無駄な抵抗
とりあえず降り立った村は、燻されているような白い煙で覆われていた。
煙いという感覚もあるにはあるが、どちらかといえば薬のような匂いがする。僕は実際吸ったことはないが、煙草の匂いから嫌な成分を少し抜いたような感じか。
人の気配はするが、静まりかえった村。だが、その前で立ち止まり相談している集団もいる。
サンギエの人間と、エッセンの商人らしき人間の集まり。恐らくというか間違いなく、商人とその荷物持ち、麓の村で作られた集団だろう。
五人……いや、六人かな? の商人はほとんど参加せず、九人のサンギエの人間たちが主に顔を見合わせている。深刻そうな顔、だが彼らもあまり事態を把握してはいないような様子に、僕は不思議に思った。
僕もそこに歩み寄る。
いや、寄ろうとして立ち止まる。ふと浮かんだ問題に足が止まった。
考えなければいけない問題がある。
煙の影響だ。
消費魔力が増えている。そちらは問題はない。例えるなら、普段の歩行を全て早歩きにする程度の負担だ。この中でも普通に年単位で続けられるだろう。
しかし、もう一つの問題があった。遠くからならば影響はなくても、正常に見えるように光を歪めるための距離が大きくなってしまっている。いつもより人に接近は出来ない。
どうしようか。
顔を見合わせている者たちの表情から、何ごとかの問題は起きているらしい。僕が何を選択しなければいけないのかは、その問題にもよるだろう。
見極めなくては。姿を見せた時点で僕に何か不利益が起こるようなものか、そうではないか。
ここで素通りしても構わない問題か、そうではないのか。
差し迫った選択。まるでこの前の強盗の女性のようだ。
あの時は、姿を見せなければよかった。関わるべきではない問題だった。
今回はきっと、あの時よりも選択のための情報が多い。時間も余裕があるだろう。
集まっている者たちの顔ぶれ。耳を澄ませばいくらかは話もわかる。姿を見せなくとも構わないほどの。
……まずは見てみるところからだろうか。僕は、姿を見せて情報を集めてよいかどうか、その判断材料はどこだろう。
まずは、彼らの立ち位置。
商人らしき人はまばらに、サンギエの人は明確に集まっている。今は道案内の間で情報交換をしているところ、といった感じか。表情から見れば、それは好ましいものではあるまい。
そして商人も含めて、必要以上に彼らが疲れている様子もない。商人とサンギエ人の様子の表情の差から見ても、何かは『ここまでにあった』のではなく『これからある』のだろう。明確な危機を商人は知らず、共有されていない。
そして多分、その『何か』の詳細はここに来るまでには知らなかった。……と思う。煙の臭い自体はここに来るまでに感じられるだろうに、それを避けずにここに来た。
そしてサンギエ人たちは、この村の出入り口で情報を交換して確認している。付近で留まっているのはそういうことだろう。
思った通り、少し耳を澄まして、口の動きから話題を読み取れば、この村から先へは今は行かないほうがよいのだという。ならば、この先に何かがあるというのは正解なのだろう。
その内容が問題なのだが、話題は迂回路の検討などに入ってしまったようで何故この先に進まない方がよいのかは言わない。迂回路の方も、『白鷺の口』や『黒髪の先』やら、おそらく彼らだけに分かる地名や目印しか言わないためによくわからない。
商人の方に目を向ければ、彼らは手持ち無沙汰にサンギエ人の話が終わるのを待っていた。
溜め息は旅程の遅れへのものか。時折煙たそうに白い帯の煙を振り払っている。
そういえば、この煙の正体は何だろう。
何か燃えている。それは確実なのだが、火事のような火の手は見えない。というか、火事ならば大変だ。水のないこの国、魔術師の一人もいなければたちまち大惨事だ。
しかし何処かの家屋が燃えているとかそういうこともないようで、皆の気配は消そうとも避難しようともせずにじっとしている。
いや、印象的には、息を潜めている。まるで何かの脅威をやり過ごそうとしているように。
もう一度、僕はサンギエ人の集団を見る。
脅威をやり過ごそうとしているのであれば、その脅威は『これから来る』なのか『既に来ている』のか。
おそらく、前者だろうと思う。既に来ているのであれば、集団は村に入ったりはしていないだろう。
そして、これから来るのであれば……。
それに気付いてからよく見れば、九人のサンギエ人は一人が残りの八人に説明しているように見えた。なるほど、おそらく今説明しているのは門番で、他の何人かがこの村の先に行くのを阻んでいる。今はまだこの村の先に、何かがある。そういうことか。
とりあえず、彼らを見ていても進展はないだろう。商人たちへの説明があるだろうし、そこを聞けば大体の事情は分かるのだろうが、それはまだ少し時間がかかりそうだ。
それならばまず、この煙の正体を見れば何か分かるかもしれない。
脅威をやり過ごそうとしている。それが正しければ、この煙で脅威の正体が少し分かるだろう。
煙の出所は複数あった。
この村の四方に積まれた薪のようなものから出ているのだが、最初の印象は正しかったようで、燃やすためというよりは燻すために煙を多く立てている。
そして、その燃えつつある葉。
まだいくらか火のついていない生のその葉っぱを見て、僕はその煙の正体に思い至る。
丸みのある細長い緑の葉っぱをつまみ上げて、囓ってみる。
たしか、グスタフさんもほとんど扱わないとして、一度か二度しか現物を見たこともないが、たしかにこの味は間違いない。煙の臭いは知らなかったけれど。エッセンの方ではほとんど出回らず、『芳香樹』という適当な名前がとりあえずつけられているものだ。
そしてこの葉っぱから、この村が晒されている問題が推測できた。
この村で、何かの祭りや儀式で使われているものなどでないのであれば、その用途は限定的だ。本来は絞った汁を使うものだったと思う。
この葉の汁の効能は、抗炎症と抗瘴気つまり、感染症。
だからおそらくこの煙は感染症の対策。
どこからかはわからないが、この村は、感染症の脅威にさらされているのだ。
一応、僕には感染症はない。油断しなければ。
つまり、これは関わらなくてもいい問題だろうかという問い、その答えは出た。
無視してもいい問題だ。間違いなく。
いくつもの村からこの煙が出ていたということは、広まりつつはあるのだろう。そして、それを広めないために商人たちはこの村の通行を制限されていた。
迂回路はこの村やその煙を立てていた村を避けるためのルート。
ならば、岩場を空から越えていける僕には何の影響もない。
早々に立ち去ろう。
わずかな時間のロスだったが、まあ仕方ない。
そして今回は、きっとこれが正解の選択だ。いくつもの村で同じ対策がとられているのであれば、きっとこれは何度もあったことだ。対策もきちんと練られているのだろう。
そう思い、僕はそのまま空中へと飛び上がる。
今回はきちんと正解ルートを選べた。そんな風に自らの心を励ましつつ。
煙から出ると、空気が澄んで見える。
未だに少し臭いは漂っているが、それでも煙の中とは雲泥の差だ。そんな綺麗な空気を胸一杯に吸い込んで、僕は飛ぶ。
円形状にいくつも上がる煙。それを眺めつつ。
それぞれの村はそれなりに離れている。感染症といえども、人々の行き交いがなければ広がることはあるまい。きちんとそのために、サンギエの人間たちは迂回路を決めていた。
鳥や虫が媒介することもあるかもしれないが、それでもあの煙で阻まれるのだろう。
だから、何も心配はない。
そう思いつつ、僕は飛んでいく。
…………。
………………。
自嘲が僕の頬を吊り上げる。
……わかっている。これはきっと言い訳なのだろう。
疫病ということは、誰かが苦しんでいる。
それに対し、何かしたい。けれど、何かをする理由がない。だから、心配がないと思おうとしている。何かをしようとして、何も出来ない無力感を味わいたくないから。
正直、確認をするために村へ降りなければよかったと後悔している。
知らなければ、不思議な煙というだけで済んだのに。その場合は、この煙の正体を知れずに悶々とするだろうけれど。
岩山の一つの頂上へ降り立ち、上がっている煙を見つめる。
都合六本。一つを除き、同心円状に配置されている気がする。きっと、その中心のものが始まりなのだろう。
さて、きっと今が本当の選択の時だ。
この問題は無視してもいい。その結果、僕に累は及ばない。被害の状況も不明。
仮に誰かが死んだとしても、僕の知らない誰かが知らない場所で死ぬだけ。この世界でも無数に起きている現象の一つだ。
だが、これは選ぶべくもない。正確な規模は分からないが、複数の村を巻き込んだごく自然的な災害。僕のような個人は、その嵐を蹲ってやり過ごすか、立ち去るしかないだろう。
だから、そうしようと思う。
だから、そうしようと思った。
見つけなければいいのに。
僕の視界の端、下の方に人影が映る。それも小さく、そして崖に掴まっている誰か。
その影が、手を伸ばす。壁にしがみついているようなその子供は、懸命に手を伸ばして上へと登ろうとしていた。
だが、その位置は悪い。
手を伸ばした掴まりやすい岩。その岩は、僕が先ほど叩いたものと同質のものだ。
音もなく、割れて離れる。そこに体重を乗せていた子供はバランスを崩し、そして、その位置はもちろん見上げるほどの高さ。
結果は明白だ。
下へと激突するのにも数秒かかる高さで、そして下は固い地面。
僕はその脇の絶壁に駆け寄り、崖の下を覗き込むように底を見る。
そこには、落ちた子供と同世代の女の子。
そして、落ちて、黒く短い髪と、そこから覗く赤い筋。広がっていく赤い液体に、落ちた子供の行く末が簡単に予想できた。
とりあえず降り立ってみれば、女の子は落ちた男の子に駆け寄り肩を揺さぶっていた。
そんなことをしている余裕もないだろうに。いや、それくらいしかもう出来ることはないのだろう。
「お兄ちゃん!! お兄ちゃん!!!」
僕よりも少しだけ小さい女の子。それが、真っ青な顔で叫んでいる。
その肩越しに兄らしい男の子を見れば、もう既に遅い。
俯せのままでも自発呼吸はある。だがもう既に弱く、こめかみから側頭部にかけて広がった大きな割れ目から、白っぽいピンク色の物体まで少しだけ見えている。
わずかに横を向いた鼻から出ている血は、正しくは鼻血ではあるまい。
震えた手が地面を撫でる。きっと掻き毟ろうとしているのだろうけれど。
その後ろで、僕は少し笑う。
彼らの様子が可笑しかったのではない。ただ、自分の運命ともいうべき何かが可笑しかった。
きっと今が本当の選択の時だ。
この問題は無視してもいい。その結果、僕に累は及ばない。
僕に何の知識も力もないのであれば、選択肢は一つだけだ。
けれど、自惚れだとも思うけれど、僕にはどうにか出来るかもしれない。
どちらを選んでも構わないし、片方が間違いなく不利益は多い選択肢だが、それでも選択をしなければいけないのだろう。
この世界に神様がいるのかどうかは知らないが、もしもいるのであればとてもふざけた神様だ。
この選択肢をこれだけわかりやすくしてくれるとは。
「助けて!! 誰か!!! お兄ちゃんを……!!」
この選択肢の後は、容易に予想できる。
僕は姿を隠していたし、怪我の程度からしても、彼らはきっと強盗などではないのだろう。
今いる位置からして、彼らはきっと感染症の中心となった村の人間だろう。
そして、一大事の最中に行っているこの危険行為は、感染症に関係があるかはわからないがきっと彼らにとって重要なことなのだろう。
僕はきっと彼らに事情を聞くのだろう。そしてその事情をどうにかしようと思ってしまうのだろう。
その結果が、村に影響することであっても。
僕は良い奴ではない。けれど、目の前で必死になっている誰かを無視できるほど冷血でもないのだろう。
それを、わかりやすくしてくれるとは。
でもまあ、これで時間的な猶予は消えたし、選ぶしかない。
手を出さなければ死ぬ。僕が助けを求めた少女を無視して、僕が少年を見捨てた結果、少年は死ぬ。
初めからこうしたいと思ってはいたのだろう。すんなりと選ぶことは出来た。
不利益は知らないし、この選択による行動も、気が済んだらそこでお終いだ。
僕は透明化を解いて、少女に一歩歩み寄る。
ジャリという足音がした。
「治しましょうか?」
この選択が、正解であることを祈る。
僕の言葉に、涙混じりの鼻水を啜りながら、少女が振り返った。




