閑話:老剣士の意地
SIDE:スティーブン
すいません、やってはいけないといわれる視点変更ですが、必要なので。
開いた瞳孔で視界が混濁している。
全ての境界があやふやになった世界で、スティーブンはただ自分の息づかいだけを感じていた。
荒くなりつつある息を整える。腕に力を入れる。
建物の輪郭が全て歪み、風の音が不気味に圧力だけ耳に与える世界。
その中で、老剣士の本能は、ただその手に握った剣の重みをしっかりと感じていた。
目の前にいるのは誰だろう。
黒い外套。黒髪に、背丈からすれば子供だ。
ああ、カラス殿か。そうスティーブンは考える。
こんなところでどうしたのだろう。この街に用事でもあったのだろうか。
いや、それよりも、自分はどうしてここにいるのだろう。
目の前の子供が、自分に何か話しかけているが何も聞こえない。
黒髪が揺れる。
目の前の子供は自分に何か用事でもあるのだろうか。いや、その見知った顔は初対面で、自分に用事があるとは思えない。
カラス殿は何をしているのだろう。
思わず手に力を込めると、体が知らぬ間にその剣を振った。
剣がぶつかる感触が手に響く。
誰じゃ、何じゃ、儂と張り合おうなんて。
はは、面白い。この感触は、水天流の技法か。何度も打ち合ったことがある。何年前か、最近か、野試合で何人その門人を討ち果たしただろう。
若く、才能溢れる彼らが自分の手により倒れる。それは、腕を上げ、名を上げることと同じくらい面白い。
ほれ、みたことか。儂の作り上げた流派は最強なんじゃ。才能なんぞ、練り上げられた力の前では何の支えにもならんちっぽけなもんじゃ。
そう、何度も確かめた。
しかし、どうしたものか。
目の前にいるのは小さいが、これまた手練れ。
稽古でもない儂の斬撃を防ぐなど、内弟子でも出来る者はそうおらん。
スティーブンは内心首を捻る。
力のいれ具合を間違ったか。そもそも、目の前にいるのは誰だろうか。持っている武器は、山刀? 対人で使うのは何とも奇妙な武器じゃのう。
そんな疑問が溢れる。
そもそも、何故自分は目の前の男と立ち会っているのだろうか。
ここはどこだ。何故、自分はここにいるのだろうか。
一瞬の疑問。そうして、周囲の様子を探ろうとした瞬間頭の中に声が響いた気がした。
"若さが欲しくはないか"
脳裏に浮かぶ光景では、暗闇の中で男が囁いている。
道士服の男。座らされた自らの顔を覗き込むように、蝋燭越しにそう問いかけている。
いらない、とは言えない。
自分は若く強く最強だ。しかし、それを失うのは怖い。
いや、自分だけではないはずだ。それを失うのは、誰だって怖いはずだ。顔に出来た皺を、気にしない者はいない。歯がぐらつき、抜けるのは誰だって困る。艶やかだった髪の毛が張りなく萎れてしまうのは、誰もが避けたい事態のはずだ。
当然、欲しい。
そう叫ぼうとする。
目の前の男も何かを口にしようとする。それは、切り結んでいる男か、それとも暗闇にいる男か。それはわからない。
だが、理解した。
どこからか声が響いている気がする。
自分の使命を、自分に投げつけているのだ。
"命は、奪うことが出来る"
そんなわけがないと、反論しようとした。
けれど、朦朧とした意識がそうさせなかった。
"若者を殺せば、命を奪うことが出来る"
そんなはずがない。そう、鈍った理性では反論出来る。
しかし、このときのスティーブンは薬品で意識を鈍らされていた。
"特に、魔法使いが良い。若い魔法使いを殺せば、その命を奪うことが出来る"
そんなことは出来るはずがない、とスティーブンは反論できなかった。
出来るはずがないことはわかっている。しかし、そうであればいいという願望が芽生えた。
願望は、判断を鈍らせる。
だから、スティーブンは反論できない。
"若い魔法使いを、殺せ"
暗闇の中、蝋燭を見つめさせられる。
それは催眠状態を作り出す常套手段であり、そして薬品も併用すれば絶大な効果を発揮する。
薬と暗示。
超人と呼ばれるまでに鍛え上げたその体であっても、精神まで鍛えることは難しい。
故に、スティーブンは大きく頷いた。
そうだ。殺すのだ。
若い魔法使いを。若者を。
スティーブンは気がついていない。
その判断の中に、若さへの嫉妬があったことも。『魔法使い』という才能への嫉妬があったことも。
目の前の敵を倒す。
そう決意したスティーブンの剣が、切り結んだ山刀に、その先の男の体に力を加える。
月野流《反円》。注ぎ込んだ力と対象の重心にかかる重さを衝突させ、方向をねじ曲げる。そうして剣を支点に対象を強制的に宙に舞わせる大技である。
中目録以上の秘伝であり、本来は繊細な力の制御あってのものではあるが、身に染みついたその技術を混濁した状態でスティーブンは使って見せた。
恐るべきはスティーブンの技量。
酩酊した状態で綱渡りをするような難事を、やすやすとこなして見せたのである。
そうだ、目の前の男を殺すのだ。
何故?
スティーブンはそう思うが、使命感に体が突き動かされる。
剣を、宙を舞った男の首筋めがけて突き出す。屹立したその剣は流星のように男の首筋を食い破るかと思われたが、そうはならなかった。
猫のような俊敏な動作で、その剣は躱される。肩に引っかかったのは偶然で、スティーブンもそれを驚いていた。
スティーブンは剣を振る。
もう一度、もう一度敵の体に触れることが出来れば、殺すことが出来る。
その力を利用し、武器を断ち、四肢を断ち、命を絶つことが出来るはずだ。
しかし、振り回す剣に精彩はない。
酩酊は、その才なき斬撃の効力を更に奪い、その剛剣の剣先を鈍らせる。
それでもスティーブンは困惑していた。
目の前の男のすばしっこさはどうだろう。
こんな男を、自分は見たことがない。野試合でも、先の戦でも、こんな者は。
しぶとい相手だ。若く、魔法を使い、そして強い。
厄介な相手だ。未熟なれど、水天流の武技を使う若者。
何故目の前の男が魔法使いだと知っているのか、スティーブンは疑問に思えない。
その冷静な思考力は奪われ、そしてその躊躇を消し去っていた。
恐ろしいことだ。
この目の前の若者が成長すれば、どれほどの脅威となるだろう。
まだ若い。これからまだ体も育つ。膂力も強くなり、腕や足も伸びて間合いも広くなる。
熟達した水天流は、月野流の大きな障害となるだろう。
恐怖。使命感。そして意地。
全ての感情が混ぜ合わされて、目の前の男に叩きつけられる。
そうだ、殺さなければ。
目の前の男をここで殺せば万事解決だ。ははあ、そうだ、だから自分は今こうして戦っているのだ。
スティーブンは剣を振る。
大蛇も人工生物も竜も斬り殺すことが出来るその斬撃を、小さな人間に向ける。
それでも殺せない子供。
しびれを切らしたスティーブンが飛びかかろうと足に力を溜める。
その瞬間だった。
頭部の周囲に違和感を覚えたのは。
何も見えない。
何も聞こえない。
何も匂わない。
けれど、たしかにそこに何かがある。
それは敵意と呼ぶべきものであり、きっと、怖い何かなのだ。
恐れは警戒へと繋がり、強者のスティーブンはそれを対応へと的確につなげる。
振り払うようにその球を切り裂く。
月野流を極めた老剣士に切れぬものはない。形あるもの、形のないもの、全てを切り伏せ通り抜ける。
例外はない。
空気という形のないもの。それを切り裂くのは、スティーブンにとって造作のないことだった。
パァン、と音が鳴り響く。
音は火薬が爆ぜるよりも少し高く、そして熱はない。
しかしその音は、薬に酔ったスティーブンの脳を揺さぶり、叩き起こす。
耳が痺れ、視界が傾く。
しかし歪んだ曲線は直線へと近づき、くぐもった音は輪郭を帯びた。
グッと足に力を込める。
反射的な反撃。積み重ねられた鍛錬が体を動かす。
構えられた山刀は藁の楯だ。そんなものを裂くのに、力はいらない。その目を断てば、金属は簡単に裂ける。
それでも質の良いものだったのだろう。腕のよい鍛冶師に鍛え上げられた金属と、わずかばかりの水天流の抵抗を感じながら、スティーブンはそれを持ち主ごと断とうとする。
構えられた武器ごと相手を一刀両断にする。月野流の得意技である。
だが、それは不発に終わった。
山刀は断てた。だが、対手は断てなかった。
必殺の一撃と言ってもいいその斬撃を躱すことが出来るとは、素晴らしい動きだ。
身を引いて躱す。言ってしまえばそれだけの動きではあるが、それでも、獣のような反射は素晴らしい。妬ましいほどに。
顔を上げる。視界は元に戻っている。
スティーブンは少しだけ驚き、それから表情を変えぬよう知らぬ振りをした。
目の前にいたのは、少し前に知り合った少年、カラス。
魔法使いの少年が、目の前で息を飲んでいた。




