・イストラティは殺されたわけじゃないよ」
「…………!!」
ザラはその言葉の意味を受け取り愕然とし、それからレイトンを睨む。
今の話を聞いて、何故、どうして。
「実を言うとさっき、きみの妹さんが死んだ場所を見てきたんだ。あれは、殺されたわけじゃない」
「……貴方も、自殺だっていうの……!?」
静かな怒りを言葉に滲ませる。話を聞いてくれた、その行為に感謝したのが間違いだったとさえ思った。
きっと、この男も衛兵と一緒なのだ。
そういえば、先ほど『正義の味方』と名乗っていた。ならば、そうだ、正義を掲げる衛兵たちの味方であるはずだったのに……!
ガタン、と椅子を勢いよくずらし、ザラは立ち上がる。我慢できなかった。
手元に水でもあれば、勢いよく掛ける程度はしていただろう。残念ながら、机の上には何も乗ってはいなかったが。
へらりと笑った不快な顔。その顔に叩き込もうと拳を握りしめる。
「自殺でもないね。あれは、事故死というのが正しいかな」
レイトンは、ヴィネの死ぬ様子を思い出す。薬物中毒による幻覚妄想により、自らの喉を切り開いた。苦しみながら、苦しみから逃れようと。
「そして、その原因はその『探索者』にある」
その言葉に、ふとザラの拳が緩んだ。
もっとも、その拳が振るわれようともレイトンには届かない。
レイトンは内心自分の言葉に付け足した。
原因はその『探索者』だけではないだろう、と。
「きみはその『探索者』が憎い?」
レイトンは尋ねる。その言葉に、ザラは大きく頷く。当然のように。
「ええ」
「じゃあ、殺したい?」
「…………」
続く質問の答えを、何故だかザラは口に出せない。そのはずだ、さきほどまさに殺してやりたいと内心叫んだのに、と自覚しながらも。
その内心も、ザラの目に現れる。
『殺したい』とザラの瞳が頷くのを認めて、そしてそれでもザラがそれを口に出さないことを考え、レイトンは口元の笑みを強めた。
「なら、行こうか。今からその『探索者』のところへ」
ちょうどいい。もう一人の『正義の味方』もすぐそこにいる。
遠くから響いた悲鳴の場所と足音と臭いから、レイトンは仲間の所在を推測する。
悲鳴の場所は、間違いなく往来。そして悲鳴は声音から、自らの危機に対するものではなく、何かを発見した驚きによるもの。それもその『何か』は尋常なものではない。
悲鳴は一度で、その他の騒乱の音はない。
微かに聞こえた声は、衛兵を呼ぶ声。治療師ではない。
ならば、きっともう手遅れなのだ。その悲鳴の原因は。
席を立ち、食堂の入り口まで歩いて振り返る。
その笑みに促され、ザラはふらふらと足を踏み出した。




