雪イルカ
まず、足下にあるのは不自然なほどにわかりやすい境界線だった。
砂浜と海の関係のように、ある場所で地面と雪原が分かれている。ある地点までは普通の乾いた泥の地面。そしてそこから段差もなく、平坦にそのまま白い雪が積もる。積雪が浅いわけではない。多分、地面が積雪に合わせたように低くなっていっている。
奥へと足を踏み込もうとしたが、その先の新雪を見て、勿体ない気がして僅かに躊躇する。
じわじわと下がっていたからそう気にもしてなかったが、そういえばそれなりに寒い。
イラインではもうすぐ夏だというのに、あたかも冬に戻ってしまったかのような光景に、僕の中で違和感が募る。
寒い。たしかにここは冬の世界だ。だがまるで、地面に綿を撒いただけというような気がするくらい、現実感がない。
ただ、目の前の光景は本物だ。
本物の雪に、照り返す日光。
眩しく白いリドニックの国土は、そうして僕を迎えた。
僕は冷たい雪を手の中に握り締めて、感心の息を吐く、掬ってみれば、それはやはり雪だ。
ミールマンの人間が厚着していたところからしてそうだったが、ここにきてさらに強くなった気候への違和感。イラインの人間からすれば、まるで季節感のないでたらめな気候。
だが、ソーニャも言っていたか。『年中雪が降る』と。
差し込んでいるのに熱を感じない日の光は、青空に光の輪を作る。
ネルグの森はその雪までは浸食できないらしく、その雪の手前で途切れていた。そして森が途切れたことで、匂いも途切れる。
澄んだ空気。嗅ぎ慣れた森の匂いの代わりに、それが僕の肺を満たした。
「……さて」
新雪の中に一歩踏み出す。雪で、ここまで歩いてきた道らしきものも途切れている。
リドニックとエッセンの間で行き来が無いことはないだろう。多分、今は晴れているだけで頻繁に雪が降るのだ。そのせいで、足跡が消えてしまっている。
一応道しるべらしき盛り上がりがあるのだが、雪で埋もれてただの山のようにも見える。
まあ、これだけ見晴らしがいいのだ。僕ならば、迷うこともあるまい。
一度溶けてから固まったのだろう。表面が固まった雪を踏み砕きながら、僕はそのまま真っ直ぐに歩き始めた。
ただ、一応確認をしておこう。雪の小さな盛り上がりに近寄り、手で払いのけてみれば、それはやはり道しるべのようだった。
しかし、長年の雪のせいで氷漬けになっている。僕の背丈ほどの雪の山を一回り小さくした氷の山。さらにその中に、黒い石で出来た柱のようなものがみえる。目立つようにだろうか、その頂点には赤い布が付けられているが、氷と雪のせいで無意味なものとなってしまっている。
見えなくとも、それがあるということがわかれば充分だ。
つまり、この山を辿っていけば何処かには着くわけだ。一番近くかはわからないが、それでも近くの街や何かに。
一面雪の平面の中にある盛り上がり。それはそれなりに目立つ。
いよいよ、僕が迷子になることはなくなった。
迷子になることはない。
だが、少しだけ問題が出てきた。この雪原に足を踏み入れたときから思っていたことだが。
「……何もない…………」
口に出した言葉が何処にも響かずに消えてゆく。
そう、本当に何も無いのだ。見渡す限りの銀世界。遠くに雪山が見えて、あとは道しるべが列をなしている。ただそれだけ。
雪のせいだろう。微かな風の音以外はほとんど音もなく、僕の体が出している音しか僕の耳には入ってこない。
一色のみの平坦な道だ。道しるべがなければ遠近感すらわかりづらい。振り返ってみれば、一直線に僕の足跡が伸びている。太陽と雪山と道しるべがなければ方向感覚すらなくしてしまう銀世界。
生き物すらいない。
干し肉を囓りながら、ため息を吐く。正直、飽きてきた。
意を決して上空まで飛び上がる。
自分の足で歩くという楽しみはこれくらいでいいだろう。とりあえず、何処か何かある場所へ行きたい。
この雪原の入り口。先ほどまでならもう地平線の向こうにあったその境界線が見える高度まで上がると、奥まった方へも視界が広がる。
雲一つない青空の下、何かあればすぐ見つかるだろう。
そう思ったが。
雲一つない青空でなくとも、見つかるものがあった。
耳を澄ませば、それなりに音が響く。地響きというか、雪響きというか。
上空からの視界で、ようやく見つかる雪煙。それは、風の起こしたものではなく、というか自然の起こしたものではなく。
人の起こしている雪煙。微かに聞こえるのは、悲鳴だろうか。
とりあえず行ってみよう。
面倒ごとならば逃げるけれど、それでもこの殺風景なところを歩き続けるのは飽きた。
そう思い、近寄っていく。姿を隠しながら、胡麻粒のように見えていた雪煙が小屋ほどの大きさになるほどまで近くに寄れば、やはり、人が逃げていた。
「ぬおぉぉぉぉぉ!!」
その雪煙の先端で、鎧を着た老人が叫ぶ。その後ろ、雪中からも音が聞こえるということは、何かに追われているのだろう。白銀の鎧が照り返す光が眩しい。
しかし、どうしようか。
こっそりと併走しながら観察すれば、老人はそれなりに大きな荷物を持って走っている。健脚。そして、速さも上々。後ろに追っているのが何かはわからないが、それでもこの分なら追いつかれはしまい。
……放っといてもいいだろうか。
別に命の危険はなさそうだし、当然僕と関わりはないわけだし。
そう思った。だが、その背中に気になるものを見つけた。
老人の持っている大きな荷物。そこには旗が立っている。
そこに大きく書かれていた文字は、僕も知っている言葉だ。
姿を見せて、地面に思い切り拳を突き入れる。
衝撃で雪が舞い、追っていた何かの姿が見える。
「何やつ!?」
後ろで老人が叫ぶが、それよりもまずこの何ものかが問題だ。
姿を見せた、と思った。白くつるんとした皮膚。一見するとゴムのように見えるその肌は、衝撃に強そうだ。そして、その体の運動性能はそれなりらしい。
赤い口内を見せながら、それが迫る。細かい歯は鋸のように鋭く、だが今日は何も食べていないのだろうか、これまた白い歯が見えた。
下顎を下から払うように突き上げる。跳ね上がり、腹を見せたその魚体のような形。そこに蹴りを入れると、口から空気を吐き出しながら、そのイルカは弾き飛ばされていった。
「……これが雪海豚ですか」
マリーヤが言っていた気がする。雪原を泳ぐ海豚がいるとかどうとか。
なるほど、見た目は昔見た海豚にそっくりな気がする。もっとも黒い柄もなく、そもそも雪の中を泳いでいる時点で海豚ではないのだろうが。
雪の上で少しだけのたうった海豚は僕の方を見て、それからもう一度跳ねる。
雪の中に頭を突っ込み、それから体を揺らして中に入っていく。
それから、雪が割れる音が雪中から響く。それが遠ざかっていくということは、逃げていくのだろう。野生動物としては正解かな。
まあ、今はお腹空いていないし、追撃せずともいいだろう。
それよりも。
僕は振り返る。そこには、僕を不思議なものを見るような目で佇んでいる老人が一人。
その老人自体に興味はない。けれど、その老人の背負っている旗。
それが本当ならば、ここで恩を売っておくのもいいだろう。
「ご無事ですか?」
「おお。何というか、凄まじい腕じゃのう……」
「いえいえ。それほどでもありません」
「謙遜するでないわ。剣をなくしたとて、この儂が危なかったんじゃ。まったく、災難だったわい」
老人がため息を吐き、自らの腰を示す。そこには、剣がない鞘だけが差してあった。
正直、この老人がどれほどの腕かはわからない。けれど、剣がなかったから手が出せなかったというのは、僕も流石に謙遜だと思う。
だとすると、どうして逃げていたのかわからないけれど。
「それこそご謙遜を。……月野流の方が、あの程度の魔物に勝てないはずがないじゃないですか」
僕の言葉に、老人は背中の旗をさっと隠す。
「は、はは、これは参った。恥ずかしいところをみられてしもうたわ」
老人の手で隠された旗。『天下無双 月野流』という文字が、風で煽られて再度僕の目の前で踊った。




