足跡は残したまま
無意識に唾を飲む。
「……覚悟が要りますね」
僕はグラスを握りしめそう呟く。この忌避感はきっと、この鳥の苦さを知っているからだ。
苦いだけではない。正直不味い。濃縮した泥水を啜るようなあの味が口の中に蘇る。
グーゼルが、僕を見つめて眉を顰め、溜め息をつく。
「他にも理由があんだよ。マリーヤが説明すっから、早く飲め」
「グーゼル様でいいではありませんか」
「えー? なんだっけなー? それー? 覚えてないしぃー」
窘めるようなマリーヤの言葉に、グーゼルがとぼけたような声を出す。それからまた僕を見て、にやりと笑った。
「なんだ? お姉さんが口移ししてやろうか」
「遠慮しておきます」
それを聞いて少しだけ笑うが、そうしてはいられない。
僕は一度息を吐いて、それからゆっくりとグラスを口に近づける。
アルコールの嫌な臭い。光が反射して、少しだけ表面に虹色の油分が見えた。
供されたものだし、飲まなければ。残すのは失礼だし、せっかく死んだこの鳥にも失礼だろう。残りは捨てられるらしいけれど。
唾を飲み込む。まだ水を飲んでもいないのに、口の中が苦い気がする。
啜るように飲んでは駄目だ。勢いよくいかねば、味わってしまえば、多分僕は吐く。そんな予感がする。
だがまあ、覚悟しよう。この部屋にいる四人の中で、飲んでいないのは僕だけだ。
同じデキャンタから注がれた水。毒などはないようで、マリーヤたちにも体調の変化は見られない。
……こんなときまで疑ってしまうのは、本当に僕の悪い癖だけれど。
そして、毒などがない味だけの問題であれば、これは受け入れなければ。
用意してくれた料理長にも、マリーヤにも、問題なく飲んだスティーブンやグーゼルにも失礼だろう。
それにグーゼルの言葉も気になる。飲まなければ美味しくないというのであれば、そうしなければ味わえない味がある。僕にも未知の味がある、
……それに。
僕はもう一度匂いを吸い込み、確認する。
薄かろうとこれは酒だ。僕が今まで忌避してきた酒。それはきっと、年齢的な理由だけではなかったのだろう。
北壁の向こうで何度も見た夢の中で、僕はずっと嘆いていた。酒などがなければ、僕には動く足があったのに。動く足があれば、誰の足手まといにもならずに生きていけたのに、と。
だがそれは本当に酒のせいだったのだろうか。
いや、今になってもなお、酒のせいでもあるとも思う。母親が、僕を妊娠中に酒を飲まなければそれだけで済む話だった。
けれど、きっとそれだけではない。
酒だけのせいにして、僕は他のことから目を背けていた。そんな気がする。
ようやく決意した。
そうだ、酒は悪いものではない。ただ、飲むのに適さない時期や人というものがあるだけだ。
今の僕は酒を飲める体で、法律上の問題もこの世界にはない。ならばこの忌避感は、きっと僕の嫌いな不当なものなのだろう。
勢いよく、グラスを口に付ける。
吸うように水を口の中に流し込めば、思った通り、濃度の高い苦みが口の中いっぱいに広がる。渋い、口の中の粘膜が強制的に収縮するのを感じる。
喉が動かない。嚥下するための筋肉の使い方を忘れたように、喉の奥に入っていかない。
失敗した。胃がせり上がる感覚がある。だが、みぞおちを叩いてそれを止める。
仕方ない。
鼻だけで深呼吸して、息を整える。
自分で自分への点穴。胸骨中央やや右の辺りを強く叩き、強制的に嚥下させる。こんなことをするために覚えたわけじゃないのに。
ようやく胃の中に落ちていった水。しかし、粘度の高い液体のように食道にへばりついている気がした。
アルコールのせいだろうか、首の後ろから額に熱さが這い上がってくる。恐らく初めて飲んだが、酒とはこういうものだったのか。
飲み込んでから、改めて思う。
……飲もうと思ってからは、酒に対しては驚くほど抵抗感がなかった。酔わないと知っているからだろうか?
あれだけ嫌っていたのに。日本でも、きっと僕は一滴も飲まなかったと思う。何故かはわからないが、それでもやはり妙な気分だ。
それよりも未だに残る不快感に、少し涙が出てきた。
「ははは! お前にも苦手なもんとかあったんだな!」
それを見て笑うグーゼルが恨めしい。だが、文句は言えまい、彼女はこれを普通に飲んだのだ。
鼻を啜り、黙って肉を切る。柔らかいわけでもなく少し固めの締まった肉の繊維を千切る。
口に運べば、……なんだろう。不味いわけではない。だが、美味しいとも言い難い味が……。
「……普通の鶏肉ですね」
「保存食じゃし、そんなもんじゃろ」
同じように頬張るスティーブンも僕の言葉に同意する。不味いわけではない。だが、たとえば一ヶ月分の献立を考えたとき、食べたいものを順々に思い浮かべてもこれが出るとは思えないくらいだ。
「さっきの水で口の中が痺れてるからな。飲まなきゃクソ不味いし」
「苦みを飽和させるためですか、これ」
空になったグラスをもう一度揺らす。少しだけ滴が残ってはいるが、もう飲む気にはなれない。だが、なるほど。処理してもまだ苦い肉、その苦みを感じさせないようにするための水だったのか。
そこまで考えて、僕は『艱難鳥』という料理の名の意味に気づく。いや、勝手に意味をつける。
そうだ、きっと人生とはこんなものだ。
苦く苦しいものに耐えて、更に苦く苦しいものを味わえるようにする。
この鳥も、口が痺れている今となっては不味いものではない。その苦みを除いた味を知ることが出来るだけ、今きっと僕は成長というものをしているのだろう。
……しかしなおさら、そこまでして食べなければいけないものは客に出すべきではあるまいに。
「ま、それだけじゃねえし」
僕の恨めしい視線を受け流すように、背もたれにしなだれかかり、椅子を揺らしてグーゼルはマリーヤを見る。しかし、マリーヤは意味ありげに笑っただけだった。
「ごちそうさまです」
食後の小さなクッキーが終わり、そして熱い紅茶を飲みながらほっと一息をつく。
大満足だ。
途中少しだけ口にしたくないものもあったが、久しぶりに食べた料理だ。いや、それは言い過ぎだろうけれど、それでも美味しいものだった。
グーゼルは組んだ腕と胸を机に乗せるようにして、僕を見る。
「んで、お前はまたどっか行くんだろ? どこ行くんだ?」
「……決まっていません。まだ行ったことない聖領もありますし、国だって多いですし。何か面白そうなものありませんかね?」
「あたしにゃ案内できねえし。この国でたこともほとんどないし」
「どちらに行かれるにせよ、またこの国にお立ち寄り下さい。歓迎いたします」
目を瞑り眠そうにするグーゼル。その姿に溜め息をつきながら、マリーヤはそう言った。
「マリーヤ、もう説明してやればいいじゃん。さっきの料理についてさ」
「まだ何かあるんですか?」
グーゼルの言葉に、僕は目を見開く。それに、当然、と言わんばかりにグーゼルは口元を引き締めた。
「……あたしが言うもんじゃねえと思うけど、マリーヤの名誉のために教えてやるよ」
グーゼルは強く目を閉じ、眠気を覚ますように何度も瞬きをする。それから、内緒話をするように、それでいて普通の話し声で話し始めた。
「まっずい料理はさ、お前のさっきの靴の話に対抗してんだ」
「靴、というとこの結び目のことでしょうか」
「それ。そのおまじないみたいに、不味い料理を食わせたのも意味があんだよ」
「嫌われる未来しか想像できないんですが」
わざと不味いものを食べさせる。それは普通に考えれば悪意のある行動だろう。だが、そうではないらしい。グーゼルの表情的に考えて。
「理由は知らねえけど、危険な場所に戦いに行く家族を送り出すとき、いっこ不味いもん食わせるっつーまじないがあってな」
「……あまり嬉しくないおまじないですね」
わざわざ美味しくないものを食べさせる。普通逆ではないだろうか。
危険な場所に行く、ならば美味しいものを食べさせて気持ちよく送り出したいと僕なら思ってしまうが。
「あたしも本当に理由は知らん。マリーヤは知ってるか?」
「いいえ? そこまでは私も存じ上げません」
「とまあ、あたしも婆ちゃんに聞いたくらいの話だ。今はもう残ってないし。でも、あたしは理由があんじゃね? って思う」
グーゼルが笑顔を作る。目を細めて、僕を見た。
「死んだ婆ちゃんに聞いてもわかんなかったけど、色々理由っぽいもんはあった。嫌な思い出をつくって、家を思い出すことなく未練なく戦ってこいってことだとか、逆に食えたもんじゃねえ料理で印象に残るようにして、家を忘れさせないためだとか」
「そんなことせずとも、僕はこの国を忘れませんよ」
元は、マリーヤの体を気遣って出された料理。それがいつの間にか僕のためにこの料理が用意されたような話になっているが、マリーヤの意図としては間違いではないだろう。
だが、だったらこれは不要なものだ。
そう思ったが、グーゼルは続けた。
「あたしはそういうことじゃないと思う。これはマリーヤからの伝言に近いんだ」
マリーヤに目を向けても黙ったままだ。グーゼルはマリーヤのほうを見ずに、続きを口にする。
「満点じゃねえ料理。それはさ、『次はもっと美味いもの食わせてやる』ってことなんじゃね? 戦いに出る奴にさ、『だからまた戻ってこい』って話」
そこまで言わせてから、マリーヤはわざとらしく小さな咳払いをして、咎めるように言った。
「深読みがすぎますよ。残念ですが、私のはただの悪ふざけです」
「まじかー、あたしの勘違いかー」
あちゃー、とグーゼルが手を額に当てる。だがその顔は、笑ったままだ。
まあ、ならば僕もいい方に捉えておこう。女性の心中を推し量るのは、僕にはまだまだ難しい。
「……では、次にこの国に来るときにはもっと美味しいものをお願いしますね」
この国に期待すること。それは、料理だけではないけれど。
僕の言葉の意味を正確に読み取ったのだろう。マリーヤもニコリと笑う。
「そちらはお任せ下さい。お口に合いそうなものを用意して見せます。父カールル・アシモフの名にかけて」
ゆっくりと口に出されたその言葉はなんとなくずしりと重みがあり、信じるに足ると、そう思えた。
その後、城の入り口まで三人は見送りに来てくれた。
「それじゃあのう。カラス殿、また会うこともあるじゃろう。達者での」
「ええ。スティーブン殿も息災で」
スティーブンはしばらくこの国に残るらしい。変若水はないとわかったが、まだ色々と見て回りたいらしく、城の厄介になるそうだ。
「もう少しゆっくりされていってもよろしかったのですが」
「長くいすぎてもおかしなものでしょう。僕は王城の関係者でもなく、王城は宿泊施設でもありませんので」
マリーヤはそう勧めてくれるが、城に勤める知人との謁見という理由を付けても限度がある。ヴォロディア王は僕をまだ敵視しているのだろうし、またいちゃもんつけられるのは嫌だ。
「四色……ではありませんが、ここに来た理由の四つの雪を見ることが出来ましたし、長居する理由もありません」
僕は居住まいを正す。通用口に並んで立つ三人に向けて。
「お世話になりました」
「いやいや、むしろこっちが世話になりすぎてんだよ。こっちこそ、ありがとな」
「僕は何も出来ませんでしたよ。ただ北壁と城を行ったり来たりしていただけで」
僕の言葉にマリーヤがフフと笑う。マリーヤの似たような言葉に被せてみたが、伝わったらしい。
「……またしばらくしたら、この国に来てみます。少しでも、僕の夢の場所に近づいていると嬉しいです」
「さて、それはどうだか……」
マリーヤの言葉に、皆少しだけ笑う。だが、それぞれの目には自信が見えた。
「それでは」
僕はもう一度頭を下げて、踵を返す。
昼食の間にも一度雪が降ったのか、足下の雪は新雪で少しだけ頼りない。
その足跡を残したまま、僕はなんとなく気恥ずかしくなって、街を出るまで姿を隠した。
というわけで、一段落です。




