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捨て子になりましたが、魔法のおかげで大丈夫そうです  作者: 明日
戦う理由

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閑話:女たちの挽歌

主人公不在で話は進む。

本当は次の話(作成中)と繋がっていたんですが、長くなったので分割




「そうか。死んだか」

 ヴォロディアは執務室の机に座り、素っ気なく呟く。その言葉に、マリーヤは暗い顔で静かに頷いた。

 机の上に積まれていた書類はほとんどが消え去り、残すは小さな山が二つだけとなっている。昨日まではもっと多くあったのに、と咎める者はいない。気付いていないわけではなく、察しているのだ。昨日、どさくさに紛れて重要そうでないものは処分されたのだと。

 それは事実だ。本来、王の決裁の必要のない書類。そのうち、行動を伴わないただの報告書の類いはほとんどがマリーヤによって処分されていた。

 こういった有事の際、書類の紛失はよくあることだ。そう、皆に暗黙の了解をさせながら。

 ヴォロディアも、書類の山を気にはしない。

 ただ、椅子に座り背もたれに全身を預けて天を仰いだ。


「……まだ、実際には死亡は確認されておりません。死体等が見つかったわけでもなく……」

「北壁に飲まれて生還したなんて話、聞いたことねえけどな」

 力なく、誰にともなく言い訳するように反論するマリーヤの言葉を、ヴォロディアは遮った。

 無関心なわけではない。残念にも思っている。彼個人が死んだのが残念というよりは、人の死を聞いた無念さからではあるが。

 そして、やはり敵対心は残っている。

 あのカラスは、レヴィンの敵だ。芸術品ともいえる見事な剥製を餌に決闘に臨み、卑怯な手段を用いて腕を引きちぎり、その名声を奪ったと聞く。

 ヴォロディアはそれを信じている。だからこそ、初対面で過剰なまでの反応をしたのだ。


 王は笑う。嘲笑うように、悪意に満ちた顔で。

「どうするんだ? 国葬にでもするのか? 命をかけて国を守った英雄様だもんな」

 自分でも、ヴォロディアは気付いていない。その言葉に込められているのは、敵対心。それと、わずかに嫉妬があることを。

 その嫉妬までを読み取り、それでも顔に出さずにマリーヤは首を横に振る。次に出すのは、彼女にとっては不本意な言葉だった。

「いいえ。それは今は難しいと思います。もう少し時間が経てばあるいは出来るかもしれませんが、今は」

 ヴォロディアにとっては意外な言葉だった。あの、カラス贔屓のマリーヤであれば、自分の反対を押し切ってでも強行するだろうと思っていたのに。

「覚えておられますか。最後に、カラス殿は職人の手を癒やしていきました」

「それが関係ある話なのか?」

「ええ。大いにございます。面倒な話でもありますけれど」

 ふう、とマリーヤは溜め息をついた。慣れているとはいえ、政治とは本当に煩わしいものだ。関係各所の顔色を窺わなければ、恩人に対して報いることすら出来ないのだから。

「現在は口止めをしておりますが、その職人が吹聴しておりました。『治療師には癒やせなかった傷を、癒やしてくれた』と。本人に悪気はないのでしょうけれど……」


 むしろ、本当に喜んでおり、そして礼のつもりなのだろう。

 職人にとっては、名声とは報酬であり、次の仕事を得る手段である。金品での礼をしたいとも思っているだろうが、それ以上に、彼の名を広めて礼としておきたかった。


「……何か問題あるのかよ」

「彼は、聖教会……治療ギルドに所属しておりません。今も、昔も。その彼が、奇跡の業の一端を扱ったのです。正式にはまだ名指しもされておりませんが、異端者候補の名簿の端には載ってしまったでしょう」

 真実は、治療師ではないマリーヤにはわからない。しかし事実、そこまでではないがマリーヤは見た。小さい治療師の少女が、彼の話を治療師にした際、その治療師が眉を顰めているのを。

「今、彼を国賓として扱えば、今後の聖教会との関係に少しばかり悪影響があるでしょう。特に、エッセンは聖教会を国教として扱っています。隣国との関係を考えれば、彼を公式に厚く遇するわけにはいかなくなりました」


 本当に、口惜しい。マリーヤは無意識にその色素の薄い唇を噛みしめる。

 時が経てば、噂話として消えてしまうかもしれない。だがしかし、それまでは。


「……レヴィンに、教会に、いろんなとこに喧嘩売ってんだな、あの男」

「本来、そこまで気にする必要はないかもしれません。しかし、今のこの国の状況では、小さな瑕疵も後にどんな影響を及ぼすかはわかったものではありませんので」

 騎士団員にも、死傷者は大勢いる。しばらく魔物の脅威がなくなったとはいえ、仮に今戦争が起きれば抗うことすら難しい。

 官吏たちはよくやってくれたとマリーヤは思う。もしも、混乱した避難民がそのままエッセンやムジカルに流出してしまえば、それだけでそれらの国がリドニックを接収しにかかってきてもおかしくはなかった。


 執務机に、マリーヤは拳を叩きつける。その音に、ヴォロディアは驚き跳ねた。

「民はカラス殿のことを知りません。騎士団や職人への口止めは済んでおり、これ以上噂が広まることもないでしょう。だから、今は政治的には無視するのが正しいのでしょうね」

「……おい、そんな」

 ヴォロディアは怯えながら、マリーヤを宥めるよう空中で手を泳がせる。傷もないのに、頬に焼け付く痛みが走った気がした。






「ぬあぁぁ! 邪魔をするなぁ! ……っ!」

 スティーブンの顎にグーゼルの拳が入り、仙術が込められた拳は速やかに対象を眠りに導く。抵抗も出来ず、パタンとスティーブンは寝台に倒れ伏した。

 その白目を剥いた顔を見て、グーゼルが溜め息をつく。

 スティーブンが目を覚まし、寝台から起き上がろうとするたびに、グーゼルが殴って止める。午前も半ばを過ぎた頃から、もうこの繰り返しだった。


 その、スティーブンが走ろうとする理由は簡単だ。

 あの魔法使いが、北壁に飲まれたなど信じない。どこかでまだ、生きているかもしれない。だから、探しに行きたい。


 もちろん、そんなことはさせられない。魔物がいないとはいえ、寒さも雪も変わらず残っている。闘気しか扱えず、そしてその闘気の持久力も老いて衰えてしまっているスティーブンには荷が重い。

 故に、何度も何度もグーゼルに止められていた。


 無様なその姿。本来ならば、迷惑な話である。スティーブンが諦めない限り、グーゼルもここに拘束されているのだから。


 だがしかし、グーゼルは内心感謝してもいた。自らの手を煩わせて、ここに拘束するスティーブンに。

 本心は、グーゼルもスティーブンと同じなのだ。この目で見なければ、納得できない。したくない。あの少年が死んだなどと。

 グーゼルも、北の平原に捜索に出向きたい。本当は死んでおらず、どこかで気を失っているだけではないだろうか。そう信じたい。だが、恐らくそうでないことも知っている。北壁から生還したものなどグーゼルの知っている限りこの世にはいない。


 今は、無謀な捜索に出ようとするスティーブンを抑えるために、この城にいる。ここで自分が抑えていなければ、きっとスティーブンは北の平原から山脈を越え、北壁まで行こうとしてしまう。そうなっては困るから、自分もこの城に残らなければいけないのだ。そう、強引に自らを納得させていた。


 スティーブンの寝顔が歪む。顔の皺を更に深めて。

 むにゃむにゃと口を動かすのは寝言だろう。聞かない方がいい。そうは思いながらも、グーゼルは意識をそらせない。

「……若いもんが……」

 もう一発殴ってしまおうか。更に深く昏睡させれば、寝言すら吐かなくなるだろう。しかし、それをしてしまえば永久に目が覚めなくなるかもしれない。それはさすがに困る。

 だから、その言葉は耳に入れなければならない。

 グーゼルは、懐から青い欠片を取り出して、いじりながらそれに意識を向けようとした。だが、出来なかった。

「若いもんが死ぬなんておかしいじゃろ……」


 スティーブンが閉じた瞼を震わせながら口にした言葉。グーゼルもそう思う。

「……うっせえし……」

 自分だってそう思う。死ぬのは年長者から。それがこの世の常であり、そうでなければいけない。不老の体を持つ自分は例外としても、年長者が天寿を全うできるように、若い連中が魔物に襲われ死なないように、戦い続けてきた。


 乾いた笑いが出る。

 そうして戦い続けてきたから、若者が死んだ。友人になりたいと思った少年が、自ら死を選ぶような状況が作られてしまった。

 アブラム一人が悪いわけではない。きっと、責任は自分にもある。


 大きな体を小さく丸め、グーゼルは椅子に座り込む。握りしめた拳の中で、皮膚に青い欠片が食い込む。

 早く目を覚ましてくれ。殴らせてくれ。そうして気を紛らわせなければ、耐えられない。

 グーゼルは乱れた長髪を掻き毟り、それから両手を下げて、項垂れた。



 静かになった部屋に、扉を叩く音が響く。

「どーぞ」

 グーゼルが声をかけると、それを待っていなかったような間で扉が開いた。

 隙間から滑り込むように入ってきたのは、マリーヤ。その沈んだ顔に、グーゼルは顔だけ向けて用件を尋ねた。

「報告があって参りました」

「おー。なんだよ、そんなかしこまってよ」

 唇だけを歪めた、自嘲するようなグーゼルの笑み。だが、その顔が、マリーヤには痛々しく見えた。

 そんなグーゼルに報告するようなことではない。しかしあとで伝わればそれはそれで、その時怒りの顔を覗かせるだろう。そう思ったからの報告だ。けして、緊急でも、重要な用件でもない。

 けれど、マリーヤの喉は動かない。言葉にしてはいけない。そんな雰囲気が感じ取れた。


 しかし言わなければ。唾を飲み込み、グーゼルに対し、出来るだけ平静を保って口を開く。

「国葬は明日、正午と伝えておりましたが、そこは変更ありません。全ての戦死者合同で行われます」

 グーゼルは頷く。そうだ、それはもう聞いている。だが、ここで報告に来たと言うからにはまた別の用事があるのだろう。それも、自分に関わりのあるものが。

「ただ、少し変更が……。……戦死者名簿にアブラム殿、カラス殿の名前は載せず、しかし他の戦死者と同等に弔う、と」

「……そうかよ」


 一言だけの返事。本来は、グーゼルもここで抗議の言葉を返したい。

 アブラムはいい。今はまだ一部の人間にしかアブラムの犯行だと伝わってはおらず、発表も伏せられているが、やはり重罪人だ。扱いも難しく、別の下手人を仕立てる案すら上がっているが、それでもここで名簿に入れるのは難しい。


 だが、問題はもう一人のほうだ。

 かの少年は騎士でもなく、そしてこの国の人間ですらない。彼は探索者で、戦い自体はするだろう。けれど、それは正当な報酬を約束してのことだ。

 彼は、この国で戦う理由などなかった。逃げてもよかった。なのに、ただの善意で、自分の身を助け、そして波にその身を捧げた。捧げてくれた。

 その彼への処遇としては、やはり足りない気がする。


 けれど、騎士たちに対する兼ね合いもある。

 彼らも、その命を国に捧げた。自分のせいで起きた争乱で、その命を散らしてしまった。

 同等扱いも仕方のないことなのかもしれない。

 彼がいなければこの国が滅んでいたということを、差し引いてしまえば。


 そして、ただ一つだけ気になっていることがある。しかし、きっと何か意味があるのだ。政治に疎い、自分にはわからない意味が。

「……何で、戦死者名簿に載せないのかはあたしは知らねえ。でも、それはあいつに対する正当な評価なん?」

 その言葉に、マリーヤはわずかに俯き表情をさらに沈める。マリーヤも納得していない。それを知って、少しだけグーゼルも溜飲が下がった。

「……正当ではないでしょうね。しかし、彼を国葬にしたという事実が残るのはまずいのです。それを押し通すほどの力は、今のこの国にはありません」

「あの、最後に治してったあれか」

 直接言われなくとも、それだけで大方の事情をグーゼルは察する。それに応えるよう、マリーヤは小さく頷いた。


「よかったじゃん。報酬の問題とかなくてさ」

「……それはもとより問題ないでしょう。カラス殿は、友人である貴方に応えて、力をお貸し下さったのです」

 マリーヤは、準備していた言葉を吐く。自分でも驚くほど、素っ気ない声音だった。

 グーゼルはその顔を無言で見つめていた。

「問題があるとしたら、スティーブン殿でしょうか。月野流のご当主。この国での活動への添え状で何とか出来ればよいのですけれど」

「……あの、エッセンのど偉そうな奴らは?」

 ウェイトとプロンデのことだと、マリーヤはそれだけで察する。もとより、他の候補もいないのだが。

「彼らには、不要だそうです。先ほどプロンデ殿に断られました」

「そうなんだろうなぁ」

「曰く、『自分たちは今イラインで休暇を満喫しているはずだからいらない』だそうです」

 むしろ、その言葉を真実として扱うことこそ報酬になるだろう。

 謙虚なことだ。そう、グーゼルは思った。 



 力なく椅子に座り直し、それでも軽い口調でグーゼルは天を仰ぐ。腕を足の間にだらりと垂らし表情を緩めた姿は、マリーヤには気の抜けた紙風船のように見えた。

「あー、やだなー、本当にきんきらきんの奴らってのは面倒くさいや」

 しかし、マリーヤは思う。きっと、わざとやっているのだろう。この女性は、そういうところは気を遣うことが出来る。

 だから、意識して表情を緩めてクスリと笑った。

「その通りだと思います。意地や体面、そんなことに気を遣わなければ、もっと多くのことが出来ますのにね」

「……やりたいことやりゃあいいんだよ。あたしも、お前も、みんなも」

 

 グーゼルは大きく伸びをする。今まで締め付けていた何かを取り外すように。それから、大きなあくびをした。昨日から、寝ていなかった。

「はしたないですよ」

「あたし、お前みたいに気ぃ遣わなくてもいい立場だし」

 マリーヤも本気で咎めているわけではない。それをわかっているから、グーゼルもそれを受け流す。

 そして再度、青い欠片を握りしめ、それからマリーヤを見た。


「なあ、カラス、死んだと思うか?」

 その質問に、マリーヤは一瞬戸惑い、それから唇を締める。どちらの返答が良いか。それを考えてしまうのは悪い癖だとわかっているのに。

「きっと、死んだのでしょう」

 白い手首を自らの手で握りながら、マリーヤは言う。けれどそれを、グーゼルは笑い飛ばした。

「あたし、やっぱそうは思えないし。生きてんじゃね? そんで、落ち着いたら普通に帰ってくるよ。『なんにもありませんでしたよー』っていう、澄ました顔でさ」

 マリーヤは目を細める。たしかに、そうであってほしい。何日かの付き合いしかないけれど、知人が死んでいなかったとすれば、どんなにいいことか。

「しかし、あの北壁に飲まれたのです。奇跡でも起きない限り、助かる見込みはないでしょう」


 アブラムの実験資料に目を通した今ならば、そんなことは起きないと知っている。壁は消退した。ならば、それは誰かが飲まれたからで、そしてその飲まれた誰かはグーゼルかグーゼルに匹敵する魔力の持ち主でなければならない。

 スティーブンとウェイトの証言では、複雑に巨大化した白煙羅も飲まれたそうだ。しかし、彼らも増えたとはいえもとは平原の魔物だ。そう大きな効果は期待できないだろう。


 グーゼルもその資料は読んでいた。アブラムが自分の死を前提に計画を立てていたことを再認識し、また肩を落としていたが。

 けれど、まだグーゼルは希望を捨ててはいない。何の関わりもない奇跡が、目の前で起きていたのだから。


「奇跡ってさ」

 グーゼルは手の中の青い欠片をマリーヤに渡す。何とも言わずに渡されたそれを、マリーヤは困惑しながら受け取った。

 そして、手の中を見て驚愕する。

「案外簡単に起きるらしいし」


「これを、どこで……!?」

 マリーヤは大きな声を出す。偽物かとも思った。けれど、グーゼルがそんなことをするはずがない。ならば、これは一体どういうことだろう。


 この、今自分の手の中にある、半透明の青い煉瓦の欠片は……!


「塞室の壁をぶっ壊したときに、ついでに足下も壊れてたみてえだな。あたし未だに壊せないのに」

 けらけらと笑いながら、グーゼルは補足する。あの後発見したときには、グーゼルも驚き叫んだものだ。

「でも、出来たんだし。建国以来壊れたことのねえ建材が、割れた。これは奇跡だろ?」

「……錬金術師の連中は、何をしていたんでしょうか……」

 驚愕に、マリーヤの力が抜ける。それでは、あの多額の予算を使っていた研究は何だったのだろうか。簡単に、ではないが、壊れたのに。


 実際には、カラスにも容易なものではない。

 いくつもの条件が重なってようやく、出来るかどうかわからないところまで持っていける行為だ。

 しかしそれがこのとき起きたのは、まさしく奇跡としか言い様がないものだった。

 誰も、それが起きることなど予期してはいなかったが。


「……だから、奇跡は起こるんだよ。あたしは、あいつがひょっこり戻ってくると思ってるし」

「そうです、そうですね。そうかもしれませんね」

 未だに信じられない。が、それでも手の中にある冷たい感触は本物だ。

 

 それをマリーヤも握りしめ、痛みを感じて手を開いた。割れた欠片の先は鋭く、このまま刃物にでも出来そうなほどだ。

 しかし、その痛みは気にしない。


「それにしても、グーゼル様も、カラス殿に随分とご執心ですね」

 からかい混じりにそう呟く。きっと本当は自分も。そこまでは口にしなかったが。

「……二日三日の付き合いだったけどな。それでも、久しぶりに友達になれるかも、と思ったんだし。しゃあない」

 マリーヤの、『グーゼル様も』という言葉を深く追及せず、グーゼルは肩を回す。

 そろそろスティーブンが起きる時間だ。その準備をしておかなければ。



 しかし、スティーブンが起きるより先に、異変が起きる。

 部屋の外、廊下の遠くで音が響く。明らかな緊急事態。それを受けて、跳ねるようにグーゼルはそちらを見た。

 マリーヤも、事態の把握は出来ずとも何事か起きたことを察した。

 二人は顔を見合わせる。

「マリーヤはここにいろ」

「はい。スティーブン殿は……」

「適当に話して宥めといてくれると助かる」

 力では到底適わないが、それでも会話が出来ればマリーヤなら何とかなるだろう。そう自らを納得させ、グーゼルは勢いよく扉を開ける。

 駆け出す先は、先ほどの音のほう。緊急事態で、しかもこれは、事故などではないだろう。


 今のこの、みんながクソ忙しいこの時に!

 グーゼルの足に怒りが籠もる。だがその怒りも、現場に到着したときには戸惑いに変わってしまった。





 時は少し巻き戻り。

 プロンデは咳き込むウェイトを適当にあしらい、一人先んじて城の廊下を歩いていた。

 その頭は思考に満ちている。さて、これからどう動こう。とりあえず、現状はこれで終息するだろう。追っていたカラスは消え、そしてレイトンもどこかに消えた。これならば、ウェイトも帰ることに異論はないはずだ。

 ならば、それからは。自らの裁量で、どう動くか。


 帰ったところで、これからはまたミールマンでの駐屯の日々だ。

 一応団長へ報告をして、それからは。


 今回のアブラムの件で、学んだことがいくつもある。

 いや、知ってはいた。けれど、実感としては薄かったと思う。

 そして、実感した。

 この社会には、知らずに見捨てられている者たちが、大勢いる。


 アブラムがまさにそうだった。

 紅血隊員として、誰からも顧みられずそれでも命をかけて戦い続けてきた。誰かがその彼の悩みに目を向ければ、あるいはこんな事件は起きなかったかもしれないのに。

 原因は明白だ。彼は、外見上、恵まれていたから。国家直属の専門部隊紅血隊。皆から羨望の眼差しを受ける立場だ。そして、グーゼルからの信頼も厚く、社会的にも問題がないように見えた。一見すれば。

 しかしその内実、ずっと我慢を重ねていたというのに。


 この社会には、知らずに見捨てられている者たちが大勢いる。

 そうだ。罪を憎み、悪人を裁くのであれば、彼らにもきちんと目を向けなければ。


 プロンデは踏み出す足に力を込める。

 自分は聖騎士。法を司り、人の上に立つ存在。

 ならば、虐げられる弱者は守らなければならない。聖騎士の持つ法の執行権は、任務中に起きた紛争の速やかな解決のためのものだ。けれど、悪を裁くことは出来る。それは変わらない。何ひとつ変わらない。

 だがその上で、もう一つ芽生えた感情。

 この社会には、見えない弱者が存在する。虐げられ、砂をかけられ、唾を吐きかけられても我慢するしかない存在が。

 ならば、その弱者を見つけ、守ることこそ民の安寧のために必要なことだろう。


 好んで悪を行う者もいる。そんな者たちは、迷いなく断罪しよう。

 だが、弱者故に仕方なく悪に墜ちるのであれば。

 その前に救うことも出来るはずだ。悪に手を染めず、生きていけるように。


 もちろん、聖騎士にそんな権限はない。

 執行権は、明らかな罪状を持つ相手に対し、法を適用し裁くという限定的なものだ。

 けれど、そのために、人々を救うために使うのであれば。

 そのために使うのであれば、躊躇はしなくていいだろう。濫用の誹りは甘んじて受けよう。

 プロンデは鼻から息を吐き出す。

 彼は今、真に決意した。

 今までウェイトの後を歩き、彼の補佐をしてきた。けれど、それでは足りなかった。

 自らの心の正義に従い、出来ることをする。もちろん、間違いなどあってはいけないのだ。けれど、慎重かつ大胆に、果断にこの職務を全うしよう。そうしなければいけない。

 そう、決意した。




「何か良いことがあった顔だね。そんなときは、まず足下にご用心だよ」

 斜め後ろから声をかけられ、プロンデは慌てて振り返る。胸中にあったのは、純粋な驚きだった。

 自分が歩いてきたのは一本道。話しかけてきた女性は、白い外套などという目立つ格好。

 なのに、通り過ぎた今の今まで気がつかなかった。

 どういうことだ。

 反応するよりも先に、違和感と驚きが胸中を支配する。無意識に、腰の剣に手をかけてしまうほど。

 だがそれも過敏な反応だろう。プロンデは努めて平静を取り戻し、どうにかして言葉を絞り出す。

「……申し訳ないが、初対面らしい」

「そうだね。私は貴方の活躍を見ていたけれど」

 女性は、フードを払うように脱ぐ。金の髪が、パサリと広がった。

 

「私はプリシラ」

 その柔和な笑みにプロンデは見とれそうになる。けれど、それ以上に警戒していた。

「占いが生業なんだ。ちょっと話を聞いていかないかい? プロンデ・シーゲンターラー殿」

 握手のために、プリシラが手を差し出す。


 何故かはわからない。しかしプロンデは差し出された手を、握れなかった。




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― 新着の感想 ―
[良い点] ここから400話先までズッと読んでスティーブンの戦力をわかった上で改めてこのパート見てみると暴走する爺ちゃんを秒で黙らせるグーゼルってマジで国一の最強戦力だったんだなってわかって良いですね…
[一言] 騎士は基本的に強きを助け、弱きを挫く存在だから今のままでもいいと思うけど。
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