不死の妙薬
見ている間に、また暗くなってしまった天井の暗い穴。
だが僕たちはまだそれを見つめていた。
「……ここは、月なんですね」
「そうよ。妖精が月の欠片と呼ばれる所以ね。あたしたちは、いつも上から貴方たちを見下ろしていた」
なるほど。ずっと見えていた小さな明かりは、都市の明かりだったか。そういえばイラインではあんまりないものの、エッセンでも首都近辺の大きな街は夜でも明かりが消えなかった。
しかし、電気の明かりが見えていた地球の衛星写真ならば確かによくわかっただろうが、この明かりではわかるまい。
今目を凝らしても、まだ都市の明かりは天空からは暗くてよく見えない。まだこの世界には、きちんと夜が来るのだ。
…………。だが、僕たちは今、月にいる。それにしては身体的な違和感はない。魔力で保護されていることを差し引いても、リドニックの北にある山脈の方が過酷な環境だ。
「つまり僕たちは今宇宙にいるということでしょうか?」
僕はアリエル様に顔を向け、重ねてそう尋ねる。
「宇宙……ってのもちょっと違うわね。月は確かに空の上にあるけれど、ここは空の上というわけじゃない。月はあくまで、空に浮かんでいるように見えているだけなのよ」
「見えている、ということは実際にはない……?」
またよくわからないことを言いだした。空にあるのに、空にはない。まるで禅問答だ。
「あたしは違うけど、あたしたち妖精は本来物理法則に縛られない。時間にも縛られていないこの空間は、あんたたち物理ベースで存在している存在には捉えきれないの。でも、あんたたちの心はそんな存在を許せない。だから、勝手に空に浮かんでいると解釈しちゃうの」
「心の問題ですか。また、抽象的な」
本当に、ここまで話してきて彼らと常識が違うのがわかる。
心と肉体、あと魂。それらを僕らは完全に分けて考えることなどしないのに。
「どうせあんたたちには理解できないわ。グラフィカルに表現された画像も、元はソースコードっていうわけわかんない文字列でしょ? あんたたちが見れるのは、その画像まで。ソースを読めるのは、あたしたち肉体を持たない存在だけなのよ」
そこまで言って、ああ、とアリエル様は言葉を切る。それから、今思い出したかのように両手を合わせるように叩いた。
「でも、あんたならわかるかもしれないわね。魔力は心と密接に繋がっている。だから、ありもしないものを創造出来る。魔法使いたちは、あたしたちに近い存在なんだもの」
僕はその言葉にふと微笑む。多分意味は違うが、そういうことも言われたことを思い出して。
「……ドゥミ様にも言われましたよ。『妖精さん』というあだ名まで付けられて、僕はアリエル様と似ていると」
「嘘、あのおばさん、んなこと言ったの? こんな可愛らしいセブンティーンを、こんな子供と似てるって? いつか雷でも落としてやろうかしら」
げー、とアリエル様は舌を出す。明確に嫌がっているこれは、本気らしい。
「でも、まあよくわかりました。ここは月、そして異界。時間の流れの関係も考えると、竜宮城が近いわけですね」
「そのたとえ、良いわね。ウラシマとオトヒメの恋物語だっけ? あたしがオトヒメで、勇者がウラシマ」
僕のたとえに、両手を頬に当てて顔を赤らめる。多分恋物語の内容でも想像しているのだろうが、浦島太郎は別にそういうものでもなかったと思う。
むしろ、悲劇だ。
僕はうっとりしたアリエル様を無視して、そのたとえを続けた。
「そして僕がここに長居して、地上に帰ったときには数百年の時が過ぎ去っている。……長居は無用みたいですね」
「オゥ、そうなるわ」
浦島太郎は必ず乙姫と別れ、数百年経っていた地上に絶望し玉手箱の煙を浴びて老人、そして鶴となる。ここが竜宮城ならば、ここは人がいるべきところではない。
「でも、ここにいる分にはあんたたちの時間感覚で永遠に生きることが出来る。長居していってもいいのよ? 寂しいのなら、お友達も連れてくればいいじゃない」
「寂しいから帰るわけでもないですし、そもそも月は、僕がいるような場所でもなさそうです」
それは僕の勘だが、間違いではあるまい。
ここではお腹が空かない。それは僕にとって致命的だし、他の人間にもきっと苦しい。
「ここでは時間が進まない。ならば、代謝なども行われない。で、あってます?」
「……イエス。概ねそんな感じよ」
それなのに、こうして普通に動いて会話して思考が出来るというのも不思議なものだが、先ほどの『月は空にあって空にない』というあの禅問答のような不思議な場所だからそういうこともあるのだろう。概念やこの世界の成り立ちは、僕らには理解できない領域にある。
「でしたら、そこで永遠に生きて何になりましょうか。僕はどちらかといえば永遠に思索に耽るのも歓迎しますが、そうでない人間も多いでしょう」
たとえば、スティーブン。彼をここに招いたところで、ここでは何もすることがない。食事も睡眠も排泄も必要なく、そして体を鍛えたところで回復しないのだから鍛えられることはない。想像だが、神経系の発達なども難しいと思う。
ただ老いた体に縛られながら、彼らと会話を楽しむくらいしか出来ないのだ。
「僕も地上の世界は好きです。アリエル様はこうして見つめているだけで満足なのかもしれませんが、僕はそちらの世界で普通に生きたい」
であるならば、もう僕は帰る。ここはたまに訪れるのであればいいところなのかもしれない。しかし、長く過ごす場所ではない。
「……そう。あんたはそうなのね。あんたもそうなったのね」
「ええ。前世の僕であれば、ここで眺めているだけで満足したかもしれませんが」
知らない僕であれば、きっとそうなのだろう。本を読み、本の中の世界で過ごす日々。想像の翼を広げて、狭い部屋の中で広い世界を旅できた。
でも、もうそれでは満足できない。
美味しいものを食べて、綺麗なものを見て、そして世界を歩いていける。それを知ってしまった今では。
「贅沢になったものですね。慎み深かった前の方が、ずっとよかったかもしれません」
「そうでもないわよ。変化していけるのが、肉のある生物たちの強みだもの。前のあんたにも、今のあんたにも、また違った良いところも悪いところもあるんだから」
引き留めるのかと思ったが、そうではないらしい。無関心というわけでもないが、どういう選択をしようが構わない感じだ。きっと僕が、月に留まると言っても歓迎はしてくれるのだろう。
「じゃあ、お行きなさい。貴方はまだまだ地上を楽しんで生きなさい」
「アリエル様は、降りてこないんですか?」
もう送り出すムードのアリエル様に、僕は問いかける。
先ほどの言葉でも、ドゥミの言葉でも、彼女は日本に旅立って以降ドゥミに会っていないのだろう。せっかくの、生き残っている仲間なのに。
「肉のある体って疲れるの。あたしの人生はもう、勇者と一緒におしまい。あんたたち人間の手で忙しなく変わっていく世界は、もうあたしの戻るところじゃないのよ」
「その変化が、好ましいものであってもですか?」
「イェア。それならなおさらね」
胸を張り、目を細めて笑うアリエル様。彼女は、自分が死んだとそう言い張っているのだろう。だから、どう変わったかなど見たくもないと。そう言っているのだ。
ならば、そこまでいうのであれば最後に少しだけ言おう。今でなくてもいいが、彼女にも世界を知ってもらわなければ。
いや、知っておいてもらいたい。悪意からこの世界に僕を連れてきた彼女には。
「では最近の世界の変化の遠因が、自分にあっても?」
「……あたしに?」
僕は空を見上げる。そこには、また地上の闇夜が広がっている。多分、やや強い光の点はエッセンの首都グレーツだろう。そしてそこからわずかに離れたやや弱い光は、イプレスやその他の衛星都市。
そこから、先ほど見えたネルグの森の方へ目を移す。縮尺はわからないが、それでも見当はつく。グレーツからネルグへ向かう方面が東として、その南側。
思った通り、そこは本当に少しだけ、目を凝らして見ても自信がないほど、ほんのりと光が散在していた。
「ネルグの南側。すこしだけ光量が多いところがありますね」
「ああ。そうね。あんたの生きる時代では、そんなふうに」
「多分、その光量が増えた原因が、アリエル様が連れてきた魂です」
眉を顰めてアリエル様が僕を見る。これは推測だ。だが、きっと間違いない。
「彼には日本の記憶がありました。彼は僕よりも五年ほど早く生まれ、貴族の家で領地の発展を目指した。ガス灯を設置し、街の明かりを増やそうと」
まあ、実際には松明よりも暗かったが、それでもその設置された村の数の多さがよくわかる。エッセンでは、多くの村は夜間松明など付けない。それが、ライプニッツ領では村にすらあの頼りない灯りが設置されているのだ。
「火薬も量産し、リドニックでは銃の開発も目指していました。完成することはなかったようですが、植物から液体燃料を作る気もあったとか。その燃料の性質までは知りませんが、もしかしたらこの世界にも産業革命が起きたかもしれませんね」
産業革命という言葉にアリエル様はまた顔をしかめる。
イギリスなどでは既に起こった後ではあったし、大正の日本でも内燃機関の使用はしていたはずなのでそう大きな違いはないと思うが。しかし、それを野放図に使い続けた結果の環境汚染が、高度経済成長期のあれだろう。
「……この星空が、ずっと見れるといいですね」
「地味に嫌みね、あんた」
その原因は僕が殺してしまった。
だが、その技術は完璧に消えたわけではないだろう。銃がレヴィンなしでも開発を進められていたように。いつか誰かが、レヴィンの残した技術を発展させて、完成させる。それが本当に便利なものならば。
「ですから、アリエル様もたまには地上に現れてみてはいかがでしょう。姿を隠しながらでも、千年前守った地上が、どんなふうになっているか。気に入らなかったら介入してもいいんですよ。生きているんですから」
世界への介入は、肉のある生き物の特権ではない。生きているものの特権だ。
「なあに? 逆に説教食らわす気?」
「ええ。ちょっとした仕返しです」
僕は笑って視線を逸らす。僕を悪意からこの世界に連れてきて、わざわざ生き方の説教までしてくれたのだ。
僕のことを考えてしてくれたこと。それはきっとありがたいのだろう。でも、それとこれとは話が別だ。
僕は立ち上がる。
知りたいことは大体知れた。もう全て、今の僕には関係の薄いものだったけれど。
「それでは。竜宮城に長居は無用ですね」
「ここが竜宮城なら、玉手箱でも渡さなきゃ駄目かしら」
僕の言葉に、楽しそうにアリエル様は返す。アメリカンミュージックを歌っていたときくらい、楽しそうな顔で。
「いいえ。僕はまだ鶴にはなりたくありませんので」
「名前の意味は、カラスなのにね」
アリエル様の言葉に僕は声を出さずに笑う。
そうだ。まだ一つだけあった。僕は一切興味ないけれど、僕が生還したらきっと気になる人がいるだろう。
「もう一つありました」
「うん?」
ここに、壁の向こうにどうしてもスティーブンが来たかった理由。それは、それに類するものは本当にないのだろうか。
「変若水、というものを妖精は纏っていると聞いたんですけれど」
「不死の妙薬? そんなわけないじゃない」
「……ですよね」
質問の途中で切って落とされる。アリエル様は両手の平を空に向け、目を瞑り首を振った。
「あんた、そんなもの欲しいの? 魔法使いが何言ってんのよ」
「いいえ。僕ではなく、僕をあの壁に誘った人物が欲しがってまして。お爺さんですけれど、若さを求めてリドニックまで旅した剛の者です」
「若さ、ね。残念ながら若返りの薬はここにも無いわね。不死の薬になりそうなもんなら……」
「……あるんですか!?」
言いよどむアリエル様に、僕は驚きの声で聞き返す。
無いとは思っていた。しかし、この言い方だと不死の薬はあるという。若返らないのは残念だが、それでも死なないのであればスティーブンも少しは納得してくれるのではないだろうか。
だが、少しだけ手土産が出来そうで高揚する僕に、アリエル様は冷ややかに続けた。
「でも、欲しい? あんな不死……」
「? どういうことですか?」
また聞き返した僕を無視するように、アリエル様はエインセルたちの方を向き、入ってきた扉を指さした。
「エインセル。肉霊芝を取ってきてくれないかしら」
「わかったー」
「はいはい」
一度顔を見合わせて、二人は部屋を出ていく。と思ったら、全く間も開かずに入ってきた。
「持ってきたよー」
「苦しそうだけどいいー?」
「サンキュ。大丈夫よ」
アリエル様はその髪の丸まったエインセルが持っていたキノコを両手で受け取ると、抱えるようにしてそのまま僕に差し出してきた。
その小さなキノコには見覚えがある。椎茸のようで真っ白なそのキノコは先ほどの……。
「はい。欲しいならあげるわ。肉霊芝……、生で食べると死にづらくなれるキノコなんだけど……」
そうアリエル様が言うと、キノコが暴れ出す。
……自分で考えててよくわからなくなった光景だが、キノコが暴れ出した。
「モォォォォォ! オォォォォォ!」
そして、キノコが震えて声らしきものを出す。牛のような、人間の男性のような、意味のない野太い叫び声を。
先ほどは照れて赤くなっていたというが、今度は黄色く染まりそして傘の部分をぶるんぶるんと振り回していた。
「……鳴いてますけど」
「やっぱかわいそうよね」
僕の言葉に頷くように、キノコはアリエル様の手を離れる。それから机に飛び移り直立し、表面にぽこぽこ開いた穴から空気を何度も噴き出していた。
その勢いで踊るように震えるキノコを、アリエル様はみつめて溜め息を吐いた。
「肉霊芝っていってね。これはその子実体なんだけど、食べると内臓の中で繁殖する性質があるの」
「怖いのであんまり食べたくないですね」
アリエル様はさらりと衝撃的なことを口にした。生で食べると体の中で増えるとは、寄生虫と何が違うのだろう。
「その菌糸が、生き残るために宿主の体を繋ぐのよ。老化は変わらなくても、切り傷はすぐに治るし、内臓の機能も代替するから弱った内臓が原因の病気にならなくなるし」
「体の補修材として働くと?」
「そう。だから、死なない。少なくとも老衰死はしなくなる。意識も残らないけどね」
僕は唇を結ぶ。
体の中で繁殖し、生物を強制的に死なないようにするキノコ。……これは、スティーブンにも食べさせられまい。
「せっかく採ってきてもらって申し訳ないですけれど、遠慮しておきます」
「焼いて食べると効果は無くなるし、味は最高なんだけど……」
「やっぱりもらってもいいですか?」
「おぁぁぁぁぁ!!」
アリエル様の言葉で心変わりした僕の言葉に、キノコがブルンブルンと震えて猛抗議する。……さすがに、これは食べづらいか。今はお腹も空いていないし、やっぱりやめておこう。
その旨を伝えると、キノコは安心したように大きく空気を吐き出した。




