閑話:継手
前後編の 後編 です。
工場で働く駆け出しの新人は、大抵の場合年の近い職人たちと身を寄せ合い暮らす。
それはまだ給金も少ない彼らにとっては、家を共同で借りることで金銭の節約をし、食事や家事の手間などを分け合うための知恵だった。
しかし、モスクはそうせずにごく小さな小屋を五番街で借りていた。
それはもともと一人で暮らしていたモスクの要望であり、様々な職場を体験させる際に、寄り合いに伴い発生するしがらみが邪魔だというグスタフの意図もあった。
ハイロに盛大に愚痴を漏らした次の日の朝。モスクは借りている家を出た。
片手に持った、仕事道具が重い。
さあ、今日もまた叱られるための作業の始まりだ。
とりあえず、あの作業場では腕を磨くことは出来る。工場の雰囲気も大体掴めた。これで、職人としての腕がある程度上達したら、今度は設計などの勉強も入る。そのためには職場も変えなければならないだろうが、それでも構わない。むしろ、早くそうなってほしい。
自分に文句ばかりを重ねる親方の顔を思い浮かべて、モスクの足が一度止まる。けれど、それには負けまいと眼鏡のずれを直し、また一歩踏み出す。
そこからは、ずんずんと大股に歩き始めた。少しばかり腹が立って。
だいたい、もっと効率的な方法があるはずだ。
水を張った盥を使って水平をとる水準器も、自分ならもっと正確に素早く使えるように改良できる。石に糸を張り、その糸に合わせて基準として傷をつける方法よりも、糸に染料か何かを染みこませて直接描く方が正確な線が描ける。
余った端材で密かに行ってはいるが、鋸を挽く練習であれば、そうやって描いた線をなぞるようにやったほうがいい。今の、何の指標もない本番をひたすら繰り返すのは廃棄される材料的にも無駄になる時間的にも非効率的だ。
何より。
目見当よりも、設計図通りに作った方がよほど正確だ。
実際には、親方もそれは否定していない。
だが、練習は不必要だとも思っている。なので親方はその指導をしていなかった。
言い返したい。
彼らの知恵は、長年の蓄積によるものだ。きっと自分が間違っていることもあるのだろう。だが、頭ごなしに全て自分が間違っていると言われるのも腹立たしい。
もっとも、今言い返すことも不適切だろう。
自分はたしかに今下っ端で、彼らには知識も技術も敵わない。
故に、我慢するしかない。
実際には、そこまでの不自由な職場ではない。改善すべき点は親方の判定のもと改善されるし、よくなるのであれば立場なども関係がないわけではないが薄い。
だがモスクには、ハイロにすらわかる欠点があった。そのために、言い返すことも出来ずにひたすら不満が溜まっていた。
石畳を歩く。
我慢しなければ。そうして技術を吸収して、次を目指そう。そう改めて決意しながら。
人通りの少ない路地。それでも朝のどこか慌ただしい中。
歩いていたモスクの斜め後ろから、鈍い音と馬の嘶きが響く。
振り返ったモスクの目に飛び込んできたのは、突然の出来事に戸惑い座り込む馬と、石を踏んで車輪が破断した馬車だった。
自分には関係のない乗り物。一瞥したモスクがまず思ったことはそれだった。
木製の骨組みに装飾はないため、それが庶民向けの辻馬車であることはすぐにわかる。だが、乗ったことはない。
モスクの場合、大きな荷物を抱えて移動することもなく、精々が職場と家の往復であるため道に迷うこともない。故に、自分の足を使って移動することもない怠け者のための乗り物だと、そう思っていた。
しかし、困っている。それは明白だった。
降りた御者の男性は車輪を見つめて嘆く。馬を宥めてから、もう一度車輪を見て、お手上げだと頭を掻く。それを繰り返していた。
放っておいてもいい。
モスクとは何の関係もない馬車で、顔も知らない御者で、今すぐ職場に向かわないと遅刻となる時間だ。
放っておくべきだ。そうは思った。
しかし。
踵を返し、職場へと向かおうとしたモスクの足が止まる。何故止まったのかは自分でもわからない。だが、自分の体の言っている言葉がわかった気がして、もう一度眼鏡を直して、モスクは馬車へ向かい歩き出した。
歩み寄ったモスクを、御者は怪訝な目で見返した。
「……すまねえが、今乗っけらんねえよ」
「そうじゃなくて、手伝うよ。車輪が壊れただけだろ?」
一瞥し、モスクはその車輪の状況を読み取る。六本の湾曲した木材を組み合わせ、円形に組んだだけの車輪。継ぎ目は蟻継ぎを釘で補強してある。
そして現在、組み合わされた木材の一つが、石を踏んで内向きに割れている。そのせいで円滑な動作が出来ずに、片方の車輪が回らなくなっている。
それだけだ。
そこまで確認したモスクは、仕事道具を開く。その中から、鋸と小さな鑿を取り出すと、御者を押しのけしゃがみ込んだ。
「ちょっと回すから」
「……あ、ああ……」
壊れた車輪を回転させ、壊れた木片を地面の位置から上へと引き上げる。それから鑿の持ち手で軽く叩き、木片を取り外しにかかった。
「予備の木とかある?」
「いや、ないけど……」
「そうですか」
もとより期待はしていない。答えを待たずに、モスクは荷物の中から練習用だった握り拳二つ分ほどの木の塊を取り出す。それから、取り外した木片に指を這わせて長さを確かめた。
「……二横指くらい、で、……いや、三横指は必要かな」
言いながら、木片を小さな鋸で切断する。破断した部分が切り取られ、綺麗な切断面を持つ二つの木片に解体される。
「んで、噛ませるのは……二つが限界……?」
それから鑿で軽く木片に傷をつけて、丁寧に溝を彫る。継ぎ手と呼ばれる手法であるが、モスクはそれを設計図も何もなしに行う。丁寧に、時間をかけて。
四半刻ほどが経ち、鐘が鳴る。
既に、本来ならば職場にいる時間。だがモスクはその手を止めなかった。
「すまねえな。ヒビがいってたから、そろそろだとは思ってたんだけどよう」
「まともに石踏んじまえばいつでも同じじゃねえの」
御者の謝罪と感謝の言葉へ、モスクはぶっきらぼうに返す。
木片を組んでいく。継ぎ手部分が一つ増えたが、長さはどうだろうかと確かめつつ。
そして、車輪との長さも合い、元通りにはめ直そうとしたとき、御者の言葉を脳内でもう一度反芻した。
ひびが入っていた。つまり、この車輪は老朽化していた。
目立つ部分はもちろん直した。あとは組みなおした車輪の一部をはめ込み直せば終了だ。ひとまずは動くようになるだろう。
けれど、他の部分をきちんと見ていただろうか。もしかしたら、見落としがあったのではないだろうか。そう、考えて、唾を飲んだ。
組む前に確かめなければ。そう思ったモスクは、割れた車輪をもう一度見直す。今度は手で撫でて、揺らし、引っ張り、叩きながら。
その結果、一つだけ見つけた。明らかにおかしな部分。
「危ねえ……」
モスクは安堵の溜め息をつく。他の場所は特に問題がないが、車軸から車輪の割れた場所へと伸びる木、輔と呼ばれる木を叩いた音が、少しだけ違っていた。
見た目は問題ないが、拳で叩けば他と比べて鈍い音がする。中にひびが入っている。そう判断するのには充分な要素だった。
「ありゃ、他もかい」
「ん。輔の方も痛んでるな」
……しかし、こちらはどうしたものだろうか。モスクは悩む。
折れているのであれば簡単だ。継ぐか、何かと交換すればいい。だが、今現在折れてはいない。
交換してもいいが、そのための木材もない。手持ちの木片は使い切ってしまったし、そもそも輔に使えるほどの長さはない。
そうして悩むモスクに、御者から助け船がはいる。
「……まあいいさ。直してくれたのはありがたいけど、これから修理に行けばいい話だし」
「そうだな。そうしてくれると助かる」
そうすると結局、自分がしたことはほとんど無意味か。そんな苦笑がモスクの声に混じった。
だが、御者はモスクの肩を叩く。満面の笑みで。
「助かったのはこっちだよ! ここで解体して運ぶか、人を呼ぶか迷ってたんだ! 動くようにしてくれたのは君の手柄さ」
「それならいいけど……」
曇りのない感謝。そんなものを受け取る機会のごく少ないモスクは、その笑みに戸惑う。
攻撃性のない笑み。その笑顔に、どう反応していいかわからなかった。
御者は、修理された車輪を撫でる。継ぎ目には段差もなく、見た目には壊れる前と何ら変わりはないようにも思えた。
「しかし、いい腕だ。どこの店かは知らないけど、指導がいいんだろうね」
「あの馬……親方が?」
「ああ。もちろん、俺が感謝すべきは君だけど」
ハハと、御者は笑った。
その言葉にモスクは気付き、自らの成果物を見た。
車輪の修理。少し難しいかもしれないが、あの工場であれば誰でも出来る。そうだ。それなりに難しいのだ。
だが、そうは思わなかった。
傷の程度を把握し、腕が動いた。まるで『そんなもの簡単だ』とでも言わんばかりに。
眼鏡のずれを直し、頬を掻く。
そうだ。何故自分は出来たのだろう。ほぞで継ぐこの方法も、あの工場に入る前は出来なかったことだ。
やるときめてから物を見た。それが出来たのは何故だろう。ミールマンの地下探索など、前はあんなに綿密な計画を組んでいたのに。
設計図もなしに、この工作が出来たのは何故だろうか。
「じゃ、午後からはいけるかもしれないから、俺は修理に行くよ。今度必要なときは声かけてくれよ。ただで乗せてあげよう」
「ああ、気をつけて」
馬が嘶く。
挨拶もそこそこに、御者は馬車を駆り走り出した。
ガラガラという車輪の音に少しだけ苦いものを感じ、それを見送ったモスクも反対方向に走り出した。
「モスクの野郎! どこいきやがった!!」
工場に怒号が響き渡る。明らかな遅刻をするモスクに業を煮やした親方の声だった。
「親方厳しくしすぎたんじゃないすか」
苦笑しながら、作業を続けながら一人の職人が応える。昨日まで来ていた新人が、突然今日来なくなる。この工場ではよくあることだ。そう考えて。
「…………!」
冗談まじりの職人の言葉に、親方は無言で床に落ちていた端材を蹴り飛ばす。自分でもよくあることだと思っていたが、後悔と心苦しさで我慢が出来なかった。
この工場では、新人が長続きするのは稀だ。毎年一人から二人が入ってくるにも関わらず、跡継ぎである息子を含めて十人しか職人が残っていない事実がその証明になるだろう。
原因は様々だ。作業が多岐にわたるため、覚えることが多い。親方が、職人に高い技術水準を要求する。すぐ怒鳴る。指示系統が未発達のため、指示を待つだけではすぐにすることがなくなる。その他、親方にすら原因は数限りなく言うことが出来た。
しかしそれでも。
期待できる新人だったのに。
打てば響く。短い期間であろうとも、自分の技術を伝えたいと思える新人だったのに。
やはり、時代が違うのか。
工場で作業を始める職人たちを眺めて、親方はそう思う。
自分たちの時代では当たり前だったこと。出来なければ殴られるのが当然だった。技術は親方や先輩から盗むのが当然だった。口答えを許さないのが当然だった。怒号に対する答えは『申し訳ありませんでした』しか許されないのが当然だった。
今働く職人たちも、その『当然』を緩めてから長く居着くようになった。それまでは、数年で人がいなくなるのが当たり前だったのに。
もちろん、それはこの街でも異常な事態だ。
数年しか職人が長続きしない工場は、技術や経験の蓄積も出来ずにすぐに潰れてしまう。
それが長続きしたのは、ただこの工場が運がよかった。それだけだ。
親方は長く大きく溜め息をつく。その対象は、自分自身だ。
これでは、また新しく職人を入れても同じことだろう。また長続きせず、この工場の力を削いでいくだけの……。
もう、引退しようか。今まで張り詰めていた気が抜けて、親方はそう考えた。
考えた瞬間、肩がズシリと重くなる。
そうだ。金銭と引き替えに、新人を一人引き受けてくれという話を石ころ屋から受けた。それも、最近この店の売り上げが落ちてきているから、その補填のためだ。
もう、自分のやり方が世間と合わなくなってきているのかもしれない。いいや、きっとそうだ。
思い詰めた親方がまた溜め息をつく。近いうちに、引退をしよう。これからは若い奴らの時代だ。そう思いながら。
「遅れ、ました!」
工場に影が駆け込んでくる。息せき切って、ずり落ちた眼鏡を直しながら息を整えようと膝に手を当て下を向く少年。その姿を見て、親方の目は見開かれた。
それから歩み寄る親方を確認したモスクは、その次に訪れるであろう大音量に備えて、耳を塞がずとも覚悟をした。
「途中、ちょっとした、事故があったんで……」
「馬鹿野郎!! 遅えぞ!!! 遅刻するなんざ五十年早え!! この馬鹿野郎!!!」
激痛とともに、モスクの耳がほとんど聞こえなくなる。
ただ聞こえているのは、キーンという耳鳴りに近い音。それと、遠くで誰かが喋っているような聞き取れない声だけだった。
親方が踵を返し、モスクに背を向けて歩き出す。今日の指示もしないまま。
その顔の笑みは、モスクには見えなかった。
耳の痛みを堪えながら、モスクは周囲を見渡す。
怒号に関しては一切堪えてはいない。
先ほどの馬車の件で、親方に聞きたいことがあった。だが、親方は去っていってしまった。あの剣幕では、しばらくは話も出来ないだろう。そう思い込んで。
そして、彼以外にも聞くことが出来ると今更気がついたのだ。
目に留めたのは、木材の表面を均して平面へと磨いている職人。まだ一度もモスクは話したことがなかった。
「あの……」
「……?」
話しかけたモスクに、職人が目だけを向ける。革で磨く手はそのまま動き続けていたが、それでも拒否していることはないと感じた。
「ちょっと後で、手が空いたら聞きたいことがあるんですけど」
「…………」
その言葉に、職人の手が止まる。それから持っていた革を置いて、首を傾げた。
「今いいけど。何?」
そうだ。誰も拒否などしていない。モスクはもう一歩職人に歩み寄る。
聞きたいことがあった。
そうだ。今まで、何故自分は言われたことだけしかやらなかったのだろう。『この工場で学ぶことはそれだけだ』と何故決めつけていたのだろう。
自分はまだ何も知らない。
まだ、何を学ぶべきかも学んでいないのに。
「さきほど少し困ったんすけど、たとえば、割れた木とかを元の形に整形するのは……」
「……なに? どういう状況?」
職人の太い眉が歪められる。一般的には拒否的な反応、だがその反応に自分への関心を感じ取ったモスクは、朝の修理作業について相談を続けた。
「…………ってことなんですけど……」
「ああ、それなら若干細くなるけど雇い木を使えば……」
ようやく話を得心した職人は、とりあえずと周囲を見渡す。適当な切り離し、つかってもいい木材はあるだろうか。
そして目をつけた手近な端材を割り、加工を始める。
先輩の手を見つめて質問を重ねながら、モスクは思う。
彼らは、『こうやればいい』はいつでも見せてくれていた。
出来ないことを叱ってきたのは、いつもモスク自身だった。誰も、出来ないことを責めてなどいないのに。
そこまで考えて、いや、と思い直す。親方には叱られていた。
いいや、それでも。
彼らの『こうやればいい』を、適当に受け取ってきていたのは紛れもなく自分自身だ。
『こうやればいい』に、『どうしたらこうできるか』を付け加えてこなかったのは自分だ。基本的なことの延長線上にあるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。丁寧な基本にこだわり、その確認すら怠ってきたのは自分だ。
街を作り直すという途方もない夢。
そんな夢に向かうために、学び足りるということはないはずだ。
最終的に目指す立場は、彼らのような職人を使う立場だ。だが、そのためにはやはり彼らが何を出来るかを学ばなければいけない。
まずは、この工場の技術を全て奪い取る。資材の加工法、木材の繋ぎ方、石材の積み方。それらを全て覚えて、その技術の有効な使い方を学ぶ。
そうしてから、次があるはずだ。
大丈夫、そのための頭脳は、きっと自分にはある。
モスクはそう信じている。
そしてそれは、紛れもない事実だ。
その日一つの馬車を見て起こった、グスタフの想定とは少し違うモスクの変化。
その職場には、ただ職人たちの雰囲気を学ばせるために入れただけだった。職人たちの思考や仕事の手順を学び、後の技術を学ぶ場所に繋げようと。
しかし彼は、それ以上を学び始めた。
そして、頭の固いことで有名だった親方すら変化させた。
後日そうした報告を工作員から受け取ったグスタフは、モスクの先行きを修正する。
本当は、彼の一生を費やしても終わらないかと思われた依頼だったのだが。
それが思ったよりも早く終わりそうだと、甘い水を啜りながら微笑んだ。




