閑話:逃げて
SIDE:逃げてく動物
この話は違う場所に移動させるかもしれません。
また一つ、千切れた足を捨てる。
白い雪原に点々と落ちる血の滴。残った足に引きずられていく血の跡。
鮮血に染まったこの体も、もうそろそろ捨てなければ。
白い人間の群れ。そうとしか見えないほどの北壁の波。
それを背に、魔物達が疾走していた。
狐や犬。手足だけが黒い大きな猿。そんな様々な魔物達が、息を切らして駆けていく。
背後に迫るは白い手。白い足。そして白い顔。
声にならない叫びを上げながら、遮二無二彼らは空を掻き毟る。その歯のない口で何かを食いちぎろうとし、少しでも遠くへ行こうと足を伸ばす。
魔物達は、それがどういうものかはわからない。
しかし、本能がそれを知っていた。
これは、近づいてはいけない。触ってはいけない。触れたら最後、もう何も食べられなくなる。この雪原で代を重ねて培った、遺伝子に刻み込まれたその記憶に逆らおうとするものは少ない。
故に、皆走る。
必死で、振り返らずに。
振り返れば足が止まる。足が止まれば手に捕まる。手に捕まれば最後、その先はもはや暗く白い闇の中だ。
足下を走る小さな鼠は、本来その狐や犬たちの餌だ。
大事な食糧。しかし、今は構っていられない。そこで気をとられ、速度を落とせばもはや何もわからぬ闇の中に落ちてしまう。
魔物達に、本来先を予測するような知恵はない。けれど、ここで正しい選択をするだけの知能は、本能とともに育っていた。
その魔物の群れの中に、一頭の白く大きな犬がいる。
しかし、その様はどう見ても万全ではない。凍った足は疾走の衝撃に耐えきれずに砕け、寒さによる損傷で、その鼻はかろうじて顔にくっついていた。
まるで、走る死体。
だがそれは比喩などではない。
走るのは、死体。まさしくそれそのものだった。
息もなく鼓動もなく、目も白く濁る彼が走るのは、自らの意思ではない。
また一つ、足が千切れる。痛みはなくとも、その体の損傷はわかる。
もうそろそろ限界だ。その体を動かす主は、そう感じ取った。
その感覚器官はまるで霧のよう。犬の口から白い気体が漏れる。
あたかもその先端に目が付いているかのようにそれを動かすと、やがて一頭の犬が目に留まる。
その犬は、自らが品定めされているなどとは考えない。彼も必死だった。彼も、今背後から迫る壁から逃げるため走っているのだから。
ちょうどいい。
死体の口から伸びる霧が、より濃く、細くなる。
必死で走る犬に併走するよう、死体が徐々に近づいていく。
その魔物達は本体単独行動する種ではあるが、今は非常事態。
半ば群れのようであり、近づいてくる者がいても気に出来ない状態だった。
故に、その犬は気付かない。
隣を走る犬が、一切の呼吸をしていないことに。
隣を走る犬が、腐臭を発していることに。
その口から出ている鋭い霧の槍が、こちらを向いていることに。
「ギッ……」
一瞬のことだった。
霧が刺し貫くは犬の心臓。声を出す間もなく、その白い胸に穴が開く。
溢れ出る血。しかしその足は止まらなかった。
代わるように、死体の足が崩れる。あたかも力尽きたかのように、群れから脱落するかのように、疾走をやめて倒れ伏す。
誰も、それを気にしない。
誰も、それを気にすることが出来ない。
貫かれた犬の足は止まらない。
息は絶え、心の臓が止まっても、その走りを止めることはない。
ずるん、という音が似合う動きで、霧が胸の穴に入り込む。
霧は、乗り込んだ犬の体を制御する。
しばらくはこれでいいか。そんなふうに思いながら、その疾走を止めさせない。
白煙羅。
リドニックの雪原を徘徊する白い煙。または霧。
彼または彼女はそう呼ばれていた。
彼らは明確な境界を持たない。
空気中にあるうちは、ただの白い煙の状態で、自ら動くこともほぼ出来ない。
ただ風が流れるに任せ、雪原を浮遊し徘徊するだけのか弱い存在だ。
仮に風に吹かれて集まれば混ざり合い、一つの個体になる。一つにまとまるというある種の表面張力のようなものはあるが、風に飛ばされれば分裂する。
しかしその煙に巻かれた途端、そのか弱い存在は牙を剥く。
彼らはその煙に侵入した構造物に入り込む。
その構造物は、生死や生物であるかを問わない。死体でも生体でも一定以上の複雑な構造を持ったものであれば彼らは侵入する。
その目的は簡単なものだ。
移動と増殖。およそ生物であれば求めるであろう能力の獲得だった。
彼らには、入り込んだ構造物を自らの身体で満たし、各部位に機能を持たせる能力がある。それは乗っ取った身体の操作という単純なものではない。その消化器官を強制的に蠕動させ、運動器として使うこともある。各血管を行き来する自らの煙の身体で複雑な回路を生成し、わずかばかりの思考能力を得ることもある。
思考能力が芽生えれば、その煙を硬質化し武器にするという知恵も芽生える。
風に任せてではなく、自らの手足を使って動き回るようになる。より大きな構造物を殺し、その身体を乗っ取るように。
彼らは、生物以外にも入り込むことがある。
幾つもの引き出しがある戸棚。リドニックでも珍しい時計。部屋が分かれた馬車。その程度の複雑さがあれば、入り込むことが出来る。
当然、そうなれば移動は出来ない。けれど、移動を考えなければ彼らにはそれで充分だ。
彼らはその構造物の中央部に擬似的な核を作り出す。風に吹かれているときには散らされてしまうため、作れないもの。栄養素の貯蔵庫である。
その核に栄養を溜め、空気中の栄養素を吸って増殖を始めるのだ。
やがて溢れ出た霧は、ある程度の大きさになると切り離され、子供として旅立っていく。
そしてその子供がまた風に漂い、依り代となる構造物を見つけると乗っ取り核をつくりまた増殖する。
永遠に続くその連鎖。
それが、白煙羅の涙ぐましい生存戦略だった。
依り代となる構造物の生死は問わない。生物か非生物かも問わない。
けれど、やはり生物である以上彼らにも制限はある。
自らの身体を押し込めるだけの大きさが必要で、そして自らでその中を満たすことが出来るような小ささが必要だった。
知能が芽生えた白煙羅は、そのために獲物を吟味する。
手近な存在を殺し、入ってみてその居心地を確かめる。
ヤドカリが殻を探すようなその行為。
ただ殺し、食べるわけでもなく眼鏡に適わなければ死体を放置するその行為。
白煙羅はか弱い存在だ。自らの手足を持たず、思考能力を持たず、ただ風に任せて浮遊し徘徊するか弱い生き物。
だがその行為は、やはり人間達にも恐れられていた。
犬に潜り込んだ白煙羅が、急速に増殖を始める。
犬の死体に呼吸をさせて、空気中の栄養素を取り込みはじめる。
生きなければ。
こんな小さな身体では駄目だ。
もっと大きく、そしてもっと複雑な何かが必要だ。
白煙羅の本能がそう理解し、直ちに行動を始める。
もっと、大きく、もっと堅牢な身体がほしい。
そのためには、増えねば。もっと、もっと。
数分のうちに、犬の身体の表面にまとわりつくほど増えた白煙羅。
早く、次の獲物を。
触手のように何本も伸ばされたその霧の身体で、次なる獲物を探し続ける。
走る魔物達は気付かない。
背後の北壁の波と同じくらい怖いものが、すぐ隣にいることに。
白煙羅が触手の先の目をある方向へ向ける。
彼、彼女は見つけた。次の獲物を。
雄の氷獅子。その雄々しく強い身体。
いいな。次はその身体を。
そうしている間にも、発達し続ける白煙羅の知能。
その触手が、舌なめずりをした。




