閑話:銀の雪
「ソーニャ様。また……」
「またか……」
暗い顔の侍女に向けて、ソーニャは溜め息を返す。その手にある白い包みは、きっとまたあの男のものだろう。
たまに送られてくる手紙。もちろんそれを宛名の女性に届けることはない。
その中身がわからないわけではない。むしろ、わかるからこそ届けない。
汚い字で書かれた差出人の名前。それだけで、中に書かれていることはわかっている。
最初と、二回目だけは、ソーニャが目を通した。メルティに見せる前に一応の検閲が必要だとソーニャは思い、見て、そして後悔した。
何をどう勘違いしたのだろう。
ハイロと名乗ったあの男。それが、ずっと姫を慕っているのだという。
ソーニャは思う。
可憐な姫だ。下々の男性が夢中になるのも仕方がないだろう。
その声は鈴を鳴らすようで、白い肌は陶磁器のよう。広がる髪の波はまるで油を塗ってあるかのように滑らかに光を弾き、手は染みも傷もなくその心のように純真無垢。
姫様に手を触れ、言葉を交わせばたちまち虜になってしまう。
最近はさらに美しくなられた。少女から大人になる年頃の、憂いを帯びた表情は、また違った魅力があるだろう。
仕える主を讃える言葉であれば、いくらでも紡ぎ出せる。
実際のメルティと比較すればやや過分である言葉。その半分はソーニャの本心で、もう半分は長年仕えてきた故の職業柄でもあるが。
とりあえず、今日も廃棄してしまおう。そう思った。
だが、その手が止まる。手に持った包みがいつもと違うのだ。手紙にしてはやけに分厚く、固くはないが軽い重みがある。
これも職業柄、中身への警戒心が瞬時に湧き起こった。
刃物? いいや、ならばこんなに柔らかくはない。
噂では、治療師の中でも異端とされるごく一派では、瘴気を固体化、もしくは液状化することに成功しているという。その類いか。
いや、そもそも、本当に差出人がハイロであればそのようなものを入れることはないだろう。恋慕が偏執となる事例は物語としてありふれているが、そのようなところまで至れるような男でもあるまい、という逆の信頼もあった。
一応形式に則り封蝋がされている封筒。蝋には何の文様もないが、家名のないハイロには仕方のないことだった。
懐から取り出した銀のペーパーナイフを隙間に差し込む。
庶民にしては張り込んだのだろう。白く丈夫な紙が、音もなく開いた。
その中身を見て、ソーニャは首を傾げる。
あの男は何を考えているのだろう。中に入っていたのは、もう一枚の紙に包まれ、丁寧に畳まれている手巾だった。
手紙の方は、と見れば、一枚目と変わらない雑な文字。目を細めて何とか読み取れば、これも初回とは変わらない時候の挨拶から始まった拙い文章だ。
最近のメルティの様子を尋ね、近況を報告する。まさしく普通の手紙。
そして最後にその追伸として、手巾について書かれている文章をようやく見つけることが出来た。
『手巾を同封いたします。柄を見て、これは、と思いました。よろしければお使いくだされば光栄でございます』
「ほう……」
その言葉に思わず手紙ごと手巾を握りしめてしまいそうになり、慌ててソーニャは手の力を抜く。一応これは主への献納品なのだ。
不審物ではなかった。内々で処理してしまっても構わないが、一応確認はとらなければ。
メルティ様が欲しがるとも思えないが、それでも万が一、億が一、興味を示したときに不備があっては困る。
『贈り物が同封してあれば無下には扱わないだろう』というリコの言葉を正確になぞるようにソーニャは動く。もっともリコも確証があっていったわけでもなく、そしてソーニャが少し気まぐれを起こせばこのまま捨てられてしまっていたが。
今、メルティは午後のお茶の時間の真っ最中だ。
その主に今報告すべきか、それともあとで報告すべきか。
一瞬迷ったソーニャは、すぐさま一歩踏み出す。
面倒なことは早く済ませた方がいい。メルティ様にとっても、自分にとっても。そう思った。
「……あの男から、ですの?」
報告したソーニャの言葉に応えて歪んだメルティの顔に、一瞬でソーニャは決定する。
捨てよう。一刻も早くメルティ様の目の届かないところに捨て置かねば。
「添えてあるのが手巾? 花でも香でも、もっと彩りのあるものにすればよいのに」
続けるその言葉ももっともなものだ。女性には花と決まっているものではないが、定番ではある。
何より、リドニック時代のメルティにとっては贈り物とはそういうもので、たかが布一枚がなんだというのだろうかとも思う。
礼儀として一枚持ち歩いてはいたが、それもただの礼儀としてのものだ。実用性などどうでもよく、手を拭かなければいけないときには周りの者がその都度上等な布を持ってくる。
そんな中で育ったメルティにとって、手巾一枚に価値を見出すことは出来なかった。
もっとも、それはハイロも同じこと。
花や香に価値を見いだせず、贈る気は最初からなかった。思いつかなかったといってもいい。
彼らにとっては、花は食べられなくもないが腹は膨れないもの。香で楽しむべき匂いも、不快で耐えられないほどでなければ構わないし、そもそもその不快の閾値が彼らは極端に低い。
石ころ屋に買い取らせることも出来たため、花や香に金銭的な価値があるのはわかる。だが、その意味を真に理解しているとは言い難い。
花や香に関しては、どちらかといえばリコは理解していなくもないが、それでも『そういうもの』として覚えているだけだ。
そして、布に関しても。
リコはその生まれと嗜好から、装飾の観点からの布の価値も理解している。
だが、ハイロは違う。
ハイロにとって、布は大きければ大きいほど良いものだ。裂いて怪我に巻くことも、体を保護することも、住居の補修材として使うことも出来る。大きければ使い出がある。その一点で。
手巾などの小さな布ではほとんど何も出来ないし、怪我に巻くにしても一カ所分。それに、血で固まってしまえば使い切りだ。水で洗っても限界がある。
故に、彼らは手巾などの小さな布に興味は示さなかったはずなのに。
だからこそ、リコは感心もしたのだ。
服飾を扱っているリコならばまだしも、そのようなものに全く興味を示さないハイロが、何の役にも立たないはずの手巾を贈ることを選んだ。
贈られる側のことをわずかなりとも考えて、贈ろうとした。
そのはずだったのに。
「それではこちらは処分しておきます」
「そうしてくださりませ」
それだけ言って、メルティは緑茶を啜る。ライプニッツ領から取り寄せた渋みのあるお茶は、甘みを増量した練り菓子に合う。
それが、一応開いて確認してからだったならばまだ良かった。しかし、メルティはその手巾一枚を一顧だにしない。
リコやカラスが見ていたら憤慨した光景だっただろう。
そして、仮にハイロの事情を知ったマリーヤが見ていたら激怒していただろう。
また、リドニックと同じことを繰り返すのかと。
彼らの気持ちが伝わったわけではない。
もちろん、この場にその妖精のような少年はいない。
本物の妖精もここにはいない。見ていることもない。
だが、天罰のような事象は起きた。
お茶の取っ手を持つ手がつるりと滑る。
ゴン、と重たい音を立てて木の机に落ちたそれはその丸みのままに転がり、床へと落ちる。
「キャッ!?」
その杯が割れる音よりも先にメルティの悲鳴が響いた。まだ湯気も上がり、取っ手を持たなければ保持すら難しかった温度を持つお茶。それが腿に滴り、鋭い痛みを喚起した。
「熱っ……」
「メルティ様!?」
慌てて駆け寄るソーニャ。
ガシャンと陶器が割れる音を無視して、衣服の太腿部分に伝う水分を布に吸収させる。
手近な布。今まさに主に示していた、ハイロの贈った手巾で。
「水を! 盥に水を一杯にして、それと何か布をこちらへ! 早く!!」
「はい!!」
まずは冷やさなければ。そう考えたソーニャがほぼ反射的に侍女に指示を出す。こういった場合、服を脱がさなければいけなかっただろうか、それとも服の上から冷やさなければいけなかったか、そんなことを混乱した頭で考えつつ。
軽く叩くようにして拭き取りながら、ソーニャはメルティの顔色を確かめる。温度からして、おそらく表皮の下までは火傷は到達していないだろう。しかしそんなことはどうでもよく、ただ主の苦しみを顔色を通して窺おうと。
「ソ、ソーニャ、大丈夫よ」
「いいえ、とりあえず、水が来るまで動きませんよう。服に張り付いた肌が裂けるということも聞きますので」
考えすぎだが間違いではない。ソーニャの言葉で、それでも気丈に振る舞おうとしていたメルティの顔色が悪くなる。
実際はそれが起こるのはもっと酷い場合だ。このときのメルティの火傷は肌が赤くなっている程度で、跡にすら残らないであろう軽いものだったが。
侍女が戻ってくるまで少しだけ時間がある。
「しかし、あの男もたまには役に立つものですね。こういった事態を想定していたとは思えませんが」
水分を拭きとりながら、ソーニャは呟く。畳まれたままの兎毛の手巾は、しっかりとメルティの膝を伝う水分を吸ってメルティの役には立っていた。
「……見せてくださる?」
メルティも、なんとなくその手巾が気になった。先ほどまでは一顧だにしていたなかったはずの手巾。だがそれが自分の役に立ったと聞けば、広げてみるくらいはしたくなるというものだ。
メルティの言葉に、ソーニャは微笑みながら手巾を開く。ソーニャも見てはいなかったが、そこには青みがかった白無垢の生地に、雪の結晶が連なっているような見事な刺繍が金と銀の糸で施されていた。
「あら、雪の装飾かしら」
「そのようですね。この生地は……絹ではないようで」
ソーニャは自らの不勉強を恥じた。一目でその生地がわからないというのは、家令として教養がないと断じられてもおかしくはない。
「雪、ね……」
その装飾を見て、メルティは思い出す。遠いリドニックでの生活のことを。
このイラインではほぼ見ない、雪。彼の地では毎日のように降っていたのに。
「マリーヤは、元気でしょうか」
「どうでしょうか。今はリドニックで活動しているようですが」
ソーニャはその詳細について答えられない。知る機会はあった。なのに、その情報を耳に入れることが出来なかった。
かつての同僚。それが、メルティの命を狙ったあの事件。その事件が未だに喉に突き刺さった魚の骨のように、どこかで邪魔をしていた。
「少し前に北壁が膨れあがり、そしてそれに喚起されて暴走した魔物たちが鎮圧されたとか」
「まあ」
メルティは驚く。それが一大事だとメルティすら知っていた。
いつかは起こると思われていた、北壁の膨張。それが本当に起こるという大惨事の幕開けともいうべき大事件。そのときには世界が終わってしまうのではないかとも伝えられていたはずだ。
「……その時に、紅血隊隊長グーゼル・オパーリンとともに兵士たちを鼓舞したと聞きます。その結果、北壁は鎮まり、魔物たちも鎮圧されたとか」
実際には間違いだ。
マリーヤは戦場に出ていないし、兵士たちを鼓舞したのもグーゼルの他多数いる。
しかし、吟遊詩人の語る話には艶が必要だ。そのためにわずかに事実は歪曲され、歌の上では、二人の佳人が兵たちの前に立ったとされていた。
しかし、二人はそれを知らない。
そしてソーニャは、あのマリーヤならば戦場にも立ちかねないと考えていた。
「そしてその折、一番大きな魔物。終末の獣と呼ぶべき獣を討ち取ったのは、あのカラスだとか」
「あの男ですか!?」
メルティは、その名を聞いて少しだけ身を引く。恐怖が無意識に体を動かしたのだ。
ソーニャは頷く。その苦手意識は取り払ったほうが良いと考えて。
「音に聞く砲撃、《山徹し》の一撃を模倣し、山ほどの巨体の頭部を貫いたそうです。少々大仰かもしれませんが」
しかしそれも、あの魔法使いならばやりかねないとソーニャは思っていた。
自分はおろか他人までも巻き込み姿を隠す隠行を使いこなし、遠く離れた人間を押しつぶし拘束することも行っていた。魔法使いにもかかわらず、障壁などには頼らず飛んできた矢を掴む。治療師のように体内を精査し、今は途絶えつつある本草学にまで通じている。
万能の才があるといわれても信じてしまうほどの多芸さ。
ならば、伝説の砲撃すらも使うことが出来るかもしれない。
もちろん、カラスに関しては箝口令が敷かれている。
ソーニャも確認を取っていなかったが、公式にはそんな事実は存在していない。
しかしやはり華々しい活躍は人の口を伝う。詩人が詩を作り、酒場で広まる。そうして、リドニック国としては認めない活躍が、もはや周知のものとなっていた。
「そしてその後には、灰寄雲の雪も降ったとか」
灰寄雲。その言葉を聞いて、メルティが唾を飲む。
彼の国では稀に降るとされる凶兆。大量の人間や魔物が死ぬ前後に降るとされ、そしてその雪に触れれば毒に侵され命を奪われてしまう黒い雪を降らせる雲の名だ。
「……それは……、……大変だったのですね……」
メルティは衣服の喉元を押さえて、やっとの思いでその言葉を吐く。
大変なのだろう。大変なのだろうと思う。その大変さを、自らは感じたことがないが。
あの日自覚した。自らの幸運ともいうべき王の気遣いに、胸が苦しくなった。
「ねえ、ソーニャ」
「なんでしょう?」
「貴方は、灰寄雲を見たことがありますか?」
目に涙が浮かびそうになる。やはり自分は死んだ方がいいのかもしれないと、突然胸中に思い浮かぶほどには、その事実に苦しんでいた。
「……二度ほど、でしょうか」
「私は、見たことがありません」
ああ、とソーニャは思い至る。王城には、いつも〈災い避け〉の結界が張られていた。明らかな災いである黒い雪は、王城に降ることすら出来ないのだ。
「四色の雪が降るとあの少年に私は言いましたけれど、私自身、三色しか見たことないのです」
白と橙と赤。赤に関しても危険ではあるが、それでも黒よりは危険度は低い。故に当たれば酷い凍傷を負うものの、〈災い避け〉を使用する術者はそれを城に降らせていた。
「きっと、そのとき城下ではもっと酷いことになっておりましたのに」
ソーニャは応えられない。
実際、メルティが城にいたときもそうだったのだ。
王都においても大勢の人が飢えて死に、黒い雪が降る頻度は多かったが〈災い避け〉は城にそれを降らせなかった。
しかし〈災い避け〉は災い自体を止めるわけではない。術者が人に害をなすと考えた物体が、障壁に押しのけられるだけだ。
するとどうなるか。
降るのだ。
城の周囲の城下町に、毒を帯びた黒い雪が、普通よりも濃く。
「私の国でした。なのに、国民の全員が知っているはずの光景を、私は知らなかったのです」
既に冷めたお茶。しっとりと肌に張り付いた衣服も冷たくなり、そこを握りしめたメルティの拳から茶が滴った。
「ふふ、駄目ですね。私は未だにあの国には戻れそうにありませんわ」
あの魔法使いの言葉が未だに頭の中に戻っている。
『後悔しているのならば、生きてあの国に戻れ。戻って、忘れられるまで憎まれ続けろ』
出来るのならばそうしたい。
しかし、それは出来ない。怖いのもある。しかしそれ以上に恥もあった。
既に冷めていることにようやくソーニャも気付き、そして立ち上がる。
「無理もありません。けれど、姫様は強いお方です。いつかお戻りになられるでしょう」
「そうかしら」
この世で一番信頼している女性の言葉にも、頷けない。自分はそこまで強くはない。
しかし、そうだ。
目の前にいるのは、この世で一番信頼している女性。彼女がいるのならば、ともに歩んでいけるのならば。
「……その時には、ソーニャ、貴方も一緒に来てくれる?」
「もちろんですとも。姫様が望むのならば、この身を黒い雪の中にでも投げ出しましょう」
即答。その真っ直ぐな目を見返して、メルティは微笑む。
ならば、戻れるのかもしれない。二人ならば。
苦難の道に、今までの人生で避けられていた災いを味わう旅に。
そろそろ侍女が水を携えて戻ってくるだろう。
絹の手袋を外し、水を扱う準備をする。この様子では大きな怪我にはなっていないが、とりあえず水で冷やすべきだろう。氷や、それこそ雪があればなおいいが、魔術師でもいなければこの街では手に入らない。
口惜しい。この身に魔術の素養があれば。グーゼルのように戦えるほどはなくても、掌ほどの氷を作り出す程度の力があれば。
そんな無い物ねだりはいつものことだ。
ソーニャは、何の気なしに落ちた陶器の破片を拾う。
これも片付けないといけない。二人の侍女は水を汲みに出払ってしまっているため、戻ってきてからになるが。いや、それまでに自分が片付けてしまおうか。
せめて、大きな破片だけでも……。
そう思ったソーニャの指先に鋭い痛みが走る。
手袋を外した後に、鋭い破片に触ったのは明らかなソーニャの失態だ。
メルティの火傷で動転していたのだろう、その鋭い痛みに我に返ったソーニャは、内心自嘲した。
「……ソーニャ?」
「お気になさらず」
メルティに気付かれまいとさりげなく後ろ手に右手を隠す。その指先を滴る血は、主に見せたくない。
しかし、メルティは気付いていた。一瞬顔を歪めたソーニャの様子に、そしてその顔を歪めた原因の箇所に。
「見せて下さいまし」
「姫様はご自分の心配をなさるときです。私のことはかまわず」
「……見せなさい」
少しだけ語気を強めて、それでもたしかに叫ぶように強くメルティは命令を下す。
その剣幕に、ソーニャは少し驚いた。
しぶしぶソーニャはその人差し指の先を主に示す。強く指の根元を押さえて止血しながら。
「多少傷ついてしまいました。大した怪我ではありません」
「…………」
メルティは無言で自らの胸元を探り、一枚の布を取り出す。
絹の手巾。装飾として彼女が持ち歩いている手巾だ。
「っ…………!!」
精一杯の力を込めて、その絹を裂く。
ピー、という絹の特有の高い音が響いた。
本当は、誰か慣れている者が行ったほうがいいのだろう。メルティはそう思いながらも、その手は止まらなかった。
「姫様?」
「たしか、こうやって……」
途中まで裂いた布の二股の部分を指の傷に当て、裂いた端の部分で指を包むようにぐるぐると巻いていく。
このイラインに来てから、ごくたまに廊下を歩く使用人がやっていた気がする。擦り傷や切り傷の上から、布で巻く。
メルティは、見よう見まねでそれを行おうとしていた。
ソーニャは戸惑い動けない。何をしているのだろう? そんな困惑が頭に満ちた。
「これで、どうかしら?」
上目遣いに尋ねるメルティの言葉でようやく気付いた。主の意図に。
そして、内心苦笑した。
圧迫による止血や、固定であればもう少しきちんとした巻き方がある。そのただぐるぐる巻きにしただけの不格好な結び目は、簡単に解けてしまうしなにより何の役にも立っていない。
褒めるべきは、清潔な布を使ったということだけだろうか。
ソーニャの中で、そんな思考が浮かぶ。
しかし、口には出せなかった。
闘気を用いれば、一日で消えてしまうほど小さな切り傷。そんな些細な傷を心配し、自分の持ち物を躊躇なく壊した主の行動を批判することなど出来なかった。
その優しさが周りに向けば、きっといい方向に転がっていくのだろうから。
「ありがとうございます」
「早く治してね? ソーニャの肌に傷が付くなんて、この私が許しませんわ」
「ならば、そういたしましょう」
決意した。明日の朝疲労困憊で立ち上がれなくなろうとも、今日のうちに跡形もなく傷を消そう。もし、疲労困憊で立ち上がれずとも、立ち上がる。そうソーニャは決めた。
実際には、そこまでの疲労も必要ないし、治療師に行けば跡形もなく即座に治る。そして放っておいても、次の日には跡もほぼなくなるほどの小さな傷だったが。
「新しい手巾もすぐに手配いたします」
「……必要ありませんわ」
自分の血の付いた手巾など使わせるわけにはいかないし、そもそも裂いてあるので縫ったところで傷が出来る。そう、新しいものが必要だと思い発したソーニャの言葉に、メルティは反論する。
ソーニャの頭にまた疑問符が浮かんだ。
だが、メルティの指先を見て、すぐにその疑問符も消し飛んだ。
ならば、すぐに洗わなければ。
「せっかくハイロ様から頂いたんですもの。あの方にしては趣味の良いものですしね」
何より、その刺繍が気に入った。王城にいたときと同じような、丁寧な職人の仕事。それに手触りもよさそうな一級品だろう。と、そうメルティは思った。
その言葉に、ソーニャも笑う。
「……そうですね。あの男にしては、良い物です」
ソーニャの審美眼でも、メルティの見立てと相違ない。
一番街で貴族向けに商売をしている店で買ったのだろう。薄給のほとんどを注ぎ込んだのではないだろうかと、そう勘違いしていた。
そのとき、慌ただしい足音とともに扉が開かれる。
「失礼します!! 水と布! お持ちしました!!」
一人の侍女が束ねた布を小脇に抱え、その後ろで大きな盥を二人の侍女が持っている。
座っているメルティに駆け寄ってくる彼女らの剣幕に、ソーニャは自らの失態にまた気づいた。
ああ、そういえば。
火傷をしていたのだと、その侍女たちを見てメルティも改めて思い直す。
そして蘇ってきたピリピリとした太腿の痛みに顔をしかめ、慌ててソーニャも侍女たちに指示を出すのだった。




