渡り鳥は語る
「……随分と余裕じゃないかね君ぃ」
青髪の女性が、鉄で出来た格子の向こうで笑いを堪えながらそう僕に声をかける。
その廊下の向こうには衛兵の休憩所を兼ねた見張り部屋があり、そして衛兵でもなくそもそも国家権力とは正反対の立場の彼女。ここに入れるわけがないのにいるという不思議な光景は、その空間転移能力によるものだろう。
石の壁に背をつけ座り込んでいた僕は、立ち上がり彼女に向けて歩み寄る。鉄格子は小さな僕の手でも握れるような細い鉄だが、きっとこれは本来は超えられない絶望的な壁なのだろう。
一歩歩く度に、足の裏で床に敷かれた藁が鳴る。まるで家畜小屋だ。
「まあ、特に困ってはいませんからね」
「余裕じゃんかさ。しばらく強制労働でもすれば出てこれるだろうけれど、君がそんなたまかえ?」
「いいえ。そんな不当な処罰、させるわけにはいきません」
僕は、格子を握りしめてそう言いつつ笑う。握りしめただけで歪む鉄。僕をこんなもので拘束できると本気で思っているのか。
「カラス君はほんとに騒動に事欠かないねー。いい機会だし報告でもしようかねと探したらすぐ見つかったもん」
「今回は騒動にさせる気もなかったんですけど。……それで、報告というのは?」
声が外に響いているはずだが、衛兵は誰も見に来る気配すらない。これは、彼女が何かしているのか。それとも、本気で聞こえていないのか。囚人が、どんな様子かを逐次見張っているのが彼らの仕事だろうに。
「うへー、まずそっちー? まず自分の心配したらどうすか? どうすか!?」
「最悪、穴開けて出ていきますし」
「…………ふーん。まあ楽しそうだしあたしもそんときは爆破してやろ。で? あたしはきみが何やったかちゃんと知らないわけなんだけど、なにがあったん?」
「……ちょっとした躓きです」
報告とやらは後か。気分屋の彼女だし、これは僕の話をしないと向こうも話してはくれないだろう。仕方ない。
シャナやアリエル様やら、最近話を聞く機会はあったけど、こちらの立場に立つのは初めてかもしれない。
僕は鉄格子から手を放し、今度は鉄格子を背に座り込む。
「へへへへへ! んで、どうしたのさ、どうしたのさ?」
向こうもしゃがみ込み、鉄格子を掴んで顔を近づけてくる。背中越しに、かなりの近くに彼女はいた。
しゃがみ込んだ姿勢から、上部にある小さな窓が見える。その先の青空を朝日が白ませていた。まだ太陽は低く、リドニックに近いからだろう、肌寒い気がする。
「始まりは、昨日のことなんですが……」
僕が語り出すと、それだけで楽しくなってきたのかエウリューケは鉄格子を揺らした。
せっかくだから、このままムジカル方面に出よう。
スニッグを出た僕は、そう思い立つ。
行ったことのない土地だ。ネルグの北西から北にあるリドニックすら白銀の大地に覆われた、エッセンとは全く違う土地だった。ならば、きっと東側にあるとされるムジカルはまた違う気候に違う植生、違う文化に違う食べ物があるのだろう。
そう思うと喉が鳴る。昔食べたクラリセンの料理は、イラインと比べても香辛料や調味料をふんだんに使った極端な味付けが多かったと思う。ならばきっと、そのクラリセンに影響を与えたムジカルはそういう国なのだろう。
何日かまた歩き続け、たまにかまくらを作り寝る。夜に合わせて街に入るのが面倒だったからではあるが、それは意外にも僕にはちょうど良かった。……意外でも何でもないか。
歩きながらの食事も楽しい。途中立ち寄った街で買った大根は凍っているが、囓るのにはいい。細身で色を除けば人参に見えなくもないが、味は大根だ。味付けもないが、何となく甘い気がする。
遠くに見える木の幹を目指す。
ネルグの中央にある木から広がる森。その森自体はまだ見えないが、木の幹はずっとそこにあった。本当に、巨大でどこからでも見える。流石にスニッグから歩き続けて二日くらいは見えなかったが、それでもここ何日かはずっと見えている。実際に大きな木であってもみえるのはおかしい気もするから、空気の屈折率とか何か色々とあるのかもしれないが。
一度あの木の根元に行ってみてもいいかもしれない。竜以上の化け物がそこかしこにいるそうだから、少し抵抗があるけれど。それでもあの月から見たように、この世界を見下ろせるとしたら面白い。
だがまあ、まずはこの国を出ることだろう。
国境に近い街、朝早い時間帯ではあるが、ここは見覚えがある。
僕とスティーブンが、雪海豚を殲滅した街。
相も変わらず突然現れた街の風景に僕が立ち止まると、それを見て取ったのか、検問代わりに置かれた詰め所から一人衛兵がこちらを見た。
そして、何かに気がついたかのように動きを止める。
その姿に少しだけ警戒しながらも近づけば、それまで確信はなかったのか、ようやく身を乗り出すように僕に顔を見せた。
笑顔を作る。社交辞令と親愛が半々ほどに混じった笑みを。
「あ、……ああ! この前の!!」
「どうも。……この前、というと雪海豚の討伐に参加された方でしょうか?」
会釈してから尋ねる。僕を知っている様子ではあるが、僕は彼を知らない。だが僕を見たことがあるような言い方なので、きっとそうだろう。
「はい。この前は助かりました。一緒に活躍していたご老人の方は?」
「現在首都に逗留中です」
「そうですか。ああ、すいません、足を止めてしまいました」
あくまでも小屋から出る気はないようで、戸のない小屋の中から呼びかけるように僕に会釈する。それでいいのだろうか。
「……今夜はこの街に宿泊の予定ですか?」
「いえ。通るだけです」
この街には、街道任せに歩いてきただけだ。
街道はやはりそのために作られているだけあって歩きやすい。起伏も舗装もないこの国の街道は道標が並んでいるだけだが、やはりそこを人が歩き続けてきたからだろう、新雪の下は踏み固められている感じがする。
この前までは感じられなかったものだ。
僕の言葉に衛兵は少しだけ渋い顔をした。だがすぐに何事もないような顔に戻し、僕を見る。
「でしたら、多分出るときにも言われますけれどお気を付け下さい。国境沿いのエッセン領の話ですが、少しだけ妙な話が……」
「妙な話?」
「はい。首都にいらしたのでしたら、少し前に大規模な避難騒動があったのは当然ご存じですね」
「ええ」
その場に居合わせたのだから本当に当然なのだが。
「その際、この街は避難区域ではなかったのですが、それでも念のためエッセンまで逃げていった者たちがいるらしいんです。ミールマンの知己を頼ったりなど」
「用心深くていいじゃないですか」
「いえ、それが……」
何の話をしているのだろう。僕が適当に相づちを入れると、衛兵は沈んだ顔で首を振った。
「何人か、戻ってきていないのです。既に十日以上経っているにもかかわらず」
「……単に、エッセンの方でしばらく過ごしているだけでは?」
「それならば全く問題ないんですが、何しろ、町長が、その……」
「ああ、あの町長が」
そういえば、雪海豚騒動の時に後ろで喚き続けていた町長。治したはずだが、予後はどうなったのだろうか。
「衛兵全体に伝達してきているんです。『五人以上の集団で避難した者たちは全員無事。姿を消したのは三人ないし二人以下の者たちだけ』という事実を根拠に、街道の警備をより一層強めるようにと」
「……人の仕業だと」
「はい。少し前に増員された騎士たちもともに、衛兵もエッセンとの国境まで頻繁に巡回するようになっています」
騎士たちが増員されている。それは少しだけ朗報だ。戦力不足を自覚できるようになっているのか。
「わかりました。ご忠告ありがとうございます」
「貴方ならば心配ないでしょうが、少人数で移動する方には注意喚起しなければいけないので……。どうか気をつけて」
ぺこりと衛兵が頭を下げる。それに僕も返し、街へと足を踏み入れた。
食糧の補給は要らないだろう。そう考えた僕は街をほぼ素通りする。
北壁の騒動などなかったような雰囲気で、皆前と変わらない生活をしているようだ。
それも当然か。この街には魔物が到達することなどなく、ましてや波が見えることなどもなかったのだから。
それはいいことなのだろう。この平和な暮らしをマリーヤやグーゼル、それに大勢の騎士や治療師たちは守ったのだ。
だからまあ、消えた数人は少しだけ気になる。収束してからもう何日も経つのに戻ってこない者たち。彼らが事件外で消え去るのは、あの戦いを汚されたようで少しだけ気になる。
もちろん、何事もなくただミールマンや近い街で遊んでいるだけかもしれないけれど。
雪により作られた海岸線のような境界線。
歩き続けたところ、ようやく森と雪の境界線まで辿り着いた。
リドニックとエッセンの国境線。足跡の残る雪から、絡まる頑丈な根の足場に。
一歩踏み出すと、やはりもう踏み心地が違う。黒土が固められていたスニッグよりも固く、ざらざらした細かい起伏は水煉瓦の城内よりも少しだけ不安定だ。
何となく安心する。僕の生まれ育った土地。僕が、きちんと踏み締めて育った土地。新雪の感触も好きだ。アウラで海水に足を浸したのも懐かしい。だが、きっと僕の中での基本はこの絡まり詰まったネルグの根っこの感触なのだろう。
少しだけ跳ねてみる。トランポリンのように弾むわけでもなく、しかし弾力がある。緑色の地面。これが僕にとってのきちんとした地面だった。
「……で」
ここからどうしよう。ムジカルの方に歩くとしたら東方面、おおざっぱに言って左側だが、街道はネルグの森を割り真っ直ぐ進む。選んだ街道がまずかったか。ムジカル方面に行こうと思っていたのに、これは多分ミールマンに辿り着く。
……ネルグの森を突っ切っていけばいいだろうか。道なき道を進むのは慣れている。
ざかざかと茂みを掻き分け、遠くに見えるネルグの幹を目安に、僕は歩き出した。
「……それで、オチはまだかいな」
僕の視界と思考が暗い牢獄の中に巻き戻る。そういえば話すのに夢中になりすぎて、エウリューケの反応をほとんど窺っていなかった。
耳のすぐ後ろから聞こえてきた残念そうな声に、僕はちょっとだけ申し訳なく思った。
「申し訳ありません。こういう話をする経験があまりないので」
「もっとこう、ビシッとさ、ズビシッとオチを決めてやってくれい。長い話は飽きるよ? ていうか飽きた」
失礼な話ではあるが、まあ仕方あるまい。長々と前振りを話してしまった僕のほうにまだ改善の余地がある。
「……では、少し時間を飛ばして、たまたま出た街道で少女に会ったところから」
「うんうん、何ごとも手っ取り早いのがお得だよ。早く爆発させたまえ」
鉄格子にぶら下がり揺らし続けるエウリューケを視界に入れずに、僕は続けた。




