麓の村
僕は歩く。ネルグの根を踏み締め、エウリューケと別れた後も東と思わしき方向へ一路真っ直ぐに。
わざわざそういうところに落としてくれたのか、道は東へ向かって続いていた。
時折ネルグと反対側のほうから吹いてくる風が冷たい感じがして、その向こうの雪の大地を想像する。目指す国、ムジカルもリドニックと隣り合っていたはずだ。その辺りの地図を見たことはないが、そうするときっとリドニックは東西に長く広がっている国なのだろう。
僕は北を見る。
その視線の先にあるであろうリドニックの、そのまた更に向こうにある北壁。その端は本当に存在しないのかということなど考えつつ。
北の雪原を巡回し続けていたグーゼルすら見たことがないらしい端。それがないとすると、どういう地形になっているのだろうか。
地球のように丸いのであれば、北極をぐるりと取り囲むように繋がっていればそうなるのだと思う。端がないというよりも、繋がっている。そうするとリドニックも同じように星の端を一周するように存在しているのだろうか。
月からこの世界を見下ろしたとき、そもそもこの星の形が見えなかったのが未だに少しだけ不思議だ。
たまに地平線が見えるということは地球と同じ球状なのだろうけれど、月は地球の全体像が見えないほど近くにはあるまい。アリエル様の部屋からは拡大して見えていただけなのだろうか。
もっとも、地球と違ってただ単に近いだけかもしれないけれど。
ムジカルというのは、エッセンと比べて暑いと聞いていた。
だが、一日歩き通しでもそんなに気候が変わらない気がする。明らかにネルグ中央の木の見え方が変わっているので、移動はしているはずなのだが。
変わらずあの白い苦い鳥も飛んでいて、青い木の実もそこら中にある。
食べるのに二週間以上かかるあの鳥を今食べようとは思わないが、あの鳥を見る度に何となく同じ風景に足踏みしている感じがした。
イラインからミールマンに移動するだけでもそれなりに植生が変化していたのに。やはりこれは同緯度を移動しているということだろうか。
おそらくもうネルグを東西に分けたとしたら既に東側には入っている。その辺縁を歩いているような感じではあるが、もしかして実はもうここはムジカルなのだろうか。
だとしたら、もう少し何か変化がほしいところだけれど。
そんな風に急ぎ足で歩き続け、たまに食糧を森から補給しながら丸二日。
涼しい風、緑の匂い、そんな何も変わらない風景に、ついに変化が訪れた。
「…………えっと?」
森が途切れる。というよりも開くように離れているので、ここは円形に広がるネルグの森の北東辺りについたということだろうか。
とりあえず、森からは抜けた。だがその次に見えた光景は、あまり僕は想像していない光景だった。
遠目から見たら、雪かと思った。だが、そこまで歩いてきてみれば、それは違うと簡単に分かる。
足下にあるのは、瓦礫のような細かい石と割れた大きな岩。それぞれがみな白っぽく、それが極端な起伏を作り出し遙か遠くまで山と谷を形成していた。
山と谷といっても、ネルグが途切れたここから見ても山はほとんどなく、大体が谷ではあるが。きっとこれは下から見れば山なのだろう。
少し歩いて地面の割れ目を覗き込めば、僕が手を差し込めないほどの細い隙間が、地の底まで続いているように見えた。
同じような場所が至る所にある。そして、手が差し込めるどころか僕がすっぽりと入れる隙間もそこかしこに空いている。手近な石を投げ込んでも、底に落ちた気配がない。まるでミールマンの街を上から見たときのように、それでいて一切の人工物がないように見える。
そして隙間ではなく、谷もいくつもある。
峻険な岩山がいくつも密集して生えている。そんな白い岩の海が、僕を迎えた。
一歩踏み出すごとに、僕の足下から空気が吹き上がってくる。冷たく湿気のない空気。それが、狭い隙間を通り抜けてくるのだろう。ヒュウヒュウと音を鳴らしていた。
そんな風の他、感じるものがあった。
人の気配。それも、そこそこ大勢の。それがどうやら、近くの谷の底のほうにいるらしい。
それを感知した僕は、静かにそこに向かう。ここが人気のないところなのかどうかは知らないが、それでも多くの人間らしきものがいる理由が気になった。
静かに、足音を立てないように。
山賊とかじゃないといいけど。
「さあさあ、うちなら台車一台エッセン銀貨一枚だ!」
「長旅のお供に雨瓢箪はいかが!」
そんな声が谷間の中だけに響き渡っている。地形のせいだろうか、声が上空まで届かないよう極端に制限されている感じがした。
結論からいうと、山賊ではなさそうだった。
僕が歩いていた道とは違う道、下っていく道の果てで、それなりに大勢の人々が集う。大きな岩山を前にして、筵を引いて旅人相手に商売をする。
まるで小さな村が、そこにあった。
服装はといえば、やはりリドニックとは違うもののやはり寒冷地だからだろうか、厚い布を幾重にも重ねている。黄色や赤などのカラフルなポンチョのような外套に、キルト生地のようなものを使った長袖の服。革のすね当てをつけているのは岩対策なのだろう。
頬や額、顔に入れている線状の赤い入れ墨が、浅黒い肌に溶け込んでいた。
様子を確認した後、僕は姿を現して歩み寄る。
一応襲われたり身ぐるみを剥がされたりはしないらしい。エッセンの人間らしき人も、幾人かそこを問題なく通っている。
近づいてからよく見れば、切り出した石で簡便に壁と屋根をつけた家も岩山にへばりつくようにいくつかあり、彼らがここで生活しているのが読み取れた。
「にいちゃん、エッセンの人間かや。どうだ、喉渇いたら困るに」
近くを通るだけで、商人らしき人間が声をかけてくる。シワだらけの顔に更に笑顔でシワをつけて、老人が僕に生のままらしい瓢箪を差し出していた。
「ああ、いえ……」
不要だ、と断ろうとした僕の目に、その雨瓢箪とやらの値札が留まった。
『エッセン鉄貨五枚』『ムジカル鉄貨六枚』という表記。
そこで僕は立ち止まる。そういえば、そんな問題もあったのか。ピスキスでは問題なかったし、リドニックでは政治的に同じだったのだろうけれど。
「……一ついただけますか」
「へえ! ありがとな!」
僕が鉄貨を差し出すと、黄色くいくつも抜けた歯を剥き出しにして、老人は笑った。
「両替商とかはいますかね?」
雨瓢箪と名はついているが、見た目は木になっている瓢箪と変わらない。その口の部分を折り中の空洞を覗き込めば、薄く透けた果肉の中に白っぽく粘稠性のない液体が揺れていた。
「両替なぁ、そうすっと、ギタのところがいいかなぁ。マーカスのとこだと……なぁ」
指をさして、言葉を濁して、いくつかの両替商を老人は教えてくれる。そうだ、国が変わるのだ。言語は方言ほどの差しかないようだが、やはり明確に貨幣価値は変わっていた。
瓢箪に口をつければ、やや酸味のある水分が口の中を伝う。毒はないし、匂いもほとんどないが、これを常飲するのは慣れていなければきつい気もする。飲み込んでから、喉の奥から何となく青臭い感じが立ち上ってきた。
「ありがとうございます」
折った瓢箪の先を逆向きに瓢箪の口に差し込み栓をする。それから適当な紐で口を縛って固定すれば、簡易的な水筒になった。水筒自体は持ってるから別に要らないけれど。
老人と別れてその両替商を目指す。
いくらかは替えておかなければ。先ほどの貨幣価値であれば五対六で替えられるはずだが。
踏み出した足からジャリっという音がする。
細かい砂利のような地面を踏んでも、やはり水分は一切無い。
ネルグの森がすぐそこにあるというのに、それが少しだけ不思議だった。
それはつまり、谷のようだが川なども近くにはないということだ。ここから先、水分をこの瓢箪の水からとらなければいけないのであれば、ここは早々に越えたいものだが。
そこかしこに、荷物を背負った人がいる。先ほどの老人と同じように顔に入れ墨があるということは、この近辺に住む人間だろう。それが、僕を含めたエッセンの人間を見る度に視線で追う。
何をしているのだろうか。僕は少し興味を持ち、観察を続ける。
僕は視線から早々に外れてしまったが、それでもまだ残ったエッセンの人間……商人らしい、大きな荷物を背負い、台車を引いている男性に声をかけた。
「台車と荷物で銀貨二枚。どうだ?」
「……高いな。銀貨一枚と銅貨三枚」
大げさな手振りで声をかけた男性に、商人は眉を顰めて値引き交渉をかける。それに困ったように大きく首を振り、男性は銀貨一枚と銅貨七枚を提示した。
結局、山羊一頭をつけるということで銀貨一枚と銅貨六枚で決着したそれは、荷物の運搬業だったらしい。男性が荷物を担ぎ、もう一人の仲間が台車を引く。山羊一頭は商人の乗る分だ。一応向こうに着いたら返すことになっているようだが、それでも山道では有効なサービスなのだろう。
まるで山岳ガイドのような職業。やはり、どこの世界でもそんなものはあるらしい。
そんな風景を見ながら歩き、着いたのは、さきほど紹介された両替商だった。
「いくらといくらだしぇ?」
「……とりあえず、銀貨五枚と銅貨八枚と鉄貨一〇枚を」
訛りが強い。向こうからすると僕の方がなまっているのだろうけれど。
まん丸の目がやたらと目立つその老人に硬貨を積み上げて差し出すと、一枚一枚手に取り数えていく。途中面倒そうに首を回して溜め息をついた。
「ほいよ」
そして、ムジカルの貨幣になって返ってくる。枚数は変わらない。先ほどの商店で見たレートと違う……とは思ったが、差額が手数料らしい。ムジカル貨幣からエッセン貨幣に替えるとおそらく枚数が減るのだろうけれど。
「おめさん、一人か?」
「……ええ。供はおりませんが、探索者なので単独行動は慣れてます」
ギルド登録証を示しながら僕はそう口にする。一瞬、襲撃のために仲間の有無を確認しているのかと思った。そうではないと信じたいが、それでも一応は牽制のために情報を付け加えた。
「この国越えんの大変だし、初めてんなら誰か雇えっし」
「そうなんですか……?」
一瞬気付かず、そして気付いた僕は不思議に思う。目の前の両替商の言葉に。
「というか、国? ここはムジカルなんでしょうか?」
「ムジカルはよ、この国越えた先でぇ。じゃなくてよ、サンギエ越えんのにだぇ」
禿げた頭を掻いてから、両替商は何度も目の前にある岩山を指し示す。その先がムジカルで、ここはサンギエという国、と。
「そんなに大変なんですか」
「おう。初めてなら、二日と持たずに頭に石ぁ当たって死ぬけ、もしくぁ魔物に食われて死んじめぇな」
……地形や気候よりも先に、言葉に慣れるのが先決らしい。先ほどから近くを通る入れ墨がある人の言葉からするとこの人の言葉が一番分かりづらいが、それでも慣れておかなければ。
「……わかりました。ご心配ありがとうございます」
誰か山岳ガイドを雇え。雇わないと死ぬ、と。山岳ガイドが参道師のような役割までするのか。
それは、聖領ネルグに慣れている僕に当てはまるのだろうか。
両替商に頭を下げて、踵を返す。
現地の人が言うくらいだ。きっと雇った方がいいのだろう。
でも何となく、道連れを作るのは僕は嫌だ。
とりあえず、この先の道の様子を見てから決めよう。
僕は皆の視線が外れたのを見計らい、姿を隠した。




