勇気
サンギエの言葉で、犬の背と呼ばれる崖。そのおおきな崖の根元に、スタックは佇んでいた。
冷たくざらつく岸壁に掌を当て、割れた傷跡に指をかける。
あとは、そこに力を入れて、体を持ち上げる。それから似たような引っかかりに足を乗せ、次の引っかかりに手指を伸ばす。それの繰り返しをすればいい。
わかっている。
しかしもう一度見上げてみれば、その首を最大限反らさなければ見えないほどの崖に、指の力が抜けた。
溜め息だけが、何度も谷間に響く。
「お兄ちゃん、やっぱり……」
「うるさい」
やめよう、という言葉を吐かさぬよう、スタックはスラの言葉を遮った。
その言葉は今スタックにとって甘美な誘惑だ。
足下に広がる赤い地面は、自分の流した血なのだろう。
それを確認し、スタックの頭が凍り付いたかのように冷たくなった。
自分は死にかけたのだ。自分は昨日、ここで死にかけたのだ。
そう自覚してしまえば、今度は指先の震えが止まらなかった。
けれど、行かなくてはいけない。
その決意で、指先の震えを強引に止める。一度思い切り拳を握って、それから開けば、幾分か震えも落ち着いていた。
いける。自分なら。
そう、何度も心の中で唱える。それから短く息を吐いて、何とか体を持ち上げた。
ゆっくり、慎重に。
何度も岩を吟味し、そして軽く引きはがすように試してから指をかける。また落ちるのだけはごめんだ。また……。
そう考えて、スタックの血の気が引く。
まだ、腰の高さまで上がった程度。一つか二つ足場を乗り継いだ程度。しかし、下を見たスタックは戦慄した。
足が地面から離れている。足の辺りから、小石が一つ転がり落ちる。
それを見て、もう我慢が出来なかった。
「…………っ!?」
指の力が抜ける。また重力に引かれて下へと落ちる。
まるで奈落の底にでも落ちていくのかと思うような感覚。浮遊感。水分のない胃の中から、胃が何かを絞りだそうと収縮した。
なんとか足から着地したものの、足に力は入らない。
尻餅をつくように座り込み、全身の硬直に体を丸めた。
見ていられない。スラも、兄のそんな姿を見て眉を顰める。
「ねえ、何とかあの人に……、頭でも下げれば……」
「無理って、言ったろ、あんな奴、信用すんなって……」
しかし、スタックも息が詰まった中で、懸命に妹の言葉を否定した。
あの探索者に頼み込み、薬の原料を譲り受ける。言うだけなら簡単だし、そう出来たらどんなにいいかとスタックも思う。
頭を下げるくらい、なんだというのだろう。それくらいで母親の薬が手に入るのであれば、いくらでも頭を下げよう。金だって、自分の小遣いなら全額渡してもいい。それくらいでは足りないのもわかっているが。
けれど、金は足りない。
父親が村長に掛け合ったが、得体の知れない人物からの信用もおけない生薬に、暴利ともいえる代金は出せないと、そう突き放された。
いいご身分だ。自分は、村の共有財産である石壁花の備蓄を、贅沢にも自分の息子に使い切ってしまったのに。
もちろん、怒るべきではない。そうスタックは自分を戒める。
村長の息子が、村で何の役職も得ていない母親よりも優先されるのは当然だ。
怒りを向けられないのは、あの治療師のような探索者にも同様だ。商機に値段をつり上げるのも当然のことだ。この山岳商業国家サンギエ、独自の産業のないこの国で育った以上、幼い身ではあるがそれは弁えている。
しかし。
金がないのは命がないのも同じ。
そう言い聞かされて育ってきたが、その言葉が、今自分に降りかかるとは。
天を仰いだスタックは、自らの価値観が揺らいでいくのを感じていた。
冷や汗を手の甲で拭い、舐めとる。
だがこうしてはいられない。人の行き来が元来活発なこの国では、流行病が出たときの対策も決まっている。
原因となった村と、それに連なる村のそれぞれ四方に焚いた抗瘴香。それが切れるまで、村の行き来は出来ない。抗瘴香は三十日分は常備されており、そして栽培もされている以上尽きることはほぼないと言っていい。そしてそれが仮に尽きたとしても、必要であれば村の行き来は制限されたままだろう。
そして、正式にそれが必要ないとされるのは、事態の収束の時のみ。
即ち、流行病の者がいなくなったとき。治るか、死んでいなくなったときだ。
このままでは、母親は間違いなく後者となるだろう。スタックはそう感じていた。
咳を繰り返し、胸部の痛みを経て血を吐いて死に至る病。もう何度か、母親が咳とともに血を吐くのを見ている。体の衰弱も著しい。
自然治癒はしない。薬を飲まなければ。なのに。
今更ながら、あの探索者の言葉が身に染みる。
何故、必要な薬なのに採ってはいけないのだろう。男子一人が一生のうち一枚しか採れないのであれば、いくら現在交易で融通しあっているとはいえ、足りなくなることは目に見えているはずなのに。
よろよろと立ち上がり、もう一度壁に指をかける。
文句を言っていても何もならない。今のこの村で、石壁花を入手できるのは自分だけなのだ。そう奮起し、もう一度空を睨む。風に吹かれて落ちた小さな石粒が、頬に当たった。
遅れてきた父親が、スタックに駆け寄ってくる。中年故の足の遅さと、行き先がわからなかったことにより遅れていた。
そして息を切らして、煙にむせながら思わず我が子を止めた。
「スタック、待て……!」
「待って、どうすんだ」
しかしそんな父親の姿を一瞥もせず、スタックは呟いた。思わず出た本音だった。
「待ってどうすんだ。薬は手に入らねえ。母さんは治らねえ。そんなもん、待てるわけがねえじゃねえか」
そして、それを何とか出来るとしたら、今は自分だけだ。
責任感が体を押し上げる。もう一度力を込めてあかぎれのある指に力を入れれば、何とか体は持ち上がった。
「俺が、なんとかしなきゃ……」
力ない足でも、引っかけて体を支える礎にする。階段でいえばまだ一段上がっただけ、目指す頂はまだ遠い。
しかし、目の眩む高さだ。今のスタックには、それは厳しい現実だった。
「……悪ぃな」
息子の後ろ姿に父親が思わずかけたのは、謝罪の言葉だった。
「何を、謝ってんだよ」
「あの治療師が言っていたことは本当だ。村の掟なんかより、もっと大事なもんがあるのにな」
震える唇を固く結び、振り返らない息子に向けて父親は続ける。ただ、申し訳なかった。
「掟なんて、今となってはどうでもいいことだ。でも、俺ぁサンギエの男だ。もう登れねえ。もう、石壁花を手に入れることは出来ねえ」
「わかってるよ」
そんな言葉を聞きたいわけではない。スタックの指先の震えが止まった。
「マルーカもサンギエの女だ。きっと、わかってくれてるとは思ってる」
「…………」
「でもよう。マルーカは俺の嫁だ。嫁の命を見捨てるなんざ、出来るわけぁねえよ」
息子の背中に手を当てる。その筋肉の手触りに、きっと登れることが出来ると思った。
「だから、頼む。怖えことはわかる、でも、あの石壁花を、どうにかして剥がしてきてくんねえか」
「……わかってるよ」
素っ気ない言葉。
だが、父親の震える嘆願に、もう一度上を見た。
遙か上方に見える黒い苔。あんなに小さく、そしてあんな近い場所にある苔を手に入れるだけで、万事解決するのだ。
簡単だ。きっと簡単なことだ。
そう思った瞬間、わずかに体が軽くなった気がした。
「父さん」
「あ?」
「一度登ってんだに? どこに手をつけばいいか、言ってくんねえか」
手をかけ体を持ち上げることは出来た。やはり怖い。
「……おう」
だが、父親の手を借りるならば、きっと出来るだろう。今は背中に父がいる。偉大な父の通った道。ならば、自分も通れるはずだ。きっとどこまでも登っていける。
なに、一度は通った道だ。
下を見ないようにして、スタックは岸壁にしがみついて体を持ち上げる。
不思議と、先ほどまでの恐怖はほとんど感じなかった。
「頑張れ!」
スラの声が響く。妹の声に応えたいが、それでもスタックにその余裕はない。
小さな歩幅で上昇を繰り返し、もうその高さは人の身長を三回は越えている。
「次は右手! 右っかわは剥がれやすいで左っかわに手えつけ!」
それでも、落ちる気はしなかった。自分であれば掴まってしまう岩。けれども、父親は的確に、掴まらないように指示をしてくれる。
ひび割れを見分けるコツも掴めてきた気がする。腕が張って肩が痛もうとも、まだいける気がした。
「ぎぎ……」
しかし、限界というものは来る。まだ道半ば、だが呻き声を発することも増えてきた。
乾いた肌から汗が滴る。貴重な水分、それでももう舐めとる余裕はない。
恐怖ではなく疲労から、持ち上げる腕が低くなってくる。足が上がらない。
どうして、昨日はもう少し上までいけたのに。
貧血による衰弱。それは、想像以上に彼を蝕んでいた。
それでも、腕は止まらない。
指先が痺れようとも、止まることはない。
少しずつ、着実に登っていく。これならいける。そう思い、下をちらりと見てしまった。
反射的に、強く息を吸ってしまう。
既に落ちれば命が危うい高さ。父も妹も豆粒のように見えて、そして遠い。
その恐怖に、ついに手が止まった。
岸壁にしがみつき、その恐怖をやり過ごそうとする。歯を食いしばり、目を強く閉じ、体を硬直させて。
何度も大きく息をする。脆い岩、先ほどまでは大丈夫でも、長い時間留まればそれだけ危険になる壁である。だが、動くことは出来なかった。
もう嫌だ。
もう降りたい。家に帰りたい。
うっすらと涙も浮かばせながら、突然浮かんだ弱気な考えに心を支配される。
そうだ、まだ自分には分不相応なのだ。
サンギエの男たちは、商人の道を案内する父親について多くを学ぶ。崩れやすい崖の場所、開けて魔物が襲ってきやすい場所、岩の性質、風の読み方など、多くを。
そうだ、まだ自分は十五になっていない。
まだ父親について仕事に出ることも少なく、まだ学ばなければいけないことも多い。
ならば、出来ないことも多くて仕方がないのではないだろうか。
まだ一人で遠出も出来ない身だ。
ここで登れなくとも、なんら恥じることはない。
スタックの脳裏に浮かんだ考えは、ほとんど正しいものだった。
まだ彼は村近く以外の崖に慣れておらず、食糧調達など、必要にかられてサンギエの男たちが学ぶ崖登りの訓練をしたこともない。
だから、出来なくても仕方がない。サンギエの人間であれば、誰もがそう思うだろう。
しかし、降りるのも危険な行為だ。
いずれ降りなければいけない。それはわかっている。しかし、足が竦む高さを逆に戻るなど、今のスタックには出来そうにもなかった。
スタックもそう思う。
高所への恐怖は、翼を持たない人間であれば持っていて当然の恐怖だ。降りるのも、登るのも、怖い。そして一度落下し、瀕死になった経験があれば尚更。
もう一度下を見る。
妹と父親が、固唾をのんで自分の姿を見守っている。やめてくれ、そう思ったが、それは口には出せなかった。
落ちたら死ぬかもしれない。
ここに留まっていることも出来ない。いずれ限界が来て、落ちて死ぬだろう。
ならどうする?
どうやってこの怖い場所から逃げだそうか。そう考えてしまう。
「わあああああ!」
一度叫び、それから息を吐いて恐怖を追い払う。
そうだ、このままいても死ぬ。ここから落ちても死ぬ。ならば、この怖い場所から逃げ出すには、ひとつしかないではないか。
上へと登る。登り切る。後のことはそれから考えるとして、そこまでいけばきっと。
恐怖からの逃亡が、スタックの体を突き動かす。
手に力が込められる。
もう既に、岩の状態は下にいる父親の目では判別が付かない。だが、先ほどまでで充分教えられた。教えてもらった。
拙い経験則と父の言葉を思い返しながら、スタックは登攀を再開する。息は荒く、焦点の定まらない目。
それでも先ほどと比べて、段違いの早さで登っていった。
しかし、災難というのは、終わり際に起きるものだ。
順調に登っていく。既に崖の高さの三分の二を登っており、もう、すぐそこに石壁花がある。
順調だ。だがそれを確認して、スタックの気が緩んだ。
断崖に、常に吹いている風。登っていくにつれて強くなっていたそれが、スタックと崖の間を通り抜ける。
「……え……?」
引きはがされるように、ずるりと指が外れる。全身の血が抜かれたように背筋が凍り、それからわずかな浮遊感が体を駆け抜けた。
「ぁ……!!」
だが、どうしたことだろうか。
スタックは不思議に思った。外れたはずの指が、崖に引っかかっている。風もないのに、腰が崖に押し戻された感覚まであった。
冷や汗が落ちる。
今のは幻覚だろうか? そう思ってしまうほどの不可思議な体験。そういうこともあるだろうか。唇を噛んでみれば、痛みはある。ならばきっとこれは現実で、きっと自分は今生きているのだろうけれど。
目を瞬かせて、もう一度自分の位置を確認する。だがやはり変わってはおらず、きっと気のせいなのだろう。そう思うことにした。
そして、ついに辿り着いた石壁花。
それを眼前にして、スタックは息をつく。
黒く、お世辞にも花のように綺麗ではない。
慎重に片手を石壁花にかける。そして、ぺりぺりと剥がすように慎重に指を動かせば、湿った茸のような薄い塊がてにへばり付くように乗った。
お世辞にも花のようではない。だが、その手に乗った塊は、花のようにとてもとても綺麗に見えた。
見とれてしまう。
しかしこうしてはいられない。これは今母親の命に等しいものなのだ。
たしか、教えてくれた女性の話では、大人の掌ほどあれば充分ということだった。ならばこれでギリギリ足りるだろう。しかし言い換えてみれば、これでギリギリなのだ。損壊や、ましてや紛失など絶対に出来ない。
懐に忍ばせて、空いた手を岩にかける。
それからもう一度下を見た。
既に通った道。それでもやはり足が竦む。唾を強引に飲み込めば、渇いた喉に何度も行ったその動作に、喉が痛んだ。
もう一度上を見る。目指す崖はまだ自分の身長よりも高いところにある。
不思議なもので、目的を達成してしまった今、そこはまた遙か彼方に見えた。
……降りよう。
その決意に、そろりそろりと足が動く。
結局、登った時間の半分ほどで、スタックはようやく足を地面につけることが出来た。迎えるのは、笑顔の父と妹。そしてその手には、たしかに石壁花が握られていた。
家に戻った彼らは、二人、鍋の前で顔をつきあわす。
「これで、よかったっけ?」
「そう、たしかあのお姉ちゃんはそう言ってた」
十四ほどに等分した石壁花を天日に一刻ほど晒す。そんな工程を経た黒い干からびた物体が、白い布の上に並んでいた。
薬師に頼めば正確な手順でやってもらえるだろうが、そうするとおそらく接収されてしまい彼らの母親の口には入らなくなる。それが、その『お姉ちゃん』の助言だった。
そして彼らは教えられたとおりに生薬を精製する。
一合ほどの水に乾燥させた一欠片の石壁花を浮かべ、煮る。始めは浮かんでいるが、やがて石壁花は沈み、水は黒さを帯びる。それからまた石壁花が浮かびあがり、水の量が半分ほどになったら自然に冷ます。誰にでも出来る工程だった。
たった一合であっても、この国では貴重な水。この国で、この薬が高価な所以だ。
「ほら、母ちゃん」
目を覚ましていた母親に、その杯を差し出す。
昨日よりも幾分か気分もよく、目を覚ましてから咳も胸の痛みもなかった彼女は、それでも子供たちの努力の証を快く受け取る。
「……ありがとう」
「まだ礼ははええよ。これを、毎日飲まなきゃいけねえって話だし」
それでも、きっとこれで良くなる。石壁花の真贋も父親に確認した。そのまま食べても若干の効果があるといわれている生薬だ。精製法も、きっと間違いではないだろう。そう信じてスタックは笑う。
「これで、スタックも成人か」
「ふふ、そうだんね」
笑い合う夫婦の会話も温かい。いつの間に、我が子も成長したのだろうか。その目に少しばかりの涙を浮かべて、二人は見つめ合う。
愛する妻の瞳を見て、夫は少しだけ違うことも考えて。
スタックが声を上げる。頬に血の気が差し、赤く上気していた。
「いや、まだだに。あと四年後、また採ってくるから」
「え?」
「だってそうじゃね。これは父さんの助けもあって採ってこれたんだ。次は俺一人で採らなくちゃ、だろ?」
「……そうだな」
父親は我が子の顔に笑みを強める。
その頭を掻く仕草は母親譲り。だが、一度崖から落ちてもなお、恐れ病になってもなお立ち上がれるその勇気は誰に似たのだろうか。
いいや、誰でもいいのだ。
とにかく我が息子は勇気ある者だった。誇らしい。彼ならば、きっと成人の儀式も問題なく終えることが出来るだろう。その顔は、そう信じられる顔だ。
妻も命が救われ、そして息子の成長も目にした。
これ以上嬉しいことは、人生でもそうはないだろう。
そう思った父親は、誇らしい子供たちと愛する妻の顔を見て、高らかに笑った。




