地獄の門
「……そんなに大した壁じゃなさそうですけど……」
僕はその壁に歩み寄る。実際のところはまだわからないが、それでも見た目はそう硬そうなものでもない。掘削も容易そうなものだが。
しかし、その肩をグッと後ろから掴まれ、強引にその動きを止められた。
「迂闊なことすんじゃねえ! 一歩下がっておとなしくしろ、ジジイてめえもだぞ!」
グーゼルは叫ぶ。そして、僕が歩み寄るのに合わせて近づこうとしていたスティーブンも、睨んで止めた。
「……そういえば、叩いちゃいけないんでしたっけ」
そういえば、そんなことを言っていた。膨らむとかなんとか言っていたが……。
そうだ、その手やら足やらというのもどうしたんだろう。
見た目は今のところ白一色の壁だ。
大理石のようでもなく、光を弾かないプラスチックのような壁。どこかに彫刻でもあるのだろうか。
説明を求めるようにグーゼルを振り向くと、グーゼルは僕の顔を見て喉を鳴らした。
「この壁は、どこまで続いているんですか?」
「誰も知らね。このままどこまでも続いているんだろ。横も、縦も。あたしらはこの雪原まで来て歩き回ることも多いけど、その端っこも見たことがねえ」
「いえ、でも……」
僕は逆に後ろ向きに歩いていく。
一歩ずつゆっくりと歩いて行けば、ある地点でまた不思議なことが起こった。
すぅ、と壁が見えなくなる。
それは、吹雪に紛れてしまったのではない。ただその向こう側が、透けて見えるようになったような……。
「……向こう側、あるじゃないですか」
風景が見えるとかそういうことではない。しかし、明らかに壁があったはずのところに空間がある。積もっている雪しか見えず、向こう側に何があるかなど見えないのは吹雪のせいだろうが。
どういうことだろうか。
近づけば生成される壁? まるで侵入を拒んでいるような……。
「まあ、壁の位置も一定じゃねえんだ。その日によって近づいたり離れたり。今日は若干近めだったんだよ」
なるほど。だからグーゼルもこの近辺で立ち止まってゆっくり歩き始めたのか。大体はわかるが、正確な位置がわからなかったから。
「今、見えない状態でも壁はあるんですか?」
「あたしの目には見えてるし」
「……では」
僕は足下の雪を拾い上げ、雪玉を作る。そしてそれを放り投げてみようとして……。
「おいぃぃぃ! 話聞いてたかバカァ!」
グーゼルに止められた。
「刺激すんなって言ってっし! 叩いちゃいけねえって何度言ったら……」
「駄目でしたか」
ちょっとした実験をしてみようとしただけなのに。まあ、今のは僕が悪いけど。
「では、膨らむというのはどういうことですか? 破裂するような……?」
「あ、ああ、膨らむってのもちょっと違うんだが……、ああ、まあ実際目で見た方がいい。触ってみ」
「いいんですか?」
雪玉を投げつけてはいけないのに、触ってみるのはいいのか。
その辺りの区別はよくわからないが。
「いいか? 触るだけだぞ? 力を入れるなよ? 指を押しつけるなよ?」
「そんなに敏感なんですか」
歩み寄り、人差し指を近づける。その指が壁にだんだんと近づいていくのにつれて、グーゼルの体が緊張していく。まるで、こちらに飛びかかろうとしているように。
「ええと、触りますよ?」
「気をつけろよ」
グーゼルの目が険しくなる。睨んでいるわけではない。緊張しているのだ。
「では……」
ピト、という擬音が相応しいほど、わずかに壁に手が触れる。
まだ力を込めていない。垂らした糸すら揺れないほどの、ほんのわずかな接触。
だが、変化は起きた。
触れた瞬間、水面に波紋が広がるように、壁が揺れる。
その次に、ぼこぼこと沸騰するようにその表面が荒れ始めた。そこまで、一瞬だった。
次に伸びてくるのは、白い『手』。
まるで石膏が象った手のようなものが、僕の顔めがけて伸びてきた。
「のわっ!!」
驚き飛び退くが、それだけでは終わらない。
薄いゴムの膜を人が突っ切ろうとしているように、手だけではなく体の形が現れる。
一人だけではない。何人もの白い人形が、こちらに向けて手を伸ばしていた。
人形、といってもその様は異様なものだ。その顔は凹凸がなく、だが鼻は出っ張り口がくぼむ。その口が何事かを叫びながら僕へと迫る。
完全な人型だけではない。足だけ、手だけ、というのもたくさん。
飛び退いて躱したと思った。
だが、見誤っていた。
僕の服の裾に白い手の先が触れる。すると、どういうことだろうか。
粘土に食い込むようにその裾が手に巻き込まれ、そして手の方も握りこむように形を変える。
「……にっ……!!」
不安定な姿勢の僕が引きずられる。その僕にまた迫ってくるのは、まだ引っ込んでいない手や顔。それらも、僕を捕らえようと、必死にもがいているように見えた。
「フッ!」
まずい、と思った僕の目の前を、神速の手刀が通り過ぎる。
その手刀は僕の裾を引きちぎり、そしてそれを放ったグーゼルの体が僕の体へとぶち当たる。
はじき飛ばされ、背中から雪へと落とされる。が、僕の目はそのまま白い手足を追っていた。
彼らは残念そうにこちらを見て、まだ追うような意思を見せる。しかし、時間制限があるのか、距離の制限があるのか、その表面がまた揺れて、引きずり込まれるように壁の中へと消えていく。
そして、また静寂。
壁はすっかり、元通りの平面に戻っていた。
「……とんでもないのう」
スティーブンがぽつりと呟く。
同感だ。これは、壁、という括りで本当に合っているのだろうか。
「ありがとうございます」
「痛て……」
受け身を取れなかったようで、頭から雪に突っ込んだグーゼルは顔に着いた雪を払い落としながら起き上がった。
「なぁ? わかったろ? あれは触っちゃいけないんだって」
「よくわかりました」
本当に、よくわかった。あいつらは、僕を引きずり込もうとしていた。壁に触った僕を。
「つまり、壁に接触するとあやつらが出てくるのかのう」
「そう。そして、強い衝撃ほどあいつらはより多く、より遠くまで伸びてくる。そして、伸びた部分に触った生き物を、壁の中に引きずり込むんだ」
「切っても叩いてもいけないとはそういうことか……」
スティーブンは顎に手を当てて思案する。高山病の影響はもうないようで、すっかり元に戻っていた。
「記録に残っているのは大体百二十年くらい前かな。いや、百三十年……、まあいいや。それくらい昔に、大規模な掘削を行おうって話が出た。千年以上前から触っちゃいけねえ壁だったはずだが、その当時の王がこの向こうに行こうとしたんだ」
「建国前からあるんですか」
「そうらしい。んで、そのために、少数精鋭の選ばれた掘削師が何人もここに呼ばれて……」
「飲み込まれたと」
スティーブンの言葉にグーゼルは頷く。
確かに、グーゼルがいなかったら僕も危なかったと思う。それを、知らないで躱せる人間がどれほどいるだろうか。
「あたしはよく知らんけど、火薬を棒状に固めて壁に差し込んで、何本も一気に爆破して穴を開ける計画だったらしい。ま、その火薬を入れる穴を開けるときの事故だな」
グーゼルは肩に担いだ両手を振り下ろす。これは、ツルハシか何かか。
「穴を開けようと叩いた衝撃で、さっきの白い奴らが膨らんで現れた。そして、作業員達を飲み込んじまった。しかも、衝撃が大きいほどその白い奴らが消えるまでの時間が長いみてえで、消えるまで三十年以上かかったみたいだし。当初はあの山まで飲み込むほどあったらしい。あたしが子供の頃にもまだあった」
「……ほう」
先ほどの奴らがわずかな時間で消えたのは、わずかな接触だったからか。
いやしかし、ツルハシを入れるだけで三十年……。普通の攻撃ならば、何年かかるのだろうか。
そんなに硬い壁ではないという感じだったし、障壁を張りながら飲まれればいけるかとも思ったがそうでもないのか。
障壁が機能するとしても、障壁の接触でこの壁が反応するのであれば、少し移動しただけで外が大惨事になってしまう。
とは思ったが、次にグーゼルが発したのはそれを覆しそうな情報だった。
「一応、対抗策もあるんだ。魔物やら人やらが飲み込まれると、消えてく速度が早くなるらしい。魔物が激突したときは、そんな衝撃でもすぐに消えるしな。その発見がなかったら、未だに残ってただろうなぁ……」
……ならば、いけるか。いや、飲み込まれた生物がどういう様子だったかがわからない。中に飲み込まれた生物が死んだから、ということもあるかもしれない。
大量の魔物を生け捕りにしてここに置いておけばいいかもしれないが……。
「魔物や人以外は無事なんですか?」
「動物以外はな。山も木も、何にも影響は受けねえみてえだな。だって、ほれ」
グーゼルが壁を指し示す。一瞬意味がわからなかったが、しばらく見てようやく意味がわかった。
障壁に雪が着く。それも、壁側に。
「吹雪が貫通してきてますね」
「ああ。風とかそういうのは全く影響を受けねえ。人が吹きかけたものでもねえ限りな。そう、このままどこかに繋がってると思ってもおかしくねえんだ。だから多分、妖精の国とやらも……」
「先人が、この先に何かある、と思ったからか……」
スティーブンがまとめる。肩を落として落胆した声で。
「千年以上前から、その白い人形は知られていたんじゃな。そして、その何十年も残る性質も」
「……ま、そんなとこだ。落ちはついたみてえだな」
二人は頷きあう。どちらも、本当に残念そうな顔で。
要は、バナナ型神話だったのだ。
こちらの世界にそんな言葉があるかは知らないが、多分そんなところだ。
この先には、まだ雪や雲が存在する。ならば、行き来がないだけで『国があるかもしれない』。
そして、遮るのは白い壁。それは『変わらず』そこにあって、しかもそこから発生した人形は『なかなか消えない』。
そして、山を越え吹雪の中を歩まねばならないほどの難所にあるという神秘性。
そんな印象が長年積み重なれば、不老長寿の生き物を、そして不老長寿へと生物を変える秘薬を想像するに足りるだろう。
いや、実際不老長寿の生き物がいる世界である以上、その想像は容易なはずだが。
「ま、気を落とすなって。まだ若いあたしが言うのもなんだけどさ」
「いや、多分年上じゃよ。いや、年上でござりましたか。ここまで案内していただき礼を言わんと」
ははー、と平伏するような仕草を交え、スティーブンは頭を下げる。そういえば、百三十年前に起きてから三十年ほどで解決した事件を、幼少期に体験しているとはそういうことか。
「ば、あたしは花も恥じらう乙女だし!」
「カラス殿も、すまんのう……。儂のわがままで、無理な旅をさせてしまった」
「いいえ。特に無理なことはしていませんので」
グーゼルを無視して僕に笑いかけるスティーブンに、僕はそう答える。
大変なことなどなかった。障壁を張るのも移動するのも、僕にとっては片手間でも出来ることだ。
それよりも、スティーブンの笑顔が、無理をしているように見えるのが気になるくらいだ。
「じゃ、こんなところに長居せんでもよかろう。カラス殿、悪いがまた運んでくださらんか」
「……いいんですか?」
今すぐには思いつかないが、まだ検証できることもあるだろう。それこそ、このまま東西に向かって端を探してもいい。
だが、スティーブンは笑った。
「良いも悪いもないわい。グーゼル殿が見たことがない以上、端はない。上にも限りが見えん。この壁を越えるのは、儂には無理じゃ」
「ジジイ……」
「スティーブンと言っておろうが。いや、言っておりましょうが」
グーゼルの気遣いを止めるように、スティーブンは悪態を吐く。
それをわかっているのだろう。グーゼルも反論はしなかった。
「まあ、いつか死にそうなときには飲まれてみるのもいいかのう! 誰も戻ってこんのじゃ。案外、飲まれた先は良いところかもしれんし」
「洒落になりませんね」
行き先がわかっているのであればいいが、行き先がわからない以上それは単なる自殺行為だ。
僕の言葉に、ははは、と空笑いで返し、スティーブンは上を見上げる。
雲に飲まれる高さまで、一直線にその壁は続いていた。
「……さて、帰るか。帰り道は正気を失わんようにせんとな……」
「一応、上まで行ってみますか。飛んでいけますよ」
「ははは、年寄りの楽しみを奪うもんじゃないわい」
僕の申し出に答えたその言葉は、少しだけ噛み合ってないように思える。
しかし、察することは出来る。
「……じゃ、いくか」
「ええ」
スティーブンは、確かめて欲しくないのだ。
事実はわからない。実は、上の方には向こう側に通じる道があるかもしれない。
けれどそれが、本当にないという事実を、知りたくないのだ。
僕らは白い壁に背を向ける。そして、スティーブンはもう振り返らない。
『この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ』という文句をどこかで聞いたことがある。
スティーブンは、希望を捨てないことを選んだ。
だから、とは言わない。
けれどこの白い壁はきっと、誰もくぐり抜けることが出来ないのだ。
そう諦めた僕らを見て、壁の向こうで誰かが笑っていた気がした。




