小さな国の貴族たち
男は人目を避けるようにして通りを駆ける。小さな街の細い道だ。子供の頃から慣れ親しんだこの街の路地を知り尽くしている彼ならば、それは容易なことだ。
「クソ、あのガキ、クソ!」
悪態をつきながら移動を続ける男の名はロイク・ロルモー。この街で娘と二人、健気に暮らす農民だった。
泥だらけの野良着もそのままに、ロイクは走る。その脳内は焦りで埋まり、体の清潔さなどは気にも出来なかった。
まだ舗装もされていない土と根の絡まる道を踏み締める度、湿った土が裾を汚す。息を切らしながら、その頭では言い逃れと今後の話を組み上げていく。
どうしたらこれまで通りの暮らしが出来るだろう。どうしたら、また良い思いを出来るだろうか。そんな甘い考えを未だに引きずりながら。
まず駆け込んだ先は自宅。だが、もはや油断は出来なかった。
あの子供の言葉によれば、あの子供は衛兵……おそらく担当はマルセルだろう、そのマルセルと話をして釈放された。
その『話をして』というのがくせ者だ。
あの男は何を言った? 『貧しいこの街だから』と、そうたしかに言ったはずだ。その言葉を受け止めて反芻し、そしてその意味を類推していく。
貧しい街だから。では、貧しい街でなければ取れない手をあの忌々しい子供は使ったのだ。
真っ当な話し合いではあるまい。あのようなよそ者の言葉を簡単に受け入れるマルセルではない。
ならば、何を? それは、簡単なことだ。
貧しさを埋める手段。魂を蕩かす金貨の輝き。それを見せられたのだ。
ロイクはそう思い込む。
友よりも酒よりも人の命よりも、何よりも高く人生の頂に置いている金貨。それを思い浮かべてまた舌打ちをする。
人の多くは、自らの考えることを人も考えると思い込む。それは弱い者の防衛本能のようなものであり、抗える者は少ない。
そして、あの子供がマルセルを買収したとしたら。
そうなったら、きっとあの子供はもう一つ指示をするだろう。
即ち、ロイクとその娘ロマの捕縛。もちろん、そうなった場合は捕縛だけでは済むまい。
もしも既にマルセルが動いていたら、彼の自宅は知られているのだ、既に衛兵が配置されているのかもしれない。
そんな猜疑心を最大限に高められた彼は、荒い息を鎮めて、そろりと音を立てぬよう自宅に忍び込む。
そして、誰もいないことを確認し、溜め息をついた。
ならば、まだ間に合う。彼は、金庫代わりにしている戸棚を力強く開けた。
人の命よりは重い金。しかし、自分の命よりは幾分か軽い。
副業での稼ぎ、誰にも怪しまれぬよう少しずつ換金と両替を繰り返してきたが、あの子供のせいで全てを回収は出来なかった。しかし、今のところ回収できた分だけでも金貨数枚分はある。
その小さな袋を持ち上げ、中の重たい感触を確かめながらロイクは考える。
これで足りるだろうか。交渉の方法を間違えれば、もしかしたら自分はただ衛兵の詰め所に首を差し出しにいくだけになってしまう。それは困る。
心中を埋め尽くした不安を、ロイクは首を振って振り払う。
そうだ、マルセルは子供の時から知った仲だ。仲が良かったわけではないが、それでもきっとあの子供の言葉よりも自分をとるだろう。
ならば大丈夫だ。全てきっと上手くいく。
唇を噛みしめ、ロイクは扉を開け放つ。
走り出す。今まで積み上げてきた仮初めの信用を杖にして。
衛兵の詰め所に走った彼は、媚びる笑顔を衛兵に向けて頭を下げた。
その衛兵もよそから配属されてきたよそ者だ。そうした誰も知らぬ蔑みを誰にも悟らせない見事な演技だった。
「マルセルに会いたいんだが。ロイクが来たと言えばわかるだろう。中で待たせてもらっても……」
「……失礼ですが、姓名のほどを伺いたいのですが」
「だから、ロイクだって。俺を知らないのか?」
「申し訳ありませんが、身元を明かしていただかなければ、お通しすることは出来ません」
ロイクは苛立つ。
この若造は何を言っているのだろうか。どうせ街に来たばかりの新参だろう、そうだ、そういえば自分もこの若造の名前を知らない。この村のしきたりを、誰も教えていないのだろう。
ロイクの苛立ちをわずかにくみ取り、その若い衛兵も少しばかり不機嫌になる。
こういった者はよく来る。
ここは集会場ではない。それなのに、たまたま広い建物で広い部屋があるからと、街の人間はこの中に入ろうとする。用事も明かさず一言だけ名前を告げ、それだけで通行の許可を得ようとする。
門に詰めている者によっては許可してしまうのでそんな住民が跡を絶たないが、この衛兵はそんな現状に反対していた。
そんなことをさせるわけにはいかない。
入場許可がほしいのであれば、もちろん出すことが出来る。だがそれは、正規の手続きに則った上でのことだ。
身元を明かし、用向きを明かし、中の確認をとってから。
そうしなければいけない。そうしない者は不審人物だ。
そうしなければ、自分は誰も通さない。
日々の苛立ちが積み重なり、そんな小さな決意を若者はしていた。
「ロイク・ロルモー! ほら、それでいいだろう!」
「申し訳ありませんが、こちらに姓名と用件をご記入下さい!」
ロイクは声を荒げる。
冗談ではない。何故こんな若造に命令されなければいけないのだろうか。衛兵の詰め所にはもう何度も入っている。なのに、そのような煩わしいことをしなければいけない理由はない。
こんな口うるさい衛兵は、きっと無能なのだろう。
怒りながらも、そう内心嘲笑った。
「何事だ?」
門扉の辺りでわずかに起こった騒乱。それを聞きつけて、一人衛兵が現れる。この街の衛兵としてはそれなりに高い位置におり、少々の無理を通すことが出来る人物。
その顔を見て、若い衛兵は背筋を正した。
「マルセル!」
ロイクは新しく現れた衛兵を見て、その名を呼ぶ。
そうだ、こんな話のわからない若造より、本人に言うほうが確実だ。
自らを呼ぶ声に、その声の主を知り、マルセルは顎髭を掻く。
「ロイク? どうした? 傷は平気なのか?」
「ああ。それよりも、少し話がある」
マルセルの様子から、今自分を捕縛する気はないらしいと当たりをつけたロイクは、顎で中を示す。
深刻そうな様子のロイクに、昨日のことについてだと察したマルセルは応えた。
「ああ。じゃあ、中へ」
マルセルは、若い衛兵を目で制する。この若者は、街の人間が詰め所の中に入ることを好ましく思っていないという噂を聞いたことがある。その噂通り、不満げに目を逸らした若者を見て、マルセルは小さく溜め息をついた。
二人が入った先は、会議室。今は誰も使っていないし、一応小さな声であれば外に漏れることはない。そう判断して、マルセルはそこに案内した。
中へとロイクを呼び込んだマルセルは、扉を閉めて一応廊下の気配を確認する。それは機密を扱うことが多い彼の癖であるが、ロイクはその様に何かの警戒を感じた。何度も見ているはずなのに。
「それで……」
何の用だ。そう続けようとしたマルセルに、ロイクは懐の小袋を握りしめながら食ってかかるように言った。
「あいつは、いくら払った?」
「……何の話だ?」
マルセルはロイクの剣幕に驚く。深刻そうな顔で、何を言い出すかと思えば。いくら払った、というのは金のことだろうか。
焦れるロイクは重ねて尋ねる。なりふり構ってはいられなかった。
「あの子供、いくら払って出てきたんだ!?」
「ああ、あの子供か。いや、怪しくはあったんだが、最近ずっと違う場所にいたという同行者の証言があってな」
なるほど、ロイクは釈放したカラスを見たのだ。そして、あの凶悪犯をどうして釈放したのかを知りたがった。
「証言?」
「そうだ。今ミールマンにいる知り合いらしくてな」
証言の内容を話そうと、マルセルは一瞬考え、それをやめた。
言えなかった。それが何故かはわからないが、それでも。
自分でも気付いていないが、内心認めたくなかった。
聖騎士の紋章を掲げた男の証言を、飲まざるを得なかった自分を。
何故そのミールマンにいる聖騎士が、捕縛した次の日に現れたのか。
捕縛したカラスが助けを呼ぶことなど出来はしないはずなのに、他の街にいた男がどうして現れたのか。そんな不可思議な点を突くことも出来たはずなのに。
「何人もの被害者が見つかったが、あの数は何日もあの道で待機していなければ無理だ。だから、あの証言者の言うことも本当なのだろう」
「そんな理由で……?」
マルセルの言葉にロイクは愕然とする。
いや、そんな言葉一つで信じられるものか。他にも何かなければ、それだけであの子供を釈放するなどありえない。
ロイクの推測は当たっていた。
だが、その理由をマルセルは吐かない。自分でも言語化できていないその理由を、ロイクに吐くわけにはいかなかった。
故に、マルセルの語気は弱々しく、本当は説明にもなっていない。
それがまた、ロイクの邪推を生む。
「そんな余所者の言うことを信じたのか?」
「……ああ。だから、あの少年は無罪だ。釈放しなければ、犯罪者を捕縛するという俺たちの意味がなくなってしまうだろう」
犯罪者は捕縛し罪を量る。ただ日々を生きている者は守る。それが衛兵としての務めだ。
普段は表に出さないそんな心根をマルセルは吐く。
ロイクには、それが単なる綺麗事に聞こえた。
「……それで、いくらだったんだ?」
人は綺麗事の奥に本心を隠す。今マルセルは、やましいことがあるからそんな綺麗事を吐いている。そうロイクは感じ、そして焦った。
その綺麗事の先には、自分の捕縛があるのだろう。
焦りと怒りが脳内で大きくなっていく。
ふざけるな。
この古い仲間は、きっと金貨で自分を売ったのだ。
『証言者』などいない。金を受け取りあの子供を釈放し、そして自らを捕縛するという約束を取り付けた。
今取り繕っているその言葉は、それを隠すためのもの。もしくは自分からの払いを多くしようという話術の一種なのだろう。
そう判断して。
マルセルは何かを隠している。それを察したロイクの猜疑心と信用が、ロイクの中だけでマルセルの嘘を作り上げていく。
「いくらいくらと、さっきから何を言っているんだ? 俺は鉄貨一枚だって受け取ってはいない」
理由も今まさに話したはずだ。
そう思ったが、目の前の知人は信じてはいないらしい。その目に揺るぎはなかった。
「そういうのは今はいいから。なあ、同じ村の仲間だろ? 助け合うのが筋ってもんじゃないか、なぁ」
小袋を広げ、中の貨幣をつかみ出す。
「ほら、あいつから受け取った金なんて忘れてさ、そうだ、お前も一緒にこれからは」
「……何の話だ」
ピキ、とマルセルは自分のこめかみから音が鳴ったのを聞いた。
その小袋を払い落とし、マルセルは叫ぶ。
「何度も言っているとおり、俺は鉄貨一枚だって受け取っちゃいない! 馬鹿にするのもいい加減にしろ!! 俺は……」
叫びながら、ロイクの言葉を反芻する。そしてその視界の隅で広がった金貨や銀貨を見て、我に返った。
その視線が金に向いたのを見て取り、ロイクが唾を飲む。
「待て? お前、その金どこから手に入れた? お前の家の稼ぎでそんな蓄えが出来るなんて……」
「……!!」
まずい。
この剣幕でロイクはようやく悟った。マルセルは賄賂などに手を染めてはいない。ただ公正に、あの子供を釈放しただけで……。
しゃがみ込み硬貨をかき集める手が震える。まずい、この状況はまずい。それに、自分が先ほど口走った言葉は……。
「そうだ、お前は今なんて言った? 『お前も一緒にこれからは』……と……」
「何の話かさっぱりだな! これは、俺が、必死に働いて稼いできた金で……」
「お前……」
マルセルも、ようやく事態を理解する。
ロイクが自分を訪ねてきた理由。それは、あのカラスが釈放されたからというだけではない。あのカラスがいくら支払ったのかと何度も聞いてきたのは、それは自分が……。
理解したマルセルは手をきつく握りしめる。
浮かんだのは、純粋な怒り。その対象は、目の前のロイク。
もはや明白だった。
あのカラスの証言、全て本当のことだった。強盗犯はロイク。娘と共謀し、何人もの街道の通行人を手にかけた。
だがマルセルが感じている怒りは、義憤ではない。
その怒りの正体は自分でもわからないが、その被害者たちのことは一切浮かんではいなかった。
どんな言葉を吐けばいいのかわからない。けれど、自らの口が言葉を発するのを、マルセルはどこか他人事のように感じていた。
「お前はっ……! 俺たちの……!!」
信じていた。この街には、悪人は一人もいないと。
この開拓村は、彼らの生まれ育った街の出身者のみで作られていた。子供の頃から付き合ってきた誰も彼もが皆善良で、悪いことは他の街から持ち込まれるものだと。そう信じていたのに。
「……ひっ……!?」
マルセルの剣幕に、ロイクも怯える。
彼もまた信じていた。
小さな時から付き合ってきた彼らは皆仲間で、仲間同士傷つけあうことはないと。少しばかり喧嘩をしても、諍いが起きても、いずれは皆団結して何事もなくやりすごせると信じていたのに。
その信用は、どちらからも裏切られた。
小さな村で生き残るために形作られてきた相互の信用という強固な繋がり。
その強固な繋がりで抑えられてきた感情が弾けた。
鮮血が飛ぶ。
怒号と悲鳴に駆けつけた若い衛兵が見たのは、上司であるマルセルが握りしめた短剣と、床に広がる血だまり。
そして、開拓村から街になりちょうど一年、この小さな街で初めて起きた、『事件』だった。




