閑話:いつまでも元気でいてね
SIDE:月野流開祖
ここでまさかのタメ回。次回、主人公視点に戻ります
枯れた老人が道を歩く。
その年齢から推測出来るだろう足取りよりもしっかりとした足取りで、背中も丸まらずにしゃんとして、その目も前を確かに見つめている。
だが、その表情にはどこか陰鬱なものが見え、その年齢以上に老けるよう見せていた。
歩く度に鳴る金属の鎧は、彼が若いときから愛用しているものだ。
白銀のその鎧は敵の刃を滑らせ防ぎ、衝撃を受ければ身体より先に歪んで身体を守る。しかし彼がそれを愛用しているのは、その実用性からではない。
出ていった妻の声が、何十年とたった今でも耳にこびりついている。
『いつまでも夢を追い続けていないで』
『彼は、地に足が付いているの。貴方とは違って』
優しげな笑顔など、もう思い出せないのに。
その妻の横に立つ騎士の鎧姿。そして、嫌悪するような妻の顔。
ただそれだけが、スティーブンが鎧を着ている理由だ。
中の鎖帷子が、直接肌に擦れぬようもう一枚着ている布越しに体を冷やす。
氷点下、熱湯を撒けば空中で凍り付く寒さである。本来は毛皮などを挟むことなく金属製の物体を体に密着させるのは禁忌である。
それでもなお凍傷一つ負わないのは、彼の鍛錬の成果であり、その闘気が確かに彼を守っている証拠だった。
(……老骨には堪えるのう……はは……)
内心、スティーブンはぼやく。その闘気の活性化はこの国に入ってから一時も絶やすことなく行っている行為だったが、それがいつもの行為だからこそ自らの衰えをまじまじと感じることが出来た。
あと十年若ければ。ただ佇むだけでこんなにも体力を消耗することはなかっただろう。
あと二十年若ければ。昨日のような醜態は晒さなかっただろう。自らの足で、北壁まで辿り着いて見せたのに。
今は出来ない。それに、これから出来るようにもならないだろう。
失った力を取り戻すことは出来ないのだ。
鍛錬して力を得ることが出来るのは、若さを持つものだけの特権だ。だが、その若さがスティーブンにはもうない。
ふと、手甲についた傷を見る。
恐らく、昨日砦を出るときにどこかの石壁にぶつけてしまったのだろう。常に強化し続けているこの鎧には、通常傷はつかないはずだ。
それを見て、スティーブンは苦笑した。
これは、まるで自分を見ているようだ。
この鎧が勝手に直ることなどない。傷はそのまま傷として残り、そしていつかは壊れて捨てられる。
頑強な鎧とて、永遠ではないのだ。自分と同じく。
顔を上げる。しかし、気分が晴れることはない。
これからのことを考えて。
知命を過ぎてから、ようやく副都イラインに自らの道場を構えることが出来た。
しかし、そのときもう自分は若くなかった。既に、耳は若いときよりも遠くなり、目は弱り近くを見ることが難しくなった。
だから、彼は急いだのだ。数年間後進の育成に励み、それから旅に出た。若さを求めて。
方々を旅し、神酒、金丹、非時香木実、その他様々な不老不死の薬を探した。
時折イラインへと戻り、弟子への指導も忘れない。弟子達に旅の理由を正直に言うことが出来なかったのは、彼に残ったささやかな意地だろう。
今回リドニックを訪れたのは、妖精達が月から持ち込むという変若水を求めてのことだ。
今回は、いけると思った。
老いたとはいえまず起こりえないはずの、魔物に襲われ剣を取り落とすという偶然の事故。そんな事故の結果、魔法使いと出会った。
実際はただの偶然だ。闘気の出力が甘く、手が悴んで取り落としたというだけの。
しかし、スティーブンはそうは思わなかった。本来は会わないはずだった少年と、事故により出会った。それは、運命だと思った。
今までとは違う、吉兆が目の前に現れたと思った。
だからこそ、絶望は深い。
薬の製法が失伝していることもあった。不死の薬が、山師の作り出した与太話だったこともあった。
そんな、求めるものがないことを何度も経験しているスティーブンにすら、期待からの失望は耐えがたいものだったのだ。
スティーブンは溜め息をつく。
プリシラには強がりを言った。次には甘露を探そうか、などと言ったが、それも無いとはわかっている。探し求めて無いと知り、また失望するだけなのだ。そうに決まっている。
しかし、耐えがたい。
立ち止まり、目を強く瞑る。歯を食いしばり、その諦観をやり過ごそうとした。
昨日出会ったプリシラも、グーゼルも、もはや見た目通りの年齢ではないだろう。
グーゼルに至っては年上で、そして砦で出会ったグーゼルの仲間、アブラムも同類であろう。
そして吉兆だったはずの魔法使い、カラスも、これから先は見た目と年齢が乖離していくだろう。若々しく水を弾く肌。艶やかな髪。それが消えるのは、遠い遠い未来の話だ。
いや、とスティーブンは鼻で笑った。
カラスは魔法使いだ。未来でも、それが消えることはないかもしれない。会ったことはないが、神話の魔法使いドゥミ・ソバージュも、千年前と変わらぬ若さを保ち続けているという。
人はいつか必ず死ぬ。
スティーブンはそう信じている。そうであってほしいと願っている。
不死などあってはならないのだ。
自らが得られないのであれば。
既に老いさらばえていると自覚はしている。だがしかし、その命尽きるまでそれを認めることは出来ないだろう。
不死はない。不老はない。だから、自分は死ぬのだ。
少しでも客観視してしまえば、若さへの嫉妬を自覚してしまう。
故に、それは出来ない。老いを見つめてもなお、自らの醜い心を見つめることは出来ない。
老いたくない。死にたくない。
単純な願い。老人恐怖症と呼ばれるありふれた恐怖症。
それは闘気を得ている超人故に、人よりも少しだけ長命に近い身故に、スティーブンに強く襲いかかっていた。
深呼吸をし、意識を切り替える。
ここでこんな考え込んでいても仕方がない。
この絶望から目を逸らすには、やはり行動しかないだろう。
いつも通り、また不死の妙薬を探しにいくのだ。いつもの流れからすると、一度イラインへ戻り、少しの間門弟へ指導してからの話ではあるが。
歩き出す足。
力強いが、現実から逃げ出す足。
なんとなく、月野流の旗を広げる気にはなれなかった。
それから彼は失態を犯す。名の知れた武芸者であるスティーブンの背後をとることは、本来至難の業だ。
だが、彼は今、周りを見ていない。
「やれっ!!」
周囲に気を配っていなかったスティーブンの耳に、そんな声が届く。
何を、と思ったときにはスティーブンに抵抗することは出来なかった。
口に押し当てられる布。何かを染みこませてあるらしいその布から立ち上る気体。
思わず息を止めるが、もう遅かったらしい。視界が暗くなる。寒さが体を襲う。
「なにや、ぅ……」
倒れようとする体が、脇で誰かに支えられる。
消えゆく意識。その中でも、自らが運ばれているということだけはわかった。
(……なんじゃ……いったい…………)
瞬きすることも出来ず、閉じゆく視界の中で景色が動く。
体に力が入らない。痺れも痛みもなく、ただ四肢は脱力している。
無意識に浅く息は吸っているようで、針で刺されるような冷たい空気が肺に入った。
「……手勢は不要だったか。しかし、これであいつに対抗できれば嬉しいのだが……」
(あいつ……?)
自らを肩に担ぎ、誰かが運ぶ。人目を避けるように、路地に入っていく。
(誰だか知らんが、見とれ、儂が……儂……が……)
暗くなり、閉じる視界。
担いでいる男の道士服の袖が映ったのを最後に、スティーブンはその意識を失った。




