天を見下ろして
アリエル様との会話で、僕の中で色々と情報が更新された。
だが、元々、僕の好奇心を満たすためだけのものだったのだ。心中は、自分でも驚くほど何も変わらない。興味深くはあるが、多分僕は今心の中で、雑学としてこの情報を処理したのだろう。
きっと頼子さんの話は、僕の中で解決すべき大きな問題だというのに。
「……疑問は大体解消されました」
「イェア」
アリエル様は今度は椅子に浅く座り、背もたれにもたれ掛かって足をブラブラと振る。先ほどまでの勇者の話題とともに先ほどの激情も消え去ったのだろう。穏やかな笑顔だった。
「でも、それにしては浮かない顔ね?」
「そうですか?」
表情には出さないよう気をつけているつもりだが、それでも見えてしまうのだろうか。こういった社交場での振る舞いは、本当にまだまだ未熟らしい。
僕は意識して表情を引き締める。薄い笑顔。場に相応しいものに。
それにアリエル様は目を留めた。
「あんたはまだ子供よ? そんなに、気をつけることはないわ」
「アリエル様の話では、僕は一生を終えた後に生まれなおしているので。ならば、もういい歳した大人でしょう」
「記憶があるんならね」
僕の言葉を遮るように、アリエル様は強い口調でそう言う。
「あんたの人生経験は全部消えて、残っているのは意味記憶や手続き記憶だけ。そんなもの、大人とは言わないわ。あんたの今の人格は、今の人生の十二年だけ。ならまだまだ子供じゃない」
アリエル様はそう言う。だが、そうだろうか。
「……生まれてから全てのエピソード記憶を突然失った男性がここにいたとして、その男性は赤ん坊に戻ったとは言わないでしょう。今までの成長分の年齢として扱われると思います」
「時間と一緒で、年齢なんて曖昧なものよ。肉体年齢、精神年齢、戸籍上の年齢、そのときに使いたいものを好きに使えばいいのよ。……って言ったら、あんたなら『なら僕は客観的な魂の年齢を使います』とでも言うわね。間違いないわ」
哀れな者を見る目で、アリエル様は僕を見る。今まさに言っているのだから、そうなのだけれど。
「あんたの性格は一生分見てきたから重々わかってるわ。どうせこれからは、『自分は大人だからこうしなければいけない』ってのが続くのよ。あのね、自分が許せないからって、そんなに自分に厳しくあたるのやめなさい。誰でも自分には少しだけ甘いの」
「今までの僕は、自分に甘すぎたようなので」
だから人の辛さがわからなかった。だから、助けられたはずの人を殺してしまった。それは、前世から今までずっと続いてきた僕の心の問題だろう。
「極端すぎるのよあんたは。もうちょっとルーズにやりなさい」
怒られたかと思えば、一転、諭される。ルーズに、適当に、と言われてもわからないのも問題なのだが。
「いつも自分に完璧を求めてたら疲れちゃうし、そもそも人間に出来るわけないでしょ。もっとあんたは自信を持って適当にやればいいの。それで充分よ」
「……こうしなければいけない、というのはしないようにはします」
それは、まさしくアブラムに注意されたものだ。
時には弱音を吐かなければ、より大きな苦痛がやってくる。時には周囲を巻き込んで、潰れてしまう。
だから、それはやらない。
「ですが、それでもいつもより良くあるように意識しておかなければ。向上心、というのはそういうものではないでしょうか」
「あんたのそれは、ただの怯懦よ」
アリエル様は、きっぱりとそう言い切る。先ほど漏れた悪意は消え失せ、温かな瞳に射竦められた。
「より良くしようとしているんじゃなくて、悪くならないように努力しているだけ。悪くなっても『自分はこれだけ頑張ったんだから』と予防線を張ってるだけよ」
アリエル様は椅子を降りて、僕の目の前まで歩み寄ってくる。小さいのに、迫力があった。
人差し指を僕に向けて、アリエル様は毅然と言う。
「そしてもう少し、周りにも優しくしなさい。あんたの魔力を見ていればわかるわ。受け取ろうと努力はしている。でも、あんたは音も光も言葉も態度も、周りのもの全部、ワンクッションおいて受け取ってるの。自分が傷つかないように。そんなんじゃ、嬉しいことも悲しいことも本気では受け取れないわ」
「……これでも優しいつもりなんですけどね」
「警戒は必要よ。でも、あんたは疑わなくていいことまで全部疑ってかかってるのよ。そういうのは、前世で終わりにすればよかったの」
パタンと腕を下ろし、アリエル様は言った。最後のほうは消え入るように。
「靴、そんなに大事?」
「ええ。友達が作ってくれた物です」
「だから、急いで取りに戻りたい。それはわかったわ。じゃあ、あんたはそれが量産品なら取りに戻らなかった?」
それを言われて、僕は少し悩む。どうして悩んだのか、自分でもよくわからなかったが。
「どうでしょうか。固く尖った物が落ちている地面、冷たい雪面、とりあえず、靴は必要です」
「友達の作った物だから、はきっと本音よ。でも、取りに戻りたい理由はそれだけじゃない」
僕の答えを予想していたように、すらすらとアリエル様は僕の言葉を継いでいく。さすが、僕の人生をずっと見ていただけはある。僕のことを、僕以上に理解しているらしい。
「きっとあんたは、それが量産品でも取りに急いだわ。もしかしたら、買いに行ったかもしれないわね。とにかく、早く取り戻そうとしていたでしょ」
「……そこまでは」
しない、とはたしかに言い切れない。だが、そこまでだろうか。
「当然。あんたにとって靴は、歩くための象徴だもの。だから、靴を手放せない」
コツコツとアリエル様は爪先で机を叩く。素足なのに、固い音がした。
「あんたは未だに、歩けなくなるのが死ぬより嫌だからよ」
言い切ったアリエル様は、また椅子まで戻る。のしのしという効果音が似合うほど、肩が揺れている。羽のほうは小さくおとなしく畳まれていたが。
というか、今僕は何故。
「……何で、怒られているんでしょうか」
「あんたがまた幸せになれなそうなことしたからよ」
ドカ、とアリエル様は椅子に座る。
「もっと自信を持ちなさい。別に表情の一つや二つ気にしなくても、気品とか雰囲気やなんかでどうにかなるわ。どこで勉強したかは知らないけど、あんたにはきっとそれだけの作法も身についてる」
「付け焼き刃ですけどね」
正式な教師はいない。オルガさんには数時間だけ。ルルの家庭教師のものは、ルル向けのものを傍から見ていただけだ。
それからも使っているとはいえ、実際には僕の身につけているマナーは生兵法だろう。
「それが、自信がないだけって言ってるの。あんたが知っている中で、あんたは一番不出来かしら?」
「……いえ」
そういった場所に出ていない者も多いだろう。ハイロやモスク、その辺りは特に。
それは僕の周りに孤児しかいないというだけかもしれないが。
「ならあんたは、そいつらよりも礼儀正しいの。だから胸を張って。いいのよ、初めから完璧に出来る奴なんかいないし、ちょっと出来なかったからって、そんな失敗を笑う奴らは首を刎ねちゃえば」
「そんな、物騒なことを……」
と言いつつも僕は一つ思い出す。
コックス・ザブロックを殺害した。そのコックスを僕が初めて見たときは、ルルの不作法を笑い飛ばしていたか。あれは少し腹が立った。
だが、それはさすがに言えまい。
「そんな物騒なことは出来ませんよ」
「……なんか引っかかるけど、まあいいわ。話を戻すと、礼儀のこともそうだし、靴のこともそう。自信を持ちなさい。あんたは出来る。あたしみたいな目上の前でもちゃんと振る舞えてるし、靴がなくても歩けるの。もう、足が動かなかったあの頃とは違うのよ」
また一転して励ましにかかっているアリエル様。目を細めるその仕草に、僕はわずかに首を傾げる。
「あたしから言いたいことは以上!」
元気よく言い切り、そして今度はアリエル様が目を背ける。少しだけ、恥ずかしそうに。
「……ありがとうございます。妖精に励まされるなんて、貴重な経験ですね」
「転生の方がよっぽど貴重な経験よ。もうあたしはエインセルみたいに妖精らしくないし、あんたはあんたで妖精じみてるし……」
アリエル様は嘆くようにそう口にした。
またひとつ気になる文があった。
「もう、というのはどういうことでしょう? 妖精らしくなくなっていくんですか?」
「あたしは肉があるからね。だから、地上でも肉体を保てる。今現在では、普通に地上を出歩ける唯一の妖精よ」
「肉……」
アリエル様の言葉を反芻しながら、僕はふとどこかにひっかかる。
『肉がある』という表現は、どこかで聞いた。いやたしかあのときは、『まだ肉がある』だったか。
「エインセルさんたちには肉体がないんですか?」
「うん? そうよ、知らなかった? 妖精なんだもの、普通はないわよ」
「……?」
「……?」
互いに目を見合わせ、瞬きを二三度繰り返す。
「ああ」
だが、そうか。僕はそれに思い至った。そういえば、僕は彼女を見てシャナを思い出していた。その、肉体を失いつつあった彼女を。
「そうですか。そういう生物でしたか」
「あたしたちを生物っていっていいものか疑問だけどね」
アリエル様は、壁際で手遊びをしているエインセルたちを見る。本当に鏡写しで、同じ動きをしていた。
「生まれるのは他の生物の思念から。生物たちが、あたしたちを創造する。自己増殖も出来ず、食物も本来は要らない。ただ単一の思考に沿って行動し、そして母体が力尽きると死に至る。ノー、消え去っていく」
「『死ぬ』ではなく『消える』んですね」
「肉がない以上、死体も何も残さないからね。でもそのぶん、寿命も老化もない」
「……羨ましい話ですね」
僕はまだ今のところ羨ましいとは思わないが。でもきっと、羨ましく思う老人を一人知っている。
スティーブンがここの存在を知ったら、きっと来ることを望むだろう。
「羨ましい? この部屋にいる限り、無用の長物なのに」
「ああ、この部屋では時間が過ぎないから……」
「イエス。この部屋にいる限り、寿命なんか関係ないわ。だから、この部屋のデメリットだけが目についていくのよ」
「デメリットというと……」
何だろうか。時間が永遠に使えるということ。それを帳消しにするほどの不都合とは。
「いい? この部屋では時間が過ぎないのよ。永遠にお腹が空かないし、動物や植物が永遠に成長することもない」
「凄まじいデメリットでしたね」
僕は納得し、アリエル様の言葉に深く頷く。
たしかに酷い話だ。特に一つ目が。
「ね、だから妖精は生物らしくないの。そんな環境に普通に耐えられるんだから」
なるほど。
変化のない部屋で、耐えられない。それはシャナの時にも思ったことだ。彼女は強い使命感でそれを打ち消していたが、それもなく耐えるとしたら、きっと人間味のようなものはないのだろう。
「でも、あたしには肉がある。それを退屈だと感じて、逃げ出してしまうようなこの肉が」
ならば、たしかに妖精らしくないというのもそうなのだろう。
妖精は、この変化のない部屋でも何とも思わない。いや、何とも思わないかどうかはわからないが、耐えることが出来るのだろう。
「肉があるから涙が出る。感情を抑えられなくなる。あたしが泣いても、誰もここに住む妖精たちは理解しないのよ」
「さっきのはそういうことでしたか」
エインセルたちが理解できないと顔を見合わせていた。それは彼らが妖精であるから理解できなかったのだ。
「あんたも、下手すると一緒よ。素直に泣いたり笑ったりしないと、肉体がある妖精の私よりも妖精らしくなっちゃう。これからは存分に行使しなさい。肉体っていうのは、そういう特権でもあるんだから」
「肝に銘じます」
また諭すようなことを。
しかし、ならば。
「アリエル様は、どうして他の妖精とは違うんでしょう」
他の妖精といっても、僕はアリエル様以外にはエインセルたちしか見ていないが。
「発生したとき、たまたま近くにあった魔物を囓ったのよ。美味しそうだったから」
「……気持ちはわかりますけど、それだけで?」
「そんなもんよ。もちろん、その一口だけじゃないわ。それからも、壁に飲まれてくる魔物たちを食べて、そしてゆっくりと肉体を作っていった。故にこの美ボディよ」
しなをつくり、アリエル様は妖しく……多分妖しく笑う。起伏も何も見えないが。
そうだ。
「壁に飲まれてくる魔物たち、という話でしたが、彼らはどうなっているんでしょう。エインセルたちの話では、最初に僕がいた部屋の隣に保管してあるという話でしたが」
「そのままよ。保管してあるのよ。あたしたちの発生のためにね」
こともなげに、アリエル様はそう言った。
僕はその言葉の意味を一瞬図りかね、それからようやく理解した。
「もしかして、先ほど言っていた妖精の発生する思念というのの出所は……」
「壁に飲まれた生き物たちよ。部屋全体に妖精王様が魔法陣を刻んであるから、いずれは妖精たちを想像してくれるわ」
何の気なしに、アリエル様はそう続ける。その澄んだ瞳に、ここに来て初めて、アリエル様が僕とは違う生物に感じた。
「そういえば、あんたが来るちょっと前に大量に新しい生き物が運び込まれてたらしいわね。何かあったの? 追い込み猟に失敗したとか?」
「あの壁は、そういう意味の物でしたか……」
僕の言葉の意味がわからず、アリエル様は首を傾げる。なるほど、本当に別の思考回路を持っているらしい。
「国を巻き込んだ人間の自殺です。かなりの衝撃を与えて、自分ごと壁の前の平原を一掃しようとしました」
「あらあら。大それたことを考えたわね。それで、あんたもここにきちゃったんだ」
「鎮める……多分妖精たちの意味的に考えると、罠を解除するにはそれしかなかったので」
僕は、ここにきて初めて驚いた気がする。
壁の意味。あれが、ただの妖精繁殖用の罠だったとは……。
「あれを作ったのは、妖精たちだったんですか」
「ザッツライト。妖精王様が前に作ったものよ。あんたの時代からだと古代といってもいいくらいに。ていうかあたし、それ系のこと言いふらして回ってたのに定着しなかったのね」
知らないのがおかしい、という目でアリエル様は僕を見る。千年も前の話だ、消えてもおかしくはないが……。
「で、それがどうしたの?」
「一人、老人が巻き込まれていませんか。僕が生きているのなら……」
「お爺さんなら死んでたよ」
「死んだ人なら来ていたよ」
僕が生きているのであれば、アブラムも。そう思ったが、言いかけた言葉は途中で否定された。壁際で遊んでいたはずのエインセルたちに。
「人間は、カラスとそのお爺さんだけ」
「お爺さん、気持ちよさそうに眠ってた」
無表情でそう重ねるエインセルに、僕は目を伏せる。
「そう、ですか」
残念だ。生きているのであれば、まだまだ話してみたいこともあったのに。
「知り合いだったの?」
「ええ。その自殺を図った張本人ですけど」
「……なんだ」
アリエル様はふと笑う。笑える話でもないはずだが。
僕が見返すと、察したのか首を小刻みに振った。
「ああ、ごめんね。その人が死んだのが可笑しいわけじゃないの。あんたが残念そうにしているのが、何となく嬉しくてね」
「それも問題だとは思いますが」
僕が残念だと嬉しい。
……若干喧嘩を売られている気もする。
「違うのよ。あんたも、人の死に何か感じることがある。それが嬉しくてね。知り合いが死んでも本当に何も思わなかったら、あたしはさすがにあんたを見放したわ。ごめんね。あんたは、友達の涙で一緒に泣ける子よ」
しみじみとアリエル様はそう呟くように言う。
「……じゃ、あんたも早く帰らなくちゃね。その『友達』がいる地上に」
「そういえば、ここはどこなんです? 先ほどから、外のことを地上と仰っていましたが……」
「何? 今更? ていうか、上見ればわかるじゃない」
アリエル様は立ち上がり、上を指さす。時間が変わらないこの部屋だからというのもあるだろう。そこには僕がこの部屋に入った時と何ら変わりない、暗闇と微かな明るい点があった。
「何も見えませんが?」
「……まあ、文明の発達していないこの世界じゃそうかもねぇ? この世界にもニューヨークとかロンドンがあればわかったんだろうけど」
トントン、と爪先でまた机を叩き、アリエル様は指を振る。小さく円を描くように。
「サービスよ。時間を進めてあげる。……一日くらいいいでしょ?」
「時間を…?」
どういうことだ、と止めようとする間もなく、アリエル様は指先に光を灯す。
その動きに合わせたように、暗闇の縁が明るくなり、青い光を放ち始めた。
「ああ、やだわ。私も一日歳取っちゃう」
見上げながら呟いたアリエル様の目にも光が映る。青く輝くその光は上からのもので、そこに目を移した僕は言葉を失った。
「ここは……」
目に入るのは、緑と茶色い大地。
そして、それを遮る白い雲。端の地面も白いのは、きっとリドニックの大地だろう。
「妖精の別名を、知らない?」
「ああ、だから……」
見上げる丸い天井いっぱいに広がった大地。そして雲。
それが見える場所は、今の僕には一つしか思い浮かばない。
「昼の世界って本当に綺麗ね。勇者が守った宝物の一つよ」
アリエル様は、少し涙声でそう呟く。
うっとり見つめるその濡れたような瞳に映った地上の景色は、すぐにまた黒い闇の中に消えていった。




