閑話:夢を見れない大人たち
SIDE:聖騎士 後編
通陽口。
光も差し込まない暗い穴の中、ウェイトは駆け下りていた。
駆け下りるというよりは飛び降りるといった動作の方が正しい。周囲に張り付くように設置されている階段を足場に、ただひたすら底に向かって降りていった。
もとよりウェイトはミールマン出身だ。通陽口を吹き上がる熱気の間隔は把握している。
しばらくは熱で体が焼かれることはないと確信しながら、それでもいつでも廃棄階層の壁を突き破り中に逃げ込めるように注意をしながら、二百階層近い穴を跳び回っていた。
特に強い理由があったわけではない。
その底に、宝物を求めたり、死に場所を求めるようなこともない。
だが、ウェイトはそうせずにはいられなかった。本人にとっては差し伸べた手。それを振り払った孤児と、その孤児を唆していた子供の言葉が、頭の中で反響を続けていたのだ。
『真っ当に手に入れた品』
『シャナさんにも、モスクさんにも失礼』
彼らは、自らの潔白を主張し続けた。それが本当なら、恥ずべき事態だろう。
自分は彼らの言うことを信じなかった。頭から、そんなわけがないと思い込んでいたのだ。
だが、やはりそれも当然だとまだ思っている。
石ころ屋の関係者。それに、この街で廃棄階層の一部を不当に占拠する孤児。彼らの行動に、犯罪が絡んでいないなどありえない。
そう思っている。
だが、モスクというあの子供の目。その真っ直ぐな目を思い出すたびに、ウェイトの心の何処かに痛みのような何かが走った。
その何かを鎮めるのは簡単だ。彼らに、その何かを譲った者を探し出せばいいのだ。
もしも見つからなかったのであれば、彼らは嘘を吐いていたということだ。自らの心に何ら恥じることはなく、堂々と彼らを糾弾できる。
もしも見つかったのであれば、それはそのときだ。石ころ屋のカラスはおいておいて、モスクという少年には謝ろう。次にどこかで会えたのであれば、の話だが。
それでも、ウェイトは気が付いていない。自分が虫のいい賭けをしていることに。
何の手がかりもなく、広大な廃棄階層にいるかもしれない人を探すなど到底無理な話だ。
仮に何処かに本当にいたとしても、見つからない可能性の方が大きい。
それに、ウェイトにはその話が嘘だろうと思う根拠もあった。
もとより、見つかるとも思っていないのだ。
しかし自らの心に湧いた罪悪感とも呼べるそれを誤魔化すために、ウェイトは通陽口を下っていた。
やがて、通陽口の底に着く。
もはや真っ暗闇。穴が開いているはずなのに天に光はなく、階段も途中で途切れてしまったようでそこは単なる穴の底だった。
足下には水たまりが広がり、歩くたびにチャプチャプと音がする。持参した腰の灯りに火をつけると、石造りの壁が橙色の光を鈍く反射していた。
やはり、人の住んでいる様子など無い。途中開けられていた穴はいくつもあったが、その中を数瞬のうちだが確認してみても人が住んでいる形跡は見られない。
その奥には広大な空間があるはずだが、ウェイトはそこに入る気はなかった。
フン、とウェイトは鼻を鳴らす。
やはり嘘だったではないか。そう思いながら。
カラスが口に出した名前。シャナ。その名前を聞いたときには、もうウェイトは確信していたのだ。
『魔法使いシャナと火を噴く魔物』は、このミールマンで生まれ育った子供であれば誰でも必ず見聞きしたことのある物語だ。誰しもが、御伽話で聞いたことがある。
当然、それは作り話だ。この通陽口の奥底に今でも住んでいるとされる、魔物と魔女。それを使って、この通陽口に子供が立ち入るのを防ぐための。熱風が吹き出すこの穴で子供が遊ぶなど危険きわまりない。だからこそ作られた話だ。
恐らくあのカラスもそれを知っていて、咄嗟にその名前が出てしまったのだろう。
馬鹿な話だ。そして、自分も馬鹿なことをした。あんな奴らの言葉を真に受けて、この地の底まで来てしまうなど。
さて、どうやって戻ろうか。
ウェイトは天を見上げる。階段がなくなっているが、壁を蹴って跳んでゆけばそう時間はかかるまい。そう考えて、足に力を込める。
だが、次の瞬間、その足に込めた力も霧散してしまう。
照らした暗闇の中、目の前に浮かび上がったのは女性の顔。
気配はなかった。
「!?」
驚くが、不測の事態には慣れている。
この地の底で出会うなど、尋常の者ではない。戦闘はもはや避けられないだろう。闘気を活性化し、構えをとる。
だが、おかしな事が起きた。
いや、おかしな事はもう無かった。
ウェイトは目をこらす。腰の灯りを揺らして周囲を確認する。だがもはや周囲には誰もいない。
どういうことだ? 困惑が胸に広がる。先ほど一瞬だけ見えた女の顔は、どういうことだ。声も聞こえた。何を言っているのかわからないが、それでも何かを言っていた。
汗が垂れる。気温の変化でも落ちなかった汗が、ウェイトの額を伝った。
どういうことだろうか。
誰かいたが、消えた? いや、そんなことなどありえない。
自分に気配を悟らせず、この目の前の距離まで近づいた上、忽然と姿を消すなど、妖精でもなければあり得ない話だ。そして、妖精などいない。ならば、ありえない。そう考える。
しかし、では何だったのだろうか。
気のせい? この暗闇が見せた幻覚だろうか。いや、それにしてははっきりとしすぎている。 一瞬だが、確かに見た。女性の顔を。
では、何かの見間違い? それが一番有力だろうか。
そうウェイトの内心で決着をつける。不可思議の存在など信じない。成熟したその男が出した結論がそれだった。
ならば何と見間違えたのだろうか。
落ち着きを取り戻しながら、ウェイトは周囲を探る。見回してみて、顔に見える物体を探す。
暗闇の中だ。それも難しい、とそう思った。
だが、ウェイトは納得し、そして僅かに違和感を持った。
足下の壁に、穴が開いている。ちょうど通気口のような大きさの穴が。
触れてみれば、周囲と比べても温かい。もしかして、ここから熱風が吹き出してきているのだろうか。そう思って、中を覗き込む。
そして、ウェイトの恐怖心はようやく霧散した。
その穴の奥、遙か向こうから、光が見えた。多分、その光が熱風の元であり、そしてこの光が目に入ったのだろう。それを顔に見立ててしまった。そして、ここから伝ってくるこの風の音が、声のように聞こえてしまった。だから、人がいたと思ってしまった。そう納得して。
実際には先ほどは開いていなかった穴だが、僅かな恐怖心に歪められたウェイトの認識では、それは最初からあったものと塗り替えられていた。
彼が大人だったというのもそれに拍車を掛ける。
大人であり、多くを学んだ彼だからこそ、不可思議な現象が起きた場合は過去の経験と照らし合わせて同じだと思い込んでしまう。
事実、いくつかの点の集合を顔に見間違えてしまう現象はある。それと同じだと、ウェイトも思った。
正常性バイアス。認知を歪めて現実を正常なものだと思い込んでしまうこの心理は、聖騎士と呼ばれるまで鍛錬したウェイトであっても逃れられるものではなかった。
さて、どうしようか、とウェイトは一瞬悩む。
この奥に入っていって見るべきだろうか。そう思った。
だが、その悩みも無用なものだ。ここには、自分は入れない。腰をかがめてそう確認する。
子供ならば行けるだろう。しかし小柄であるとはいえ、大人の自分には小さな穴だ。
ここの探索は出来そうにない。夢物語を追うのは、ここでおしまいだ。
その先の光に、子供たちは夢を見る。狭い通路の先に、夢を追って入っていく。
だが、大人たちはそこへは入れない。夢を追えるのは、きっと子供たちだけの特権なのだ。
ウェイトはそう思った。
そこで、奥へと向かうことが出来なかったのも、彼の長年の経験の賜物だろう。
子供であれば、体が小さければ奥へと向かう事が出来る。それは正しい。
けれど、そうでなくとも行くことは出来る。屈むだけではなく、這っていく。その場合、服が汚れ、移動にも苦労するだろう。けれど、行くことは出来た。
長年の知識と経験。それが、モスクやレシッドであれば取れる行動を取らせない。
それは、忌むべき事ではない。鈍磨し擦り切れた冒険心はそのまま、成熟した、と言い換えることが出来るのだから。
深く頷き、改めてウェイトはもう一度上を見る。
子供の戯れ言に無駄に付き合ってしまった。思い込みで、恐怖まで感じてしまった。そう少しだけ恥じながら。
確認した。中にあるのは熱風の元。恐らく、王族が運営している炉でもあるのだろう。
もう、ここにいる意味は無い。そう思ったウェイトは、すぐに壁を蹴り駆け上がっていった。
その心に残る恐怖心を置き去りにするように、急ぎ足で。
表層へと戻ったウェイトは、水天流道場の一室でプロンデと落ち合う。人払いまでする念の入れように、門人たちは困惑した。
そんな門人たちが部屋から遠く離れたことを確認すると、ウェイトはプロンデと頷き合う。
当然情報を伝えるのはプロンデから。監視対象、カラスの動向についてだ。
プロンデは子細漏らさず、マルスから聞いた話も加えてウェイトに伝えた。
「……というわけだ。カラスは昼前にこの街を発った。鵲をギルド経由でイラインへ飛ばした以外はそう怪しい動作もしていない」
「行き先はわかるか?」
「選んだ街道からしても、おそらくリドニックだろう」
完全な推測。だが、確信はしている。プロンデも、カラスとリドニック王女の間に何かあったことを察しているからだ。
「フ、そうか」
信頼できる相棒のその推測の言葉に、ウェイトも頷き目を閉じた。ウェイトも、そうだろうと思っていた。
『思っていた』というよりも、『そうなってほしいと思っていた』というほうが正しいと、彼は自覚していない。
だが、その推測も事実も全てをウェイトは使う。ただ頷き、そして宣言するようにプロンデにこれからのことを話す。
「我らもリドニックに入るぞ」
「何でだよ」
プロンデは尋ねはしたが、意図はわかっている。だがこれは止めなければならない。最悪、聖騎士団に対する背信行為ともなり得るのだ。
「理由など一つしか無い。不審な人物がリドニックに向かったという情報を手に入れたのだ。その不審な人物はエッセン出身の可能性が高く、両国の間で国際問題になる可能性すら孕んでいる」
「じゃあそれはなおさら駄目な奴だろ」
プロンデはため息を吐く。頑固な相棒に向けて。
「一応俺たちは国王に仕える聖騎士団長の下っ端だ。勝手な行動をすれば、それこそ国際問題になる」
「団が動けばそうだろう。だが、我らが一人二人動いたところで、そう変わるまいよ」
クツクツとウェイトはほくそ笑む。その行動全てが上手くいったときのことを考えて。
だがそれは、空手形を売り払うのと同じ事だ。
「なあ、プロンデ。いい加減、うんざりしていないか?」
「何に?」
「石ころ屋を追う際の妨害だ。奴らが体よく盾として使っている貴族や資産家。そのせいで、我らは石ころ屋へとたどり着けない」
「そいつらが悪事を働いてんのは確かなんだ。諦めることだってそりゃあるが、それでも捕まえて悪いもんでもないだろ」
石ころ屋が事件を起こした可能性がある。そんな報を受けて捜査に手を出すと、必ず彼らが前に出る。
動機を辿れば、石ころ屋と資産家の薬物売買に関する縄張り争いがある。違法な娼館の顧客名簿を見れば、常連客として貴族がいる。そんなことは日常茶飯事だ。
そしてその結果、妨害が入る。
何処の誰かからもわからぬ指示で、捜査に口を出すことが出来なくなる。その事件自体が、事故として処理されてしまう。
元々、ウェイトたちに捜査権はない。彼らが持つのは、正しくは現場での執行権のみだ。
正式には騎士爵を持つものの、真に貴族である者たちからはそう扱われない彼らには、彼らが関わった案件についてエッセンの法を適用し、処罰を下す程度の権限しか与えられていない。
事件の捜査に乗り出すのは衛兵の仕事。そこに口を出すのは半ば越権行為であり、執行権の濫用といってもいい行為だった。
だから、妨害にはウェイトたちは屈するしかない。
一般市民などからではない。大本が何処の誰かともわからないとしても、正式な命令で現場への立ち入りを禁止されれば、従わざるを得ない。
そうしていつも、ウェイトたちは歯痒い思いをしてきた。
もっとも、それでも彼らに潰された商店や貴族は大勢いるのだが。
借金の証文をたてに幸福だった家族から金を搾り取り続けた商人や、金貨の山を見返りに業者にいらぬ仕事を発注し続けた宮廷貴族。彼らは皆、奴隷落ちした。それでもなお反省のない者は、片手や目を失った。
それにより助かった者も大勢いるだろう。
だが、それでもなお、石ころ屋本体には彼らはたどり着くことが出来なかった。
「それは認めよう。奴らとて、処罰する必要がある者たちだ。だが、忘れるな。悪根は石ころ屋だ。根を絶たねば、奴らはこの国で際限なく悪徳の限りを尽くす。奴らさえ倒せれば、あとの腐敗など簡単に一掃できるのだ」
「そう焦ってやることでもないだろう」
「しかしこのままでは、前へと進めん。だからこその、リドニック入りだ」
諫めるプロンデを無視して、ウェイトは言い放つ。
「リドニックは異国だ。その分、石ころ屋の干渉も緩い。その工作員の一人すら、守り切ることは出来ないかもしれん」
「それはわかった。だけど俺はやはり、賛成できない」
そのウェイトの言葉も、落ち着いてプロンデは捌いた。
「あのカラスが何をしに行くのかもわかってないんだ。過剰に反応して、今の不安定なリドニックを刺激するのは駄目だろ」
「そうかもな。だが、これは千載一遇の機会なんだ。我一人でも行く」
ウェイトの決意の目は硬い。
プロンデはその瞳を真正面から見て、一度逸らし、もう一度見てからため息を吐いた。
ああ、まただ。友はまた周りを見ずに走って行ってしまう。
「……わかった。だけど、俺も行く」
こうなってしまえば、もはや説得は無意味だ。ウェイトは速やかに団長に報告し、反対の言葉を聞かぬようにして飛び出すだろう。
そうなってしまえば、もはやウェイトを庇うことは出来ない。
いつもこうだ。
この意固地な友は、自分の忠告を聞かずに飛び出していってしまう。
ならば、自分もいつものように動くべきだ。
「団長の説得は任せろ。適当な理由をつけて、リドニックで動けるようにする。だが、半月ほどが限度だろう」
「充分だ。何事かをなすのには、充分な時間だ」
プロンデは内心ため息を吐く。
ウェイトは走って行ってしまう。周りを見ずに、一人で。
ならば、それを止めるのが自分の役目だ。それが、四十年もの間側でしてきた自らの役目だ。
ウェイトが前を走るのであれば、自らは一歩下がり周りを見続けよう。
目指す先は一緒だ。ならば、いつかは二人で辿り着ける。
打倒石ころ屋。そこに辿り着くまで、二人は同じ道を歩こう。
浮沈は、相棒に託す。自分はただ沈まぬよう、相棒を支え続ける。
プロンデは、その道を自ら選び取っていた。
「そういえば、お前のほうはどうだったんだ? 通陽口へ行ったんだろう?」
「ああ。だがやはり、期待外れだ。『シャナ様』などおらず、何かもわからないあいつらの持っていた品物は、やはり何処かで拾ったものだろう」
「残念だな。じゃあ、あれはどうだった? 『笑い女』」
プロンデは、それを冗談として尋ねた。ウェイトが、「そんなものいるわけないだろう」と、そう否定して笑い飛ばしてくれることを期待しての。
だが、そうはならなかった。
『笑い女』。その言葉を思い出したウェイトの顔が若干険しくなる。額にキラリと汗の光が見えた。
「……ウェイト?」
「……我は何も見ておらん。やはり、そんな噂話など信じられるものではないのだろう」
そうだ、あれはただの見間違いだ。
そう内心必死に否定しながら、ウェイトは答えた。だがその変化に、プロンデは気づく。
相棒は、『何か』を見たのだ。そう確信した。
からかうようにして、プロンデは言葉を投げかける。
「もう一度探してみないか。今度は俺も一緒に行こう」
「いや、やめておこう。お伽話を暴き立てるのは、子供に顔向けできん行為だ。そうだ。あの底にはシャナ様と、火を噴き出す魔物がいる。それでいいではないか」
「さっきと言ってることが違うんだが」
普段は堅物の相棒の顔が、また違った表情を見せる。
それを見て、石像のようなプロンデの顔も、ほんの少しだけ、柔らかく微笑んだ。




