閑話:酔い冷まし
SIDE:ヴォロディアとマリーヤ
まだ日も低い朝。
透き通る城は、その明るさを塞室まで通す。
光を乱反射させて全体が光る水煉瓦の壁。そして太陽の輪郭をくっきりと見せる狒々色金で出来た塞室の壁。その二つを通り抜けてくる明るさは、中の人物の瞼の下を明るく照らすのに充分なものだ。
その光に起きる時間だと感じたヴォロディアは、いつものように長椅子で目を覚ました。
気怠い体を起こし、不自然な体勢で固まってしまった体を伸ばせば、そこかしこで音が鳴る。
そして体勢を整え、椅子に座り直したところで頭痛を感じた。
二日酔い? 昨日はそんなに深酒をしただろうか。いや、物資を分けてほしいという来客に言われるがままその旨を一筆書いて、またそのまま寝たはずだ。
気のせいだろう。そう軽く考えて、頭を振りその痛みを誤魔化すが、いつもより少しだけ体が重い気がする。
これは体調不良だろうか。参ったな、これでは炉の前で槌を振ることなど……。
そう考えたヴォロディアは、そこではたと考えを止めた。
そうだ、今自分は炉の前に立つことなどない。そうだ、ここはリドニック王城で、ここは今、自らの城なのだ。
彼はそう気がつき、勢いよく立ち上がる。
そうだ。今日も、この国のために皆で働かなければ。
皆で力を合わせて、この国を復興へと導かなければ。
いつものように、その目は爛々と輝いている。
水瓶に貯められた水を柄杓ですくい、ぐっと一息に飲み干せば、少しだけ頭痛が治まった気がした。
どうしてこうなった。
ヴォロディアは、目の前の書類を見つめて内心そう呟いた。
「こちらの塩採掘場で期待できるのは、日に塩を大判の袋で三十袋ほど。投資金額とあわせて損益分岐点を考えますと、現在の相場では千七百袋ほど採れたところで採算が合うでしょうか。ただ、現在木材に若干高騰の気配が見えますので、そちらを……」
目の前で、マリーヤが解説を加える。書類は、塩採掘場の開拓許可についてだ。
受理すれば、直ちに機材が整えられ、採掘が始まる。
その機材や人員の手配の準備、そして期待される利益の計算などは既に係の者が行っている。あとはヴォロディアが一つ名前を書けば受理される。そういうところまで固められていた。
本来は、ヴォロディアのところまで届く書類ではない。
国の事業ではあるが、もう少し下の部署で充分判断が可能な事業だ。しかし、ここまで書類が届いている。届いてしまっている。それはヴォロディアの指示であり、そしてその背後にいたレヴィンの考えだった。
上に立ち統べる者は、この国の全てを把握していなければならない。
軍を統べるのも、官を統べるのもその頂点に立つただ一人。
そして、その頂点は軍人ではいけない。それは、政治に秀でていなければ。
そうすれば、軍の暴走を抑えて、官を効率よく働かせることが出来る。
それが、レヴィンの発案した『文民統制』の要旨である。
故に今は、この王城で採決されるべき重要な書類が、かなりの割合でこの部屋に集まってしまっている。全てでないのはマリーヤ他幾人かの官僚の努力の賜ではあるが、それでも薄いはずの紙で山が出来る量だ。
今までは、この山は放置されていた。
他でもない。ヴォロディアの考えで。
それは簡単な理由だ。
彼はそこに並んだ数字の意味が読み取れなかった。そこに並ぶ単語の意味がわからなかった。ただそれだけだ。
元々、ヴォロディアは鍛冶師である。主に農機具を扱い、注文があれば剣や金物を扱う。その種類の。
鉄の扱いについては熟練の域だ。最高とはいえないが、それでも店を持つに値するだけの腕はある。また、それに付随した火の扱い、刃物の研ぎ、木工なども素人ではない。
だが、彼は政治に関わる書類の読み方など知らない。教えられたこともない。
市場の潮を読み、将来不足または過剰になるものを予測し対策を立てる。そんなことをしたことはなかった。暴徒や流民による諸問題についての対策など、考えたこともなかった。
無論、それを恥じる必要はない。
今までの専制政治ならば、政治など庶民が考えることではないのだ。むしろそれを庶民が学ばなければいけないような事態こそ危ぶむべきだろう。
しかし、彼らは要求してしまった。
本来読むための能力を持たない書類。ヴォロディアたちは、それを自らたちに読ませることを要求した。
それだけならばまだいい。
門外漢なりに、懸命に学ぶ姿勢を見せるのであれば。素人判断なりに、その書類を受理または却下してくれるのであれば。
しかし、彼は放り出した。
彼も、初めから諦めていたわけではない。初めはそれでも、王なりに読もうと考えた。
初めに読んだときは、ただの数字の羅列だと思った。
次に読んだときは、なんとか規則性を読み取ろうとしたが駄目だった。
故に放り出した。
近くにいた官吏の誰かに尋ねれば、その答えはすぐに教えられただろう。それがヴォロディアに理解できるかどうかは別にして。
だが彼はそんなことをするはずがなかった。
彼は職人だ。徒弟と親方の違いは心得ており、官吏は王の部下である。
徒弟制度に染まった彼の思考の中では、部下に教えを請うなど到底出来るはずもなかったのだ。
しかし、今日は何が起きたのだろうか。ヴォロディアは自分でもそう思う。
その書類を読む必要があると感じた。読めないなりに、どうにかして書類を片付けないといけないと思ってしまった。
そして何の気なしに、手近な書類についてマリーヤに尋ねたのだ。
勿論、『読み方がわからないから教えてくれ』などとは言えない。それとなく、本当にそれとなくだ。
だが、マリーヤはその意図をほぼ正確に読み取った。
マリーヤもそろそろ腹に据えかねていたのだ。
王の決裁の必要ない類いかつ、最重要の書類はそれとなくバレぬように片付けていた。しかし、それでもなお片付かない書類の山。
片付けるとしたら、自分に興味のある鉄や銃に関することばかり。
仮にも王だ。ヴォロディアに怒りをぶつけるわけにはいかない。けれど、態度に出してしまうのも時間の問題だった。
それが、今日は違っていたのだ。
執務室に現れたヴォロディアが書類を手に取った。その内容について、解説を要求した。
嬉しい変化。やはり、あの少年を受け入れたのは間違っていなかった。
そんな歓喜に舌は回る。
ヴォロディアに理解しやすいように噛み砕いてその書類の意味を述べ、それから予測される効果や利益を丁寧に説いた。
その結果、ヴォロディアは内心困惑し続けているのだが。
「また、近くにある黒土採掘場での採掘量に陰りが見られていますので、こちらを切れば塩の方に人員は回せますし……」
「ああ、ああ。話は大体わかった。ありがとう、もういいぞ」
やはり、わからない。ヴォロディアは顔に出さぬよう内心溜め息を吐いた。
まだまだ採掘が出来そうな採掘場から、人を持ってきてどうするというのだろう。陰りが見えているからといって、すぐになくなるわけではないだろうに。
それに、塩の量も流通している分が足りなくなっているわけではない。これは、急務ではないはずなのに。
「では、よろしくお願いします」
だが、ヴォロディアの目の前にその書類が押し出される。それから羽根ペンが墨壺に差されたままその横に置かれた。
もう一度、ヴォロディアはマリーヤを見る。
元は姫付きの女官である彼女の美貌はいくらも翳りを見せず、その笑顔は美貌をさらに輝かせていた。
その顔に、ヴォロディアの喉まで出かかっていた言葉が止まる。
『やはりわからなかったから、保留にしたい』と、そう言おうとした。しかし、言えなかった。
まあ、いい。
このマリーヤが決裁しろと言っているのだ。間違いではあるまい。
そう腕に力を込め、それでも一度唾を飲み込み、それからゆっくりと、ヴォロディアはその書類にサインをした。
「では、次にこちらを……」
「いや、少し休憩させてくれ」
もう次の書類を解説する気だったマリーヤの手が止まる。機先を制し、それだけ要求したヴォロディアはもうそれなりに疲れていた。
慣れれば、一目でどんなものかわかるのだろう。
そしてこの王城で働く者は誰でも、専門官には劣るものの、それでも明らかな間違いがあれば即座に指摘できるのだろう。
しかし、ヴォロディアにはそれが出来ない。
数字を追うという慣れていない行為。わからない単語を脳内で展開し、解釈する手間。それらを理解しようとする思考。全てがヴォロディアを疲弊させる。
目の奥が痺れる。肩が凝った。
鉄を扱うのとはまるで違った種類の疲れに、彼は辟易していた。
なんとか彼は、それ以上のマリーヤの講義を聞かないでいたかった。
所詮自分は門外漢なのだ。政治など向いてはいない。やはりそういったことは、出来るだけ早く投票制にして誰かに任せるべきなのだ。そう確信した。
だがそんな将来のことは今はいいだろう。とりあえず、今は目の前のマリーヤだ。
休憩といっても限度がある。
ならば、とヴォロディアは部屋の中に視線を走らせる。違う話をして話を逸らせば、書類の話に戻らないかもしれない。そんな姑息な思考だった。
しかし、やはり視界を一番に占めているのはその書類の山だ。
これを話題にすれば、きっとそのまま講義に入ってしまうだろう。故に、それは駄目。
そうは思ったが、ヴォロディアの目にはある書類の一文が留まっていた。
「……あれ」
「何でございましょうか。次はどちらの……」
自分が手に取った書類が気に入らないのであれば、違うものでも構わない。そう思ったマリーヤが話題に食いつくが、ヴォロディアの目はその書類の違う場所を見ていた。
「いや、違う話。この、度支尚書『代理』って何だ? 前はサルマンの奴がちゃんと書いてなかったか?」
ヴォロディアは、見慣れぬ表記にそう尋ねる。といっても、そうそう見たことはないのだが。
だが、サルマンという男については知っていた。
彼は、宮中において戸籍やそれにともなう税を司る度支尚書という役職に就いていた男だ。
革命時においては革命軍を宮中から支援してくれた。
ヴォロディアも、何度も話したことがある。故に、よく覚えていた。
サルマン、その言葉を聞いたマリーヤの目が少しだけ細められる。
ヴォロディアはその目に、何故か寒気を覚えた気がした。
「サルマン様は、公金横領及び収賄その他の罪で罷免されました」
「なっ……!」
ヴォロディアは驚く。
いいや、そんな男だったはずがない。あのちょび髭の好々爺が、そんなことをするはずがないのに。
「少し前に、その報告書もあったはずですが……、ああ、これですね」
マリーヤは書類の山から二枚綴りの報告書を探し出す。いつ頃もたらされた報告か、そしてその書類の増えていく経過を完璧に覚えている彼女にとっては造作もないことだ。
「十年以上前、度支尚書へと昇進したときから継続的に行われていたようです。書類を書き換え、国庫から金を引き出し続け、そして賄賂と引き替えに脱税を握りつぶしていた。その他の余罪も多々ありますけれど」
「嘘だろ……」
「現在は監視のもと蟄居を命じられておりますが、そろそろ……、いえ、そうだ確かこの辺に……」
マリーヤはもう一枚書類を取り出す。それは、本当に薄く、一枚だけの貧相な紙だった。
「こちらは私のお持ちしたものではなかったもので、失念しておりました。どうか、こちらの決裁をよろしくお願いいたします」
その紙に何が書いてあるのか。ヴォロディアは何故か恐ろしい気がしつつ覗き込む。
目眩がした。
『先の者、絞殺刑に処す』
サルマンの元の部署や、簡単な来歴とその罪状。それに続いた簡素な文章に、ヴォロディアの視界が少しだけ狭くなった気がした。
「冗談の話、じゃねえよな」
「冗談などで人の命を奪うことなど出来はしません。そちらは確かに公的な書類でございます。紋章も、司空の印も、正当なものです」
冷たいマリーヤの言葉に、また目眩がした。
何故、何故彼女は仲間だったサルマンが処刑されるというのにこんな冷静なのだろうか。
ヴォロディアは羽根ペンを遠ざける。明確な意思表示だった。
「これは俺は決裁できねえ」
「正気ですか?」
今度はマリーヤの方が聞き返す。だがその顔を、ヴォロディアは睨んだ。
「お前こそ正気の話かよ。あいつは一緒にこの国を変えた仲間だ。そんな奴が、犯罪なんてするわけがねえだろ。何かの間違いだ」
「証言もとれておりますし、いくつも証拠が見つかっております。それに、恥ずかしながら私も彼が書類を書き換える様を見ております」
「……何で」
何故。そう一言だけ口にしてヴォロディアの言葉が止まる。
何故か、などマリーヤも聞きたいくらいだ。あれはレヴィンのせいではない。本当に、気にもしていなかったのだ。
「後になって気がついたことですが、革命軍に参加していた際、その予算もそこから一部出ておりました。私も……革命の熱狂に酔ってしまっていたのでしょう」
マリーヤは少しだけ目を伏せる。そこに関しては自らも同罪なのだ。
気がつかなかった。いや、気がついていても止めなかったかもしれない。
当時は、それが正義だと信じていたのだから。
「革命軍のためにそうしたんなら、仕方ねえだろ。あいつは何も悪くねえ」
「ええ、ええ。そうかもしれません、革命軍が使っていた分に関しては、私も責める気はございませんとも。いいえ。同罪なのです。責めることは出来ない」
「だったら……」
「しかし、お忘れでしょうか。彼は十年前からそれを行っていたのです。この国が貧困に喘いでいたまさにその時も」
「……あ……」
ヴォロディアも気がつく。そう、革命軍が革命軍である以上、そこは無視をしてはいけない部分だ。
「あの頃の、曇っていた私の目には見えなかった。けれど、今ならば言えます。彼が立ったのは民のためではありません。ただ自分の保身のためです」
マリーヤのように、意思を持って革命軍に接触したのではない。サルマンは当初はずっと国側にいて、そして旗色が悪いとみれば革命軍に速やかに鞍替えしたのだ。そしてそのどちらでも、甘い汁を吸い続けていた。
マリーヤは墨壺を押し戻す。ヴォロディアはそれを押し返すことが出来なかった。
「もう、先王に対する不満を叫んでいれば全てが不問になったあの頃とは違うのです。今はもう、先王はいない。罪は罪、罰を与えねば示しがつきません。さ、ヴォロディア王。こちらに記名を」
民ならばいざ知らず、官職に就き更に低くない地位にいた人物だ。その絞首刑には、王の記名が不可欠だった。
しかし、やはりその手は伸びない。
「……すまん、少し考えさせてくれ」
「出来る限り早めにお願いいたします。長引けば、彼の罪状や王の権威を疑う者も出てくるでしょう」
このまま執行までの時間が長引けば、その事情を勘ぐる者も出てくるだろう。今はまだ絶大な人気に支えられているヴォロディアも、その人気が無くなれば危うい。
それに、時間を与えれば彼から甘い汁を吸っていた者達も騒がしくなる。
革命後、再編された官の中で、まだ地盤が固まる前に。マリーヤはそこを狙っていた。
証拠の数々。その入手先を考えれば、元々革命以前から彼は目をつけられていたのだ。
他でもない。先王に。
しかし、彼から甘い汁を吸い続けている者達も無力ではなく、少しずつ力を削ぐことしか出来なかった。
勢力が大きすぎて見逃されていた。そう言ってもいいだろう。
そこだけはマリーヤもまだ納得できなかった。
何故サルマンは罰されずに、父は殺されたのだろうか。
父は、刑罰を受けたのだ。それも、飢えた民衆に兵の食物を分け与えた罪で。
だがそれも、今となればほんの少しだけ、ほんの少しだけわずかにわかってしまうのが口惜しい。
その兵達は、今も北で必死に戦い続けている。彼らの兵糧を奪うことは、北の防衛戦への負の支援だ。
寒かった冬。彼らの食物を王は優先していた。
父が手をつけたのは、そういう食物だった。民を魔物の餌にしないため、兵を生き長らえさせるための食物だったのだ。
だが、やはり心情的に納得はいかない。きっと今目の前に王がいれば、この手で八つ裂きにしてしまうだろう。そしてそうなれば憎しみに任せて、王妃も、大事にしていた姫も、まとめて肉の塊にして魔物に差し出してしまうだろう。そんなささやかな憎しみは今も残っている。
父は死んだ。
しかしもう、憎むべき王も死んだ。
憎しみをぶつける相手がもうこの世から消えている。
だからとは言わない。けれどマリーヤは憎んでいた。
この国を蝕む寄生虫を。父のような高潔な意志もなく罪を犯し、そして責任もとらない者たちを。蝙蝠のように居場所を変えながら、生きながらえている連中を。
今回サルマンの罪が露呈したのは、まだ地盤が固まっていたからというだけではない。
その上、偽造された架空の書類が偶然見つかった。しかも、見つけたのが官の悪癖に染まっていない若い監察官だった。
そしてその若い監察官が、その監察官の長官である司空と強い繋がりを持っていた。
そんな偶然が重なった結果だ。
誰が告発したわけでもなく、そしてほぼ直接司空に持ち込まれた故に慣れたサルマンにももみ消すことが出来なかった。
それは偶然だろう。奇跡のような偶然だろう。
そんな奇跡のうちの一つに、監察官に見つかった書類が、証拠となり得る上に、芋づる式に他の証拠や関係人物まで明確に読み取れるものだったということがある。
そんな的確な書類を誰が運んだかなどは、きっと些細なことだろう。
一人の小悪党を罰することが出来る千載一遇の機会。
これを逃すのは悪手だろう。
しかし、筋は通さなければ。今は国王であるヴォロディアの決裁がなければ、裁くことは出来ない。
故に今のマリーヤには、促し待つことしか出来なかった。
しかし、光明はある。
書類の決裁を、自ら進んでヴォロディアが行った。それは小さな前進だが、大きな一歩だ。
これでもあのわがまま姫の話相手を何年も勤めてきた。
口車に乗せて、書かせる自信はある。
「な、じゃあ、こっちのやつを……」
「わかりました。こちらは、南にある街の兵員増加の嘆願ですね。立地からすれば魔物は雪海豚が周囲にいるくらいなのですが……」
悩んだまま、その答えを出せずに次の書類で気を紛らわせようとするヴォロディア。
今はこの状況を利用して仕事を片付けてしまうべきだ。
そのヴォロディアの内心をほとんど正確に読み取りながら、マリーヤは目の前の書類に意識を移していた。




