罅は広がり
慎ましやかなノックの後、返事も聞かずにマリーヤは扉を開く。
僕もプロンデも、マリーヤの接近には気がついていたのだ。突然開かれても驚きもしなかったが、やはり礼儀というのは必要だ。全てにおいて。
「おまたせしました。細かいことは未だ調査中ですが、とりあえず今わかったことをお伝えします」
「……ああ」
「今朝方この城にアブラム様が入られたことが確認されました。しかしごく短時間で帰られたようで、ひとまず城にはおりません。ただ、出入りの業者から目撃情報はありました」
「目撃情報……」
大事な情報だが、若干期待は薄い。どこで誰に目撃されたとしても、既にその場所は立ち去っているだろう。
しかし、やはり大事な情報ではある。
「昼前頃。スニッグ北側にある食堂で、六人分の食事を包ませていたということです。こちら、簡単な地図でございますが……」
パサリとマリーヤは机の上に地図を広げる。
漂白されていない黄ばんだ荒い紙ではあるが、定規で引かれたような綺麗な直線に、小さいが達筆な建物や土地の名称が記されている。
簡単な、とはいうが探索者が作戦時に使う地図よりは大分細かく正確に見える。クラリセンで見た地図は例外かも知れないが、あれよりもずっと上等だ。
白い指がいくつかの建物を指さしていく。
「城がここ。使いの者に確認をとらせましたが、こちらの官舎にはおられませんでした。目撃されたのがこちらの食堂です」
「官舎からは離れている、か。だが、食事を補給しているんだ。近くに隠れ家があると考えていいだろ」
「……そうですね。スティーブン殿の監禁場所でしょうか」
プロンデが煙草をくわえたまま地図を睨む。
「多分な。だが、もうそこにはいないはずだ。少なくとも俺ならもう立ち去っている」
「ですね」
僕は頷き同意する。同感だ。
スティーブンとの交戦時に周囲に人影はなかった。
もし、戦いの結果が気になるならば見張っているはず。しかし、見張っていなかった。
ということはスティーブンの腕を信用していたか、それとも僕の生死が気にならなかったかのどちらかだ。
スティーブンの腕を信用していなかったとは言い切れないが、少し考えづらい。
自分が捕らえた相手だ。もしスティーブンが僕を倒せると確信していて、もしそんなことが出来るなら、なにもスティーブンを使うことはない。直接僕のところに来ればいい。
ならば、僕の生死が気にならなかった。
そうなればまた違う展開が僕の頭をよぎる。
僕への嫌がらせ、というのならまだいい。何の理由でかは断定できないが、僕が怪我をするくらいは期待してそれをやった。スティーブンの記憶も薬か何かで奪い、自分の犯行だとはわからないようにした。
筋は通る。実際、プロンデが煙草を吸うなどという偶然がなければアブラムの名前は出なかった。
しかし、もう一つあるのだ。
なるほど、だから炭が重要なのか。
もう一つの可能性。それは、アブラムが炭で何かをするために、邪魔になりそうな僕の足止めをした。その場合は、もうレヴィンの関与が確定なのだけれど。
「アブラムは何をする気でしょうか。……その、砦に何を持ち込んだのかは?」
マリーヤに問いかける。しかし、静かにマリーヤは首を振った。
「申し訳ありません。未だそういった物資の書類は混乱しておりまして。精査すればわかるとは思いますが、まだ時間がかかります。少なくとも、炭単体では在庫の増減はありませんでした」
「そうですか……」
僕は落胆しつつ、プロンデを見る。未だ地図を見つめているプロンデを。
やがてぽつりとプロンデは呟く。器用にも煙草をくわえたままで。
「そもそも、あの〈不触銀〉を単独で攫うというのも難しくないか」
「どうでしょう……正面切って、は難しい気もしますが」
プロンデの言葉に気がつく。そういえば、単独犯でない可能性もあるのか。
……そう、そうだ。
「そうか、さっきの食事、六人分でしたか」
「ああ。一人はアブラムの分としても、あと五人分。その中にスティーブン殿が入っているかはわからないが」
つまり、少なくともあと四人いる。全て紅血隊だろうか。
しかし、人手があるのであればやはり。
「僕を襲わせるのは、主目的ではなさそうですね」
「そうだな。……さっきもウェイトに聞かれていたようだが、もう一度聞くぞ。奴に恨まれる覚えは?」
「ありません。一度お会いしただけです」
マリーヤが視界の端で、僕の目を見つめている。
彼女も一つの可能性に行き当たっているのだろう。けれど、確証も何もない。
「……そうか。じゃあ仮定を重ねよう。アブラムは、何かをするためにお前を襲わせた。アブラムと出会ったとき、そいつはどんな反応だった?」
「普通に不審人物として、ですね。本来いるはずのない北砦にいた僕たちを見咎めてました」
「演技が上手なわけじゃなければ、そこで初めてお前達の存在に気がついたということだな」
「ええ、多分」
そして、あのとき僕の存在に気がついたというのはきっと嘘ではあるまい。
腹芸をすることはあっても、あの初対面の反応まで偽装するのは難しい。
「そこで荷物を持ち込んだのを見られた奴が、お前達のどちらか、あるいは両方が倒れるのを狙った。というのはどうだ」
「一緒にいたグーゼルさんが無事なのに……」
僕は答えを止める。そうだ、口封じというのもあるか。それに、グーゼルが無事という保証もない。
僕の言葉に引っかかることがあったのだろう、プロンデはマリーヤに問いかける。
「砦に何かがあったとき、伝えられる方法は」
「使われたことなどはありませんが、いくつかの狼煙が定められております。しかし、彼女に限って何かがあるとは……」
言い淀むマリーヤ。まあそうだろう。この国最強となればそう思ってもおかしくはない。
しかし、これは比武などの問題ではないのだ。
「グーゼル・オパーリンの武名は俺たちも聞いている。だけど、こちらにとっての〈不触銀〉も同じようなもんだ。それに、アブラムは仲間なんだろ。なら、油断してもおかしくはない」
「それは、そうですが……。いいえ、その通りですね」
反論しようとしたマリーヤも言葉を止める。この国での月野流の知名度からしてマリーヤは知らないとは思うが、イラインで少しの間生活していたのだから知っていてもおかしくはないか。
「カラス殿」
「はい」
それから手の関節を胸の前で鳴らし、プロンデは何か決意したかのように僕に言う。
「グーゼル・オパーリンは北砦にいる。そして、何かを北砦に持ち込んだ以上、アブラムも北砦の方で何かをするんだろう。これから向かった方がいいと思うが、どうだ?」
「概ね同意します」
「概ね、ってのは」
僕の言葉にプロンデは聞き返す。優柔不断ととられるかもしれないが、そうでもない、……と信じたい。
「結局、その荷物の中身がわかっていません。アブラムは、レイトンさんが追っています。僕らは僕らで、荷物の調査に専念すべきだと思います」
アブラムの居場所は、『わからない』でもいいだろう。しかし、『その荷物の中身までわかりませんでした』では僕らは何のためにこの城に来たかわからなくなる。
「今は意地を張っているときでは」
「意地ではありません。僕も北砦に早く行った方がいいとは思います。けれど僕は、それなりに、レイトンさんを信頼しているので」
信用は出来ないが、信頼出来る男ではある。レイトンが調べてこいと言ったからには、何か意味があるはずなのだ。
「アブラムの居場所は北砦に行くまで保留でもいい。『城ではわからなかった』でも構わないでしょう。けれど、炭に関しては調べてから行くべきだと思います」
「しかし……」
言い争いではない。意見のぶつけ合いだ。
それを承知しているのだろう。プロンデは口調を荒げない。しかし、やはり僕の意見に正当性を見いだせないようでまだ反論をしようとする。
だが、その口を開けたところで僕らは同時に振り向いた。
音がしたのだ。城の西側。
一階の離れの方から。
「……聞こえたか?」
「ええ。金属の断裂した破裂音。それに、人の悲鳴……」
襲われた風ではない。だが、男性の苦痛に喘ぐ声。
闘気も魔力も使えないマリーヤには聞こえなかったようで、僕らの言葉に首を傾げていた。
そのマリーヤに向けて、僕は問いかける。
「今、ヴォロディア様はどこにおられますか?」
「昼食の後も、銃の試作の見学とかで……、まさか……」
マリーヤの顔が青ざめる。水煉瓦越しの青い光が当たっていてわかりづらいが、表情からそうなったことが読み取れた。
「そのまさかだと思います。この方角は、銃の工房です」
今の話とは関係ない。けれど、恐れていた事態が起こったらしい。
「ヴォロディア? ヴォロディア王か?」
「ええ。この方角にある工房で、銃という武器の試作をしています。そこで起きた事故でしょう」
「申し訳ありませんが、話は後で! 私は様子を見て参ります!!」
マリーヤは返答を聞かずに走り出す。開いた扉の向こう、廊下を遠ざかっていく足音が響いていた。
僕らも顔を見合わせる。
「どうします?」
マリーヤがいない以上、僕の先ほどの意見はなくなったとみても構わない。
すぐにマリーヤが戻ってくるのならば別にいい。しかし、王が関わっているかもしれない事故だ。
多分、騒ぎになる。そうなれば資材に関する情報を待っても手に入らないだろう。ではもう、それより早く砦に向かった方が建設的だ。
プロンデは砦急行派。ならば、すぐにこの城出立を口にするだろう。
そう思って出した問いだが、プロンデはまたも予期せぬ言葉を口にした。
「俺たちも行くぞ。怪我人が出ている以上、人手がいるかもしれない」
「ここは王城。人手などいくらでもいるでしょう。多分治療師もいます」
要人が集まる重要な施設。北砦と同じく、常駐しているはずだ。それも、上等とか特等とか、その辺りが。
事故が起きれば現場に急行するだろうし、必要ならば周囲の者が運ぶ。僕らが手出しをすることはない。
「皆がそう思って、人手が集まらないこともある。要らなければ要らないで構わないし、お前にも強要しない。だが、俺は行く」
煙草の火を消し、プロンデは歩き出す。そしてその廊下を出たところで、少しだけ振り返った。
プロンデにその気はないのだろうと思う。けれどその視線に、どこか後ろめたくなった。
僕も一歩足を踏み出す。
歩き出したプロンデの前に出るよう、走り出す。
「工房まで道案内が必要ですね」
「……。……ああ。助かる」
横に避けて止まるのは面倒だ。
この城を少し歩き回っていたおかげで、地理は多少把握している。
誰ともすれ違わないルートで行くことも可能なはずだ。
「行ったところで、誰でも出来る力仕事くらいしかないでしょうに」
「なら、俺でも構わないだろ」
無表情に返されたその言葉に僕は答えず、無言で走る。
何も、言い返せなかった。
工房に着いたときには、何人かの遠巻きに見守る野次馬と、苦しむ職人の姿があった。
「ぅぁぁぁぁぁ……!!」
腕を押さえて苦痛の声を上げる彼の手。その指は千切れ、掌は原形を留めず、滴る血が止められない様子だった。
蹲る彼の肘を懸命に縛り上げているのはマリーヤ。
ヴォロディアは、と探せば試射場の端で唇を結んでそれを見ていた。
「しっかり! 治療師が来ますから!!」
「ぁぁぁぁぁぁ……」
結んだ紐と肘の間に適当な木片を差し込み、更に捻る。手首で縛らないのは、職人が苦しみのあまり動かし続けているからだろう。
肘でもあまり変わりがないが、それでも動きが少ない分抑えるのが容易らしい。しかし、マリーヤの額の汗を見るとそうも思えないが。
……その光景に、何故か恐怖を感じた。
何故だろう。恐怖といっても、足が竦むようなものではない。ただ、嫌悪感があった。
それも、多分マリーヤ達に対してではない。
「俺が代わる!!」
駆け寄っていくプロンデ。その姿に、僕も気を取り直す。
服の前が血に汚れているのも構わず止血と動きの抑制をしているマリーヤに代わり、プロンデが腕を押さえる。暴れると出血が酷くなるだろうが、本人はもはや我慢できないのだろう。半ば暴れていた。
「治療師は!!」
「ぅぅぅぅぅ!!!」
「今呼びに行かせました!」
マリーヤが、本棟の方を向く。しかし、その治療師の影は未だにどこにもない。
それを確認し、僕も職人に駆け寄る。
手際よく手首にも止血帯を作るプロンデの手を邪魔せぬよう掌を摘まむように持ち、状態を確認する。……これは、確認するまでもないが。
「……治します」
そうだ。この場にいる以上、僕も出来ることをしなければいけない。
治療師が来るまで時間がかかる。それまで、この男性を苦しませ続けることはない。
スティーブンは、雪海豚討伐で負傷した衛兵を、運んで治療するという行為に対して言っていた。『ここではそういうものとしておいたほうがいい』と。
その通りだろう。ルールとしては、僕らに出来るのは応急処置まで。そこから先は治療師に任せるべきだ。
けれど、そうすれば僕自身も嫌悪の対象になる気がした。
今なお、遠巻きに見つめて口々に何かを囁き合っている野次馬たちと同じになりたくなかった。
「……しかし……」
「そのまま押さえておいてください」
「……出来るのか?」
汗一つかかず、プロンデが僕に問いかける。本当に、力仕事が必要だったらしい。
マリーヤは果敢にも、大の大人を押さえ続けていたのだ。
僕は頷く。
「出来ます」
まずは鎮痛、止血。それから、再生。
なに、怒られてもなんとかなる。治療師は誰も見ていないのだ。最悪、知らぬ振りでいいだろう。本当は、大した怪我を負っていなかったということで。
治すの自体は大したことではない。
しかし、止血を終え、再生させようとしたところで、事態が変わった。
僕は少し、決断が遅かったらしい。
「こちらですか!!」
緑の法服のような制服。治療師が、息を切らした別の職人を伴って現れる。
それを見て、安堵したかのような雰囲気が野次馬に漂った。
プロンデも、それを見て頷き、僕を視線で制する。
これ以上手を出すなということだろう。でも、それでは彼の手が。
強引に、僕らの間に治療師が割り込んでくる。
プロンデも押しのけられるように、後ろに下がった。
治療が始まる。
僕が最後まで出来なかった治療が。
「……ありがとうございます」
その治療風景を見守っていた僕らに、マリーヤが声をかけてくる。その言葉に、僕は首を振った。大したことはしていないのに。いや、出来なかったのに。
「……誰も、手を出さなかったんですね」
「今回、試射の一発目で事故が起きたらしいですけれど、銃の音はもう聞き慣れていますから」
なるほど。うめき声以外はいつものことだったということか。
その音が、金属の裂ける音だとわかった者も少なかったから、大きな騒ぎにならなかった。
そして、数少ない集まった官僚達も手を出さなかった、と。
傍観者効果といったっけ。プロンデの言ったとおりだということか。
プロンデがいなかったら、僕もここにはこなかった。……僕は、本当に無力だ。
悔しそうに、マリーヤがぽつりと呟く。
「とうとう、事故が起きてしまいました」
「いつかは起きることなので、気にしない方がいいです」
事故は起きるものだ。僕らは事故を減らすことは出来ても、なくすことは出来ない。
それを、指を失った彼に面と向かって言うことは出来ないが。
ヴォロディア王は治療師の後ろから治療を見守っている。
固唾をのんで、という感じだろうか。神妙な顔で。
「カラス殿」
プロンデが僕に呼びかける。
工房端の机の横で、その天板を見つめたまま。
何だろうか。
呼ばれるままに、プロンデの横まで歩き、その視線の先を見る。
「……これは……」
「……予想が外れてくれるといいけどな……」
プロンデは机に指を滑らす。その上に残った粉が、押しのけられて線になる。
その指先に付着した粉を僕に見せながら、プロンデは唾を飲み込んだ。
「これ、炭の粉じゃないか?」
その人差し指を染めるのは、黒い粉。
炭に硫黄と硝石が混ぜられた粉。
黒色火薬の粉だった。




