貴方様の名前は
いつもの時間帯でなくて申し訳ないです。
こちら昨日投稿分です、明日も通常通りです。
僕は、雪鯱の下で俯せに倒れているシロイ……じゃなかった、スティーブンに駆け寄る。
雪鯱の重みと衝撃で作られたクレーターのような窪みの下に、一人と一頭はいた。
近寄ってみれば、スティーブンは息をしており、呻いて雪鯱を払いのけようとしていることからしても無事らしかった。
「大丈夫ですか?」
「ぬぎぎ、問題、ないわい……」
這うようにして、雪鯱の下から脱出してくるスティーブン。上半身を出したところで息が切れたようで、一度腕の力を抜いたように体を落とした。
「いえ、でしたら……」
僕は言葉の途中で口を閉ざす。見えたからだ。脱出しようとしたスティーブンの体に引っかかって来たのだろう。木製の柄が。
「大丈夫そうですね。では、返していただきます」
その柄を掴み、引き出す。それなりに念動力で補助をしたが、そう苦労はしなかった。
僕は、ホッと胸を撫で下ろした。
「折れてなくてよかった。じゃ、スティーブン殿も頑張ってくださいね」
「儂の心配じゃないんかい!!」
僕の言葉に弾かれるようにして顔を上げたスティーブンが叫ぶ。何を心配するというのだろうか。
「この程度で何とかなるような方ではないでしょうに。それに、何処のどなたか存じない方を助けて、何かあったら困りますし」
「冗談やめてこいつをどけてくれんか、なあ」
「はて、何処かでお会いしたでしょうか。シロイ殿に似ていらっしゃいますが……」
「あ」
あくまでも惚けた言葉。僕がそこまで言ってようやく気が付いたのだろう。
スティーブンは、気まずそうな顔をして黙った。
目を逸らしたスティーブンの顔を上から覗き込む。
「で、何で偽名なんて使ったんです?」
「それはその、じゃな、別に騙そうとかそういう気はなかったんじゃが、つい、な? つい……」
「それが何かの事情とかだったらまだいいんですが、でしたら先ほど自分で名乗るのは駄目じゃないですか?」
僕の追及に吹っ切れたのか、スティーブンは先ほどのように明るく笑った。
「ガハハ、許せ、ついやってしもうたんじゃ。ついいつも通りに名乗りを上げてしもうてな。そうじゃ、儂はスティーブン・ラチャンスという者じゃ」
「そうですか。初めまして」
軽口はこれくらいで良いだろう。僕は念動力で雪鯱を持ち上げると、クレーターの外に置いた。雪の氷面に張った氷にそれだけでヒビが入るということは、本当に重い。
零下何十度にもなるこの土地で張った厚めの氷。それなりに強度はあるはずなのに。
「ふう」
荷重が消えてすんなりと立ち上がったスティーブンは、力が抜けたように息をついた。
金属製の鎧に変化がないのは闘気で強化しているからだろう。
というか、鎧のおかげで苦しくもなかったと思う。
気を取り直して、というふうにスティーブンは周りを見回す。
呆気にとられた観衆を見て、恥ずかしそうにニカっと笑った。
「……もう周りにはいないようじゃな」
「そうですね。今のところは」
一応は脅威は去っている。小康状態ということかもしれないが、今のところは敵もいまい。
とりあえず上へ、と僕が歩き出すと、それに続くようにスティーブンはクレーターの坂に足を掛けて力を込めた。
「あでっ!」
そしてそのまま、ズルンと足を滑らせ、また這う形になる。咄嗟に腕を出したおかげで顔面からの着氷は避けられたようだが、それでも少し痛そうな格好だった。
「……お手をお貸ししましょうか」
「そうしてくれると大変助かる」
先ほどまでの威勢は何処へ行ったのだろうか。スティーブンが両手で僕の腕を持ち、僕は少しだけ浮かびながら引っ張り上げる。
どこからどう見ても、先ほどの勇姿は影も形もなくなっていた。
皆帰投準備に入る。
雪海豚の死体を布で包み、ソリに積むように乗せていく。原型を留めているもの限定だが、それでも山のような量になった。
それに加えて、雪鯱も一応運んでいくらしい。僕がスライスした方は分担していくつかのソリに積み運び、スティーブンが投げ飛ばした丸のままの方は縄をいくつも打ち込みそのまま引っ張っていくようだ。
「これくらいしてくれたまえ。君たちには報酬を払っているんだからね」
そう、もっともらしい事を町長が言ったために、死体と怪我人の運搬はほぼ探索者の仕事になった。
周囲を五人の衛兵が哨戒しつつ皆で隊伍を組み、移動をはじめた。
ちなみに僕とスティーブンが運搬に加わるのは、他の探索者たちに拒否された。
戦果でいうなれば、討伐成功は僕ら二人の力が大きい。そのため、ここまで僕らが加わったら、自分たちは何をしに来たのかわからなくなる、ということらしい。
いや、僕が足止めをしたものに止めを刺していった者が何人もいるし、役には立ってるのに。殊勝なことだ。
まあ、他にも理由はあるのだろう。
僕らは念のため、隊の後ろを歩く。もし何かの襲撃があったときに、押さえてくれとの探索者たちの無言の催促だ。
騎士を伴い町長は先に帰ってしまったため、もう最高戦力が僕らしかいないのだ。それも当然か。
だが、探索者たちはそこも少し間違えている気がする。
僕は、隣を歩くスティーブンに目を向けた。
「それで、偽名の理由をまだ聞けていないんですが」
「うっ」
そこまでは意気揚々と歩いていたのに、突然体を硬直させたかのように動きが硬くなる。左右の手足を同時に出して歩いているほどに。
偽名。小さな嘘だが、一応確かめておかなければ。
無意味な嘘ならばいい。僕に不利益はなかったし。
しかし、何か意味のある嘘ならば、それは少しだけ問題だ。今僕が名前を知っても何もないことからしてそれはあまりないとは思うが、そのせいで僕が何かの被害を被っているのであれば大問題だ。
周りをきょろきょろとみながら、スティーブンは声を潜ませる。
「……一つ約束してほしいんじゃが」
「ものによります」
「つ、冷たいのう……」
当然だろう。約束は守らなければいけない。不用意なことなど出来ない。
「約束という言い方が悪かったな。頼みじゃよ、頼み。儂は伏してお願いする立場じゃ」
「何です?」
「ゆ、雪海豚の事じゃ」
恥ずかしそうにスティーブンは目を逸らす。雪海豚のこと? どういうことだろうか。
一瞬戸惑ったが、両肩に手を添えられ、意を決して真っ直ぐにこちらを見るスティーブンはその先を口に出した。
「儂が雪海豚から無様に逃げとったこと、黙っておいてくれんか、のう?」
「ああ、本当の初対面のことですか」
そういえば、最初は雪海豚から逃げているところを助けたんだっけ。『月野流の関係者』という立場を考えて。
……まさか、そんなことで偽名を使ったのか。
そんな、一時の恥でアイデンティティの一部である名前まで変えたのか。
「は、恥ずかしくてのう……。いや、儂はあのスティーブン・ラチャンスじゃぞ? 儂の醜態はその名を下げてしまうし、ひいては月野流の恥にもなってしまう。だから、つい、ついの?」
「その名前に何の意味があるかわかりませんが、まあ、知られたくないというのであれば吹聴する気はありませんよ」
「な!? 儂を知らんじゃと!?」
驚き大きな声を上げるスティーブンに、最後尾近くの人の目が集まる。だが何かが起きたのではなく、僕と話していると知れると、また自分たちの仕事に戻った。
「え、ええ。申し訳ありませんが、そういったことには疎いもので。何処かで活躍でも?」
「月野流を知っとるのに儂を知らんじゃと? クリスやエースのやつから何も聞いとらんのか?」
「そうですね。そもそも月野流のご門人はクリスさんとその下世代のバーンさんしか知りません。エースさんという方からしても初耳ですね」
同列に出てくるということは、クリスと同じく師範代だろうか。まあ、関わるとしたらクリスくらいしかいないし別に知らなくても良いことだと思うけど。
「バーンというと、クリスが目を掛けとる若者じゃな。儂も何度か見てやったことがあるが、なかなか筋の良い奴じゃったよ」
「へえ、見てやった、ですか」
ちょっとした言葉の綾かも知れない。けれど、その小さな言葉が僕の中に引っかかった。
あれ、これはひょっとするとひょっとするかもしれない。
まあ、これだけ友好的なのだ。そのまま聞いてしまえばいいか。
「もしかして、月野流の師範でいらっしゃいますか」
「そうじゃよ、……そうじゃよ! なんで今頃なんじゃ!?」
「いえ、そんな気がしたので」
まさかとは思ったが、当たりか。そうか、今現在道場にいない月野流の師範、そんな名前だったのか。
武門では、師弟関係の序列は大きな意味を持つ。そして同じ師を持つ同世代であっても、後に弟子入りした者は、年下であっても先に弟子入りした者よりも格下となってしまう。
クリスの下の世代を、『見てやった』と表現するのはクリスと同世代かもしくは上の世代のみ。つまり開祖かその下世代のみだ。
そして、見るからに老齢だが、たとえば水天流ならば老人と若者で鍛錬の期間が違うことは理解しやすい。千年の歴史を持つ水天流であるならば、老人は子供時代から鍛錬しているとしてもおかしくない。
しかし月野流は歴史の浅い流派だ。それは、門下生の鍛錬時間による優劣がつきづらいと言うことを意味している。門下生は皆平均的に水天流よりも若いのだ。歳をとってから学びはじめた強者もいるかもしれないが、それであれば『月野流を身につけて』強い者、という感じではないと思う。
なので、『開祖か師範代と同格の』『月野流を身につけた』『老人』を考えれば、一番しっくりくる者は、開祖となる。
多分名前自体も僕は何処かで聞いたことがあるとは思うが、聞き流していたかもしれない。正直、どうでもよかったし。
「やはり儂じゃのう、すっかり名前が知れ渡っておったわ。流石、天下無双の月野流、しらん者はおらんからのう!」
僕が知っていると思ったやいなや、急に元気になるスティーブン。現金なことだ。
だが、一つ本人すらも忘れているらしい。大事な物を持っていないことを。
「天下無双流ならば、帰るまでに雪海豚が出たらお任せしても大丈夫ですよね」
「う、ぬ、あ……」
僕の言葉に、痛みなどないだろうに脇腹を押さえて呻く。天下無双、なのに雪海豚から逃げ惑っていた理由がまだ残っているだろうに。
「ま、今日の報酬はすぐに出るでしょうし、それで剣を買うか衛兵から譲ってもらうかするんですね。街に帰るまでは付き合いましょう。何があっても手出し無用です」
「助かる! いや、やはり持つべきは忠義な弟子じゃな」
「やはり前言撤回しますので、次はよろしくお願いします」
いきなり喧嘩を売られた気がするので、そのまま返す。誰が弟子だと。
「……冗談じゃというに。すまんな、頼んだ」
スティーブンは、今現在の立場が下というのは理解しているようで、僕の言葉にすぐに首を縦に何度も振った。




