息をしてはならぬ
最初に動いたのはアブラムだった。
と、と短く地面を蹴り、十歩ほどの距離が一瞬にして縮まる。
僕の頭を狙った、拳による正確な打撃。
それを横に大きく避けて躱すが、それでもなお僕の顔面を何かの衝撃が叩いた。
「っ……!」
「時間もない。問答は不要であるな」
衝撃に頭を揺さぶられるが、足を踏ん張りこらえる。これは、魔法……ではなく、仙術か。
しかし、仙術の特徴だろうか。残心が長い。
僕が体勢を整えるのに時間を使っても、その腕は伸びたままだ。一瞬であるが、それでもそれは大きな隙となる。
その腕をとり、肘を固めながら抑えようとする。
だが、極まらない。
「ほっ!」
アブラムの身体が宙を舞う。その場で前宙をするような動きで、回転する。勿論腕を取った僕ごと。
「のわっ……!!」
僕の身体が、持っていた腕ごと回転する。吸い付けられたかのように手が離せないのは、仙術などではなく体術の問題だろう。
反転する視界。そのまま肘ごと叩き落とされそうになるものの、アブラムの胴を蹴り飛ばし回避する。
蹴り飛ばしたつもり。しかしまるで大きな木の幹を足場にしたように、僕の身体が跳んだ。
着地し向かい合い、一息吐く。お互いに予想以上だったのか、唾を飲む音がほぼ同時に聞こえた。
アブラムの目を正面から見据えれば、その目が重さを持って僕を見つめた。
「…………」
「……何故、こんなことを?」
今度は飛びかかってこない。その泣きそうな顔に向かって問いかけると、アブラムの唇が緩んだ。
「それを聞いてなんになる? もう既に、ことは起きた。その理由を問うには遅すぎるであろう」
「答え合わせがしたいな、と思いまして」
話しながら息を整える。乱れた呼吸では駄目だ。今なお息を全く乱していないアブラムと、今の攻防で少しだけ呼吸が乱れた僕。今のところ負ける気はしないが、けれど、今の時点で少し差はある。
その呼吸に乱れがないのは仙術の影響もあるだろう。けれど、その動きに迷いも少し見える。まるで、何かを考えながら立つ位置を決めているような。
つまり多分、何か策があるのだ。仮にもこの国の最高戦力の一人。それが張った罠だ、生半可なものではあるまい。それに対応できるよう、万全にする時間がほしい。
「……答え合わせか。なら、まずお前の答えを聞かなければな」
乗ってきたか。
僕は内心の動きを悟られぬよう、出来る限り表情に出さないよう返す。
「貴方はヴォロディア……王に賛同している。国民の意見で国が左右され、国民自身が戦うという思想に。そしてそのために、紅血隊、特にグーゼル殿を排除しようと動いた。違いますか?」
「……概ねその通りだ。これで満足か?」
僕の問いに素直に頷き、アブラムは応えた。その表情は少しだけ苦いようだったが。
「概ね、というのは銃のことに関してでしょうか」
「そこまでわかっているのであれば、答え合わせも必要あるまい。そう、ついでに銃を使う機会を用意してやった」
ゆっくりと僕の立ち位置を調節する。アブラムの策の間合いを測るために。
それに合わせてだろう、アブラムも少しだけ身体を動かす。距離というよりも、位置の問題か
おそらく砦と自分と僕を、一直線に並べないようにしている。
何か飛び出してでも来るのだろうか。
「あの銃は、魔物には通用しませんよ」
「まあ、そうであろう。運用的には弓と同じようなものだ。速射性に劣り、轟音が付加されているだけの」
魔物に通用しないという言葉には同意する。ヴォロディアよりもその辺りは深く見ているらしい。当然か。今まで戦い続けてきたのは彼らなのだから。
「速射性に劣るというだけでも酷い問題だと思いますけどね。あの銃、一発撃つまでに矢五本は射れますよ」
「その分、音が出る。そういった運用に関しては、これから錬磨していけばいいのだ。失敗もなしに進歩できるなど、虫のいい話はすまい」
僕が、立ち位置の問題に気がついたことを感づいたのか、アブラムが話をやめて雪を蹴る。
目潰しだろうそれを手で払うと、正面から掌が僕の頭に押しつけられた。
アブラムが気合いの息を吐き出そうと口を開く。
何をするかはわからないが、多分当たればただではすまないだろう。
当たれば、だが。
「目潰しに乗じた奇襲。レヴィンとおんなじですね」
それはまあ、偶然だろうが。
アブラムが息を吐く前に、その手を引き剥がすように持ち握りつぶす。ついでに肘を返しながら、僕の肘で上へと押し上げる。
鈍い音がした。
「ぐ、ぁ……!!」
アブラムが悲鳴を上げて飛び退く。それに任せて手を離すと、アブラムが低い姿勢で腕を押さえた。
左手で、右の上腕を押さえる。そこから下は明らかに力が入っておらず、肘は新たな突起が形作られ、手に至っては細く変形している。
「右肘関節損傷及び脱臼。全手根骨の複合骨折。……もう、降参してください」
「……治療師のようなことをいうな」
低い声でアブラムがぽつりと呟く。脂汗が額を伝う。前髪は固まり、額に張り付いていた。
出血はしていない。だが、痛みは想像したくないほどだろう。
闘気を使っていないから内傷にはならないだろうが、それでも。
「ここで私が屈すれば、グーゼル様を救出するのだろう?」
「……そのつもりです。彼女は、これからのこの国に必要です」
アブラムの苦痛に喘ぎながらの言葉に僕が応えると、覆面の向こうに輪郭だけ見えた唇が笑顔に歪む。その目は一切笑ってはいなかったが。
左手で揉むようにして、アブラムが自分の肘を曲げる。本来曲がるべきだろう方向ではあるが、余計な骨が突き出して皮膚を押し上げた。明らかな損傷。奇怪な見た目だった。
「……その顔、その目。それをしているお前には、私は負けるわけにはいかない。グーゼル様は、この国のためにここで死ななければいけないのだ。お前と同じく」
「もう、戦えないでしょうに」
先ほどと同じように、アブラムは構える。右構えなのは、左手を温存しているからだろうか。右のその肘は奇妙に変形し、手も畳まれているように変形したまま。
「忘れたのか。私は紅血隊。六十年もの間、私はこの身を命の危機に晒してきた」
苦痛にアブラムの息が乱れる。
それから深く息を吸い、もう一度吐いて、覚悟を決めたように目を見開いた。
「腕一本。安いものだ」
フウフウと息を切らしながら、目を血走らせながらアブラムはそう嘯く。
その砕けた右手が、震えながら強引に握られ、拳の形となる。
「無理はしないほうが……」
「弱者の意地、貴様らにはわかるまい!」
アブラムの拳が迫る。先ほどと変わらない勢いで。
だが、流石に痛いのだろう。その動きは精彩を欠き、簡単に躱すことが出来る。仙術の追加効果すらない。
数発躱し、最後の大ぶりの拳を払う。空いた腹部に蹴りを入れた。
木綿色の覆面に赤い液体を付着させながら、アブラムは下がった。
「もう、無理でしょう。先ほどまでならまだ可能性はありましたが……」
「ならば私を叩きのめし、強引にねじ伏せればいい!」
左の手刀ををくぐり抜ける。
掠った背嚢を支える肩の紐が切られ、背嚢が落ちた。
くぐり抜けた姿勢から起き上がる勢いで、掌底をアブラムの顎の下に当てる。だが、流石に硬い。まるで大地に根を張ったように、跳ね上げることはおろか持ち上げることも出来なかった。
「……それとも、殺すか? はは、今ならこの喉を引きちぎれば殺せるぞ」
「そうしますか」
挑発だと思う。多分、殺せないと高をくくっているのだろう。
だが、その挑発は僕には意味を成さない。もう、僕は何人も殺してきた。
足に力を込めて、手をアブラムの喉へと滑らせる。
しかし、挑発に乗ったのは間違いだったらしい。わずかに浮かせた僕の手は左手で下に押され、それからついでとばかりに腹部に蹴りを入れられる。
衝撃を、宙を飛んで逸らす。けれど、強く鈍い痛みに、僕の顔が歪んだ。
「はははは、これで溜飲も下がるというもの。そうだ。誰でも、怪我をすれば痛いに決まっている。戦いは、痛い。そして……」
着地した僕の背後に回り込むように、アブラムが歩を進める。
その左拳が僕の腹部に追撃を加えるために動く。
反射的に後ろに跳ぶ。
だが、今度はきちんと雪を踏む前に、アブラムがもう一度動いた。
「このときを待っていた!!!」
力強い踏み込み。左手はフェイクだったらしい。
砕けた右手が僕へと伸びる。
間合いの広い刻み突き。僕の顔に届きそうな。
空中で両腕を合わせて防ぐ。しかし、今度は仙術が込められていたらしい。
防いだ腕と拳の間に、不自然に生じた反発力。僕の身体が弾き飛ばされる。
危機による反射的なものだろう。引き延ばされた感覚の中、前方へ流れる景色。後方へ弾き飛ばされ、背中で石の壁を突き破ったのが感じられた。
石の割れる音。木の柱が砕ける音。
視界の速度が戻り、背中で床を擦る。
受け身を取り切れず、吐き出された息を取り戻そうと強引に肺を動かした。
「カラス、駄目だ……」
近くでグーゼルの声がする。やはりいた。そして、生きている。
しかし、その力ない声はどうしたことだろうか。
そちらを振り向こうとした。
けれど。
「ふはははは……! 読み切ったと思ったのか? 戦いの年季ならば、優に貴様の五倍は超えている。強者はこれだから弱い! 罠を読んでいても、簡単に引っかかる!!」
アブラムの、高揚した声が外から響く。
だが、そちらに顔を向けようとしても、力を込めなければ首が動かなかった。
「……毒……?」
まさか、そんな。魔法使いの僕に効く毒など……。
「さて、最大の障害は取り去られた。<狐砕き>カラス。お前も、贄となるのだ。北壁を鎮めるためのな!!」
身体が重い。動かない?
アブラムの言葉よりも何よりも、その困惑が僕の頭に溢れていた。




