閑話:善悪の彼岸
SIDE:プロンデとレイトン
前話の途中にはいる話。
作中キャラの思想は「ほーん」と適当に聞いてもらえれば。
カラスが立ち去った後も変わらず、プロンデは椅子に腰掛け前を向いたまま、酒のグラスを傾ける。
「それで、お前の用は?」
カランと氷が音を立てる。
その音に紛れるよう、プロンデは尋ねた。匂いの少ないこの酒には煙草は合わないな、とそんなことを考えつつ。
呼びかけた先は、カラスの座っていた席の反対側。カラスが着席してすぐに空いた席だ。
ようやく駆け寄ってきた店員に銅貨を渡しながら、そこに座っていたレイトンは笑った。
「ヒヒヒ。特にないよ。面白いなぁと思いながら聞いていただけ」
「盗み聞きとは趣味が悪い」
「たまたま席に座ったら、隣で知っている人がたまたま話していた。それをたまたま耳に入れただけさ」
一応咎める言葉を吐くが、プロンデもそれを咎める気はない。
もとより、こんな誰が聞いているかもわからない食堂で機密など話さない。人に聞かれてもまったく問題のない話題しか口には出さぬよう、堅く自らに課しているのだから。
やがて運ばれてきた料理を匙で口に運びながら、レイトンは軽い口調で尋ねる。
「カラス君を逃がしていいのかな? わかりやすい彼のことだ。きっと、キミならいくらでも埃を出せると思うけれど」
「そんなことをする意味もないし、今それをしても意味がないだろ」
互いに目は合わせない。だが、二人の間の空気は、誰もその席に近寄らせることはない。
「……だが、ちょうどいい。お前とも話したかったんだ」
「その機会はいくらでもあっただろ? 何を今更」
嘲るように笑い、そしてポタージュを啜る。そのペースは早く、熱さがなければもう既に飲み干していたほどだ。
「ウェイト抜きで話せることなんか、今までなかったからな」
コトリとプロンデはグラスを置く。それから改めて、レイトンの方を向いた。
ウェイト抜きで。その文言だけで、レイトンはその話題を察する。そして、この男の慎重さも。
「ウェイトがお前を追うようになった事件。そこでお前は何故、ウェイトの友人を殺したんだ?」
剣呑な言葉は一応声を潜める。
この食堂にいる人間は、ほぼそんな荒事とは関わりのない人間ばかりだ。余計な心配をさせたくなかった。
レイトンもそれをわかっている。そしてその気遣いに応えるよう、少しだけ声を潜めた。
「それを何故知りたいのかな? それによって、答えは変わるけれど」
「ウェイトがああまで言っているんだ。お前が殺したことは確かだろう。しかし、何か事情があったのかもしれない。誰かから恨みを買っていたのかもしれない。お前は殺人者で悪だ。だがその事情まで知らんと、俺の立ち位置を決めることが出来ない」
「キミの立ち位置なんてもう決まっているじゃないか。復讐者ウェイトの相棒。それ以外に何があるのさ」
「知らない。けれど、何があるのかを知っておきたい。おかしな話じゃないだろ?」
レイトンも、初めてプロンデの方を向く。
真摯な目。いつもの笑顔とは違った種類の視線に、プロンデは自らの頭が全て覗かれた気がした。
「あいつがキミに説明したことと変わらないさ。あいつの友人、コンラッド・ソーヤーはドルグワントに殺人を依頼した。だから、殺した」
殺した、と端的に口にした。
殺人の自供。本来であれば聖騎士としてすぐに捕縛し、その真偽を確かめるべきだろう。
しかし今ここでそれを行うのは越権行為だ。故にプロンデはわずかに手を泳がせただけで、無反応に留めた。
「……意味がわからないな」
「わからないならそれでいいんじゃないかな。どうする? イラインへ戻り証拠集めをしたところで、三十年以上前の話だ。もう辿ることは出来ない。そしてぼくも否認するだろう」
「どうにもできない。それくらいは俺にもわかる」
ぐっと酒を呷る。相変わらず、味はしなかった。
「だが、何故だ? まさか、ドルグワントは依頼人を全員殺しているとでも?」
そんな噂は聞いたことがない。それに、そんな話であれば、ドルグワントに依頼する者もいなくなるだろう。誰が好き好んで、自らの首を差し出すような真似をするというのだろうか。
それに応えるよう、レイトンは噴き出す。馬鹿なことを、と言うように。
「そんなわけないじゃん。ぼくが殺すのは、一部の依頼人だけだよ。一部の、条件に合った者だけ」
「その、条件ってのは?」
プロンデは食い下がる。
その態度に、レイトンは眉を上げた。ここまで深く尋ねる者はそうそういない。
普通の者なら一つ目で、変わった者でも二つ目で大抵は切り上げてしまうものなのに。
なるほど。やはり目をつけたのは間違いではなかったかもしれない。
この男は自分たちを理解しようとしている。理解した上で、裁こうとしている。
その内心の困惑と嫌悪感を覆い隠しながら、自らと根気強く向き合おうとしている。
誰にも悟られないよう、レイトンの唇が歪んだ。
「簡単なことだよ。彼は、二回目だった。それだけさ」
「二回目、っていうと……」
プロンデは言葉を止める。その回数の、一番初めに浮かんだその候補に納得できずに。
「依頼さ。彼は、ぼくらに二度殺人を依頼した。だから殺した」
殺した、と何度もレイトンは強調する。心優しい目の前の男に、自らを理解させぬよう。
「一度目の依頼は、彼の職場の同僚。そして次は、同じ街の見知らぬ男。理由までは、本人の尊厳のために黙秘しておくよ」
「それが、お前らの間の決まり事か」
不機嫌さを声に滲ませながら、プロンデはようやくそう返答する。
氷も溶け、もう酒は薄まっていた。
「というよりも、ぼくのかな」
レイトンは匙を置く。もう、皿は空になっていた。
「キミたちにとっても助かるだろう? 人に殺意を抱くような人物が勝手に死ぬんだ」
「……理由によるだろう。殺意を抱くなんて、どこの誰にも起こることだ」
「理由による。何処の誰でも殺意を抱く。それもそうだね。どんな善人でも、一生に一人は本気で殺したくなった奴がいるだろう。それは批判出来ないよ。だけど、殺意を抱くのと実行に移すのとは全く違う。そして、彼はその一線を二度も超えた」
レイトンは肩を竦めて、そしてほぐすように伸ばす。まるでこれから何かをする準備運動のように。
「なら、もう彼はキミたちにとっても裁くべき対象になるんじゃないかな?」
むしろ、一度目でもそうなるはずだ。それはどちらかが言うまでもなく、双方の共通認識だった。
「だから殺した。悪人のぼくが、悪人になろうとした彼を。もっと喜びなよ。悪人が一人死んだんだ」
「その手段が間違っていれば、何の意味もないだろ。悪は正義のもと、裁かれるべきだ」
「そうかな?」
一度道を振り返り、レイトンは座り直す。
確かめたのは、現在の状況。まだ早い。自分が道へ出るのは。
その暇つぶしにする問答としては上等すぎるだろう。そんなわずかな楽しさを心に留めながら。
「善悪と正誤、正義と邪悪はそれぞれ別の概念だ。そこはキミたちと見解の相違だね」
「言葉遊び……でもなさそうだな」
楽しそうなレイトンの姿に、プロンデの空気も少し緩む。
だが、毒されてもいけない。しかし、石ころ屋の一員たるこの男の考えも聞いておかなければ。そう、何度も思考の方向を修正しながら、プロンデはレイトンの話を聞くことにした。
煙草に火をつける。その袋の口をその度にきつく結ぶのは、几帳面なプロンデの癖だった。
「例えるなら、正誤は目的地。善悪は目的地までの道のり。正義と邪悪はその道の選び方だよ」
まだ時間もありそうだ。そう確認したレイトンは、腰を落ち着けた。
「正しい目的地に辿り着くということは、正しく目的が達成出来た、ということだ。人は往々にして何かを手に入れるために生きている。その何かを手に入れるという目的の達成が、『正しい』ということ」
「悪人を裁いたお前が、正しいとでも?」
「ヒヒヒ。話が早いじゃないか。そう、その通り。僕は『悪』という道を辿って悪人を減らすという『正しい』目的地に着いたんだ。そこに異論はないと思うけど?」
聞き返された言葉に、プロンデは反論できない。しかし内心賛同も出来ず、頷くこともなかった。
「善の道は荒れた地面だ。険しく長い遠回りの道。でも、温かい日の光が注ぐ。警邏の者がいて、疲れたら腰掛けられる椅子もある。そこに歩く人は皆友で、食物を分け合えることも出来る」
レイトンはトコトコと指を歩かせ、机の上に道を描く。その仕草が、プロンデにはまるで幼子が遊んでいるように見えた。
「対して悪の道は逆。整備の行き届いた最短の道を通る。けれど、日の光は差さない。警邏の者はいない。そこにいる全員が敵で、椅子があっても闇討ちをする人間が隠れるために使うんだろうね」
プロンデの視線の先で、レイトンは顔を上げる。艶のある髪の毛に、燭台の灯りが反射した。
「善の道と悪の道。そのどちらが正しい道に繋がっているかはわからない。大体は善の道が正しく、悪の道が間違っている。でも時には善の道が誤った目的地に繋がっていることもあるだろうし、悪の道が正しい目的地に向かうこともある」
「それは、お前ら石ころ屋の話か」
「さて、それは終わってみないとね」
レイトンは嘯くが、双方答えは決まっている。石ころ屋は邪悪。そしていつかは間違った目的地に向かい、そして死ぬ。そうでなければならない。
だが、この場ではどちらもそれを口にしない。
「そして、善と悪、そのどちらの道を自らの意思で歩むのか。それが正義と邪悪の違いだよ。その二つの道へ通じる門は、開かれたらもう後戻りは出来ないのさ」
「……人間は、いつでもやり直せる」
「そうでもないよ。ぼくらが、日の当たる道に戻れると思う?」
ぐりん、と首を捻り、レイトンはプロンデの顔を覗き込む。
レイトンの無邪気な質問。その質問にも、プロンデは答えられなかった。
「正義にも邪悪にも、なるのは意外と難しい。その二つの門扉はいつも固く閉ざされ、開かれるまでどちらかはわからない。だから、本当は皆その門がどちらの道に繋がっているのか、懸命に考え続けなければいけない。自分が歩く道が善か、悪か。しっかりとその目で見定めて門の前に立たなければいけないんだ」
時間がたち、皿に残っていたポタージュが底に溜まる。それをレイトンは、もう一度掬って口に運んだ。
「往々にして、悪の道の門は魅力的だ。短く平坦な道。当然、考えなければ人は皆、覚悟もないままそちらを選んでしまう。それは凡人の行く道だけど……ウェイト君も、そうなりつつある」
「ウェイトは、間違えない」
「そうなればもっと悪い。確信を持って、自らの意思で悪の道を進む者を邪悪という。果てにはぼくらの仲間入り。悲しいことにね」
言葉とは裏腹に、楽しげにレイトンは笑う。
それを見て、プロンデの口内の煙がやたら不味く感じた。
表情はそのままにレイトンは上を見上げて、息を吐く、珍しい、疲れた仕草だった。
「多くの人間は、どちらへ行こうかなど考えない。流されるままに選ばされてしまう。でも……」
レイトンは顔を戻す。それから、どこか遠くを見ていた。
「好ましいことに、君やカラス君はいつもその善悪の門の狭間にいる。どちらへ行こうか、こちらがいいか、といつも考えている。……いや、カラス君は考えていた、かな」
「……何か変化があったとか?」
「キミたちが睨んでいるとおり、採掘師殺しの事件にカラス君は関わっているよ。ワレリー・アントノフの死体は、彼が燃やした」
その言葉を聞いて、プロンデが目を少し開く。だがそれは些細な変化で、レイトンでもかろうじて読み取れるほどの小さなものだ。
「……そうか……」
「あれ、驚かないんだね」
意外そうに、レイトンはプロンデに目を向ける。その仕草が新鮮で、プロンデは少し噴き出した。
「関わっているとは思っていた。しかし、殺しはしていない、と」
「そうだね。その採掘師を殺したのは別の少女だ。彼が殺したのはその少女。少し話して、そして生きる術を与えようとする演技をしてから殺した」
レイトンの脳裏に、あの焼けた現場が浮かぶ。
人は、感情を発露したときにより多くの痕跡を残す。何か嬉しいことがあったとき、悲しいことがあったとき、嫌なことがあったとき。
その最たる時といえば、死ぬ直前。故に、それを正確に読み取り光景を組み立てるレイトンの目には、いつも誰かの死に目が見えていた。
焼けた現場。未だに少女はそこに座り込んでいて、そして戸惑い叫んでいた。
『何故、私が死ななければいけないの!?』
『この悪魔! 誰か助けて!』
その現場から見れば、カラスは薬の作り方を教えて、彼女の生きる道を提供した、というところだろう。
そして、その道を選ばなかった少女を殺した。
『私だって、生きたいのに!!』
少女が顔を歪めて叫ぶ。
その少女を、カラスは容赦なく灰にした。
生き残るために用意した道。その道を、少女が選ぶはずがないと内心知っていながら。
「……自分の意思で踏み出さなければ、正義にも邪悪にもなれないのに」
「意味がわからないな」
「そうだね。きっと、本人にもわかっていないと思うよ」
プロンデの言葉に思考を切り、レイトンは笑顔を強める。本当に、残念だった。
「でも、そうさ。キミが言ったとおり、人間はやり直せる。そして、彼にはツキがある。妖精が憑いているんじゃないかと思うくらいのね。だから、まだ彼にも戻る余地は残っている。彼が生きている限り、ぼくは少しだけ手助けをしながら、その道を戻ることを祈っているよ」
「石ころ屋とは思えない言葉だ」
「言っただろ? ぼくらは、悪の道を選んだ正しい目的地に着く邪悪。悪の道の競合相手が増えることなんて、望んでいないのさ」
仕方なく悪の道を歩く者は善の道に誘導し、自ら悪の道を歩く者は取り除く。それが、首魁の方針なれば。
クツクツとレイトンは笑う。本心からの言葉だと、プロンデも察した。
レイトンは立ち上がる。
そろそろ、囮の設置が済んだ頃だろう。そう思い、給仕の女性に空いた皿を示しながら。
「だから、キミたちが正義であることも望んでいるよ。悪は最短で目的地に着く。だから悪の道を歩む邪悪は速く強い。でも、気を抜くと足を掬われる。休むことは出来ない。対して善の道を歩く正義は、遠回りでも力を合わせて歩くことができる。休みながら、一歩一歩」
こつこつと靴を鳴らしながら歩き出す。
「邪悪は強く、そしていつかは必ず負ける。隣の誰かに邪魔されてね。正しく善の道を歩く正義は弱く、しかし負け続けてもいつかは勝つ」
防寒用の帽子を耳の上までかけて、最後とばかりにレイトンは振り返る。プロンデの横顔に向けて。
「どうかこれからも道を間違えないでよ。そして、遠回りしてもなお、邪悪より先に目的地につく強大な正義になってくれ。キミにもカラス君にも、ぼくは期待しているんだ」
まあ、そのカラス君は今日限りでお別れかもしれないけれど。
そんな内心をレイトンは口にはしない。
外へと踏み出したレイトンの頬を、冷たい空気が叩く。
プロンデは、見送らずに薄まった酒を呷る。氷も何も、すっかり飲み干して。
煙草の火は、いつの間にか消えていた。




