裸のつきあい
僕らは通陽口の螺旋階段を上り、ひたすら上を目指す。
先ほど決意の言葉を吐いたモスクはそれきり黙り、ただ力強い足取りで階段を上っていった。
点のようにしか見えない空が、だんだんと大きくなる。
初めは白い点にしか見えなかった空が、登っていくとその色がわかるようになる。
今は青空。日もまだ傾いてはいない。
もう階数は数えていない。モスクの手にある数取機も、今は無用の長物だ。肌の触れる面が汗で湿り気を帯びているらしく、頻繁にそこを掻いていた。
歩き続けて、人の住む領域にまでたどり着く。
廃棄階層がまだ上にはあるが、壁に穴が開いていた。あのときは気にしていなかったが、入り口部分に工夫は見えるものの、少しだけ削り方も荒く、柱の位置も特定しておらず、無駄に掘ったのだろう。建材が剥がされているだけで穴が開いていない箇所が見える。
つまりこれは、モスクの仕事ではないのだ。
そこの中からは、昨日僕も見た孤児たちの声が聞こえた。
見張り役のような男の子が、今日も僕らに目を留める。
モスクの話では衛兵たちがごくたまに来るらしいので、その用心で待機しているのだろう。仮に来た場合、通気口にでも入り隠れるのだろうか。通る発想が無い、とは言っていたが、隠れるくらいは出来るだろうし。
「気狂いと真っ黒が通るぜ!」
囃し立てるように見張りが宣言すると、覗き込むように他の二人が顔を出す。
ただその顔には、笑いよりも驚愕があった。
その視線の先には、膨れあがったモスクの荷物。僕が渡したそれに加えて元の分もあるからそれなりに大荷物だが、モスクは文句一ついわずに運んでいた。
「おい、モスク、何だそれ!」
他人の持つ荷物には目敏い。そういうところはやはり共通らしい。
「お宝だよ」
端的にそうモスクは答える。
「何が入ってんだ?」
重ねて尋ねる見張り役。だが、モスクは足を止めようとはせずにただ通り過ぎる。
「待てって、それどこで……」
「下のほう」
背中で答え、追い縋ってこようとする見張り役を置き去りにするように……ようにも何もまんまなのだが、ため息を吐きながら登り続けた。
僕もついていくが、その後ろから三人分の視線が刺さる。
昨日今日とモスクの彼らへの対応を見て、仲がよくなかったことはわかる。
だが、それに加えてこの雰囲気は少々まずい気がする。突き刺さる彼らの視線は、羨望や感心、といった類いのものではない。
……ということは、彼らも気狂いと馬鹿にしてはいたが、内心思うところがあったのだろう。それが悪い方向に働きそうだということが面倒くさいが。
何処かで対処しておくべきだろうか。
「んで、どうするよ、これから」
三人からだいぶ離れた位置まで来ると、モスクは背中の荷物を見せながら、僕に尋ねる。 彼らへの対処は後で良いか。行動に出ない可能性もあるだろうし、出てもどうにでもなる。
それに、予定変更したい。その荷物に関することは探索ギルドで、と言ったが、それよりも先に僕は違うところに行きたい。
「とりあえず、探索ギルドでと思ったんですが、その荷物持ったままでいいので浴場へ行きませんか」
「浴場? 風呂か? 何でまた……」
「お互い、全身埃と汗まみれです。暑かったですから……」
髪の毛すら固まってしまっている。手櫛を掛けても指が通らない。オーブンの中にいてこれだけで済んでいる、という事からして本当は奇跡だが。
そして這いずり回ったせいで、黒い外套が白っぽくなってしまっている。前を通っていたモスクの服には、蜘蛛の巣が張り付いていた。
多分、鼻水まで黒くなっているだろう。
野外では、それに探索中は気にならない僕ですら、目を覆いたくなる汚さ。街中では他の人と比べてさらに気になるだろう。
掃除もされていない領域の、それも本来通行には使わなかった場所を使って移動を続けていたのだ。こうなるのも当たり前だ。
だから、まず体を綺麗にしたい。水浴びでもいいが、せっかくならこの街の文化も体験する意味も込めて、お風呂へ行きたい。
「どうでしょうか。鉄貨程度なら僕が出しますから」
「まあ、いいけど……」
もし駄目なら僕一人で、と思ったが一応の了承を得た。
今回は通気口を使わないで行く、と念を押して、僕らは地上へ向かった。
すれ違う人の視線はモスクは気にならないようで、頭を掻きながら歩く。
地上部分、傾斜のついた滑らかな地面は下と変わらずとも、やはり上に空があるのはいい。
特に綺麗な空というわけではない。だが、真っ暗闇の中にしばらくいたからか、その透明感のある青はとてもとても綺麗に見える。
「しっかし、あれだな。表層の地図ってぜんぜんわかんねえな」
突然、モスクはそんなことを呟く。指向性をもって歩いている以上、大まかな位置はわかっているのだろうが、なるほど、少しだけ頼りない足取りだ。
「いつも通気口を使ってたなら、そうなるかもしれませんね」
僕は昨日通気口を使って帰ったことを思い出す。隣り合った部屋は通気口で直接繋がってはいない。通気口を使った地図は、まるで複雑に組み合わさっている立体パズルのように、通常僕らが見ている部屋の関連性とは違うふうに捉えなければいけないのだ。
通気口を移動手段として使う者には、隣人は隣人ではないのだ。隣人はいくつか飛ばした部屋の住人のことであり、隣に住むのは関係の薄い誰かだ。
その上、多分大通り以外の路地に規則性はない。実際にはあるのかもしれないが、昨日一見しただけでは僕には一切わからなかった。
昨日僕が迷子になったように、モスクも迷子になるのだろうか。もちろん、長くこの街に住んでいた以上、そんな事はないと思うが。
彼らも、迷子になってはいないようだし。
背後からの視線を無視して、僕は誰にも聞こえないようにため息を吐いた。
「ここだ……けど、本当にお前の奢りでいいのか? 俺素寒貧だからな?」
「ええ。ご祝儀だと思ってください」
何度も確認しつつ、モスクは入り口に足を踏み入れたり、足を下げたりする。
その横を通り抜けて、僕は受付に歩み寄る。入り口すぐの場所、左右に二つの入り口を分けたその真ん中に、少し高いカウンターが置いてある。そこに、男が一人座っていた。
「二人か?」
「はい。合わせて鉄貨十枚でいいですか?」
「いや、十二枚だ」
男は高い位置から棒についたざるを差し出す。そこに乗せろということだろうか。荷物から取り出した鉄貨を重ねて見せても無反応だったのでそこに乗せると、頷いて自らの手元に引き寄せて数えていた。
「毎度」
「一人鉄貨五枚とお聞きしていたんですが……」
僕はそう尋ねる。一応文句は言わずに差し出したが、これはいったいどういうことだろうか。
昨日聞いた話とは違う。モスクは五枚といっていた。なのに、これでは一人あたり六枚だ。僕らの姿を見て、料金を過剰に請求しているとしたら怒る。
だが、悪びれもせず淡々と手元で受付は何かをいじる。そして、面倒くさそうに僕らを見た。
「風呂の使用料はそれでいいよ。でも、その荷物、持って入るのか?」
指さしたのは、僕らの荷物。意味が一瞬わからなかったが、次の動作で意図がわかった。
受付はもう一度ざるを伸ばしてくる。その上を見れば、畳まれた布と、銀色の何かが乗っている。それは近くで見ると鍵だった。
「手荷物は番号が合っているとこを使ってくれ。券の代わりにもなってる。ごゆっくり」
その二つの鍵。一つはモスクの分だろうか。持ち上げてみれば、番号札が連番になってついていた。
……無用な疑いを掛けたらしい。
「すいません。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、男湯の脱衣所へ足を踏み入れる。受付はその動作も見ずに、ただ手を上げて応えていた。
脱衣所の隅に、ロッカーがあった。
南京錠のような簡素な鍵だが、開けるのにはそれなりに手間がかかるだろう。使いこまれて錆まで浮いている厚い金属製の扉は、それなりに信頼できそうなものだ。
それに……。
僕は念のため、周囲の様子を確認する。
湯船までの距離、方向。それを把握すると、微かに頷く。魔力圏は常にここまで届かせられる。鍵を魔法で保護し、それを維持するのには充分な近さだ。仮に紙で出来た籠であろうとも、中のものに指一本触れさせるものか。
風呂の外にいる人間に向けて、内心そう宣言した。
そこに、僕らの持っていた荷物を入れる。僕の荷物は普通に入ったが、モスクの持っている分はさすがにかさばり、目一杯押し込んで扉を閉めなければならない有様だ。
「……こんなもんあんだなぁ……」
しみじみとモスクも呟く。そういえば、モスクもこちらの正規の入り口は使ったことが無いのか。
情報の不足。怒ったり不満を言うようなものでもないが、やはり孤児は得られる情報が少ない。
「考えてみれば当然ですよね。長物とか持ち込んでいる人もいますし……」
視線の先には、今すれ違って出て行った男性。背中に差しているのは大剣だ。魔道具でもないのでそう高価な物ではないと思うが、それでも放置は出来まい。
「いや、鍵の存在自体は知ってたんだよ。つけてる奴もいたしさぁ」
言い訳じみた言葉を呟きながら、モスクは服を手早く脱いでいく。中で服を洗うことも出来るらしく、脱いだ下着は部屋の隅に重ねて置いてあった桶に突っ込まれていた。
「あれ、券の代わりだったんだな。券持ってないのにどうしてんだろ、とか思ってたけど」
「普通は違うんですか?」
そう言いながら周囲を見渡す。
すると、入ってく人間が一様に、小さな木片を耳に掛けているか手首に引っかけているかしていることに気づいた。
なるほど、それで金を払ったことを証明しているわけか。そして多分、出て行くときに返すのだろう。
そしてもう一つ、先ほど鍵と一緒に渡された白い布を開く。
これで体でも洗えというのだろうか。そう思っていたのだが少しだけ違うらしい。モスクの方を見れば、これまた手早くそれを腰に巻いていた。周囲を見ても、皆同じようにしている。これは湯着か。そういえば昨日もみんなつけていた。
つけている人によって色が違うのは、やはり私物でも持ち込んでいる人がいるのだろう。というか、そうでなければいつもモスクは全裸で入っていたことになってしまう。それに、身に纏うものであるし、こだわる人もきっといるのだ。
モスクも周囲を一度見渡す。それから心配そうに、声を潜めてモスクは尋ねてきた。
「それより、荷物誰かに盗られねえ?」
「みんながここに貴重品を入れていることは既に知れ渡っているんです。それでも盗られていないということは、大丈夫でしょう」
盗られるのを防がなければいけないような荷物がここに集まっており、なおかつそこが普通に使われている。
共通認識がしっかりしているのか防犯体制が整っているのか、それはわからないが、ここから物を盗ろうとする輩はそうそういないのだろう。
普段そんなことを思い浮かべない類いの輩でなければ、の話だが。
「それに、そうでなくとも心配はいりません。誰かがここを開けようとした段階で、僕に伝わるようにはしておきます」
扉全体を保護し、固定する。この扉を力尽くで開けられるような実力者であれば、そもそも盗みなどしなくても生活できるだろう。
試しに開けてみようとして顔を真っ赤にするモスクを見ながら、僕は頷いた。
中の様子は、昨日見たときと一緒だ。
水天流の道場ほどではないが、それなりに広い部屋。中央に一段高い棚のようなものが走っており、そこにお湯が流れている。そこから桶を使ってお湯をくみ、皆自らの体に掛ける。
壁際には湯船があり、そこに立って入れるようで何人か湯に浸かっていた。両端にある打たせ湯は、湯船にお湯を供給する用途を兼ねているようだ。気持ちよさそうに、四カ所全てを人が使っていた。
豊富な湯量。どこからか地下水を引いてきているそうだが、それにしても圧巻だ。
適当にお湯で汗を流しながら、そう褒める。
「すごい湯量ですね。しかもこれ、一つだけってことはないでしょう?」
「浴場がか? そうだな、俺が知ってるだけで十二個かな」
声を響かせながら、そうモスクが答えてくれる。話に聞いた銭湯とでもいうべきものが、そんなに。
モスクは頭を振り、髪の毛についた水を飛ばす。まるで、犬が水浴びをしているようだ。眼鏡は置いてきているので、目つきがかなり悪くなっていた。
白い肌に腹筋が浮く。筋肉がついているのではなく、脂肪がないのだ。その細い体がまた、水に濡れて毛が潰れた犬を彷彿とさせた。
排水溝近くで石鹸などを使っている人もいるが、恐らくそれも私物だろう。何の用意もない僕らはそんなものを持っておらず、そして布もないので手で体を拭う。
だがそれでも垢と汗は落ちていくようで、肌に付いた水が灰色から透明になっていくまで、そうかからなかった。
壁を背に二人並び、湯船に入る。大人用では足が届かず子供用のスペースなのが少し悔しいが、それは仕方あるまい。別に縁に掴まっていれば入れるんだけども。
声が響き、内緒話をするには不向きな環境だ。
けれど僕は口を開く。別に子供二人の話に誰も耳など傾けないし、そもそも聞かれて困る話でもない。ただこれからの予定を話すなど、少し離れた隣にいる男性二人でもしていることだ。
ただ念のため、離れたところに声が漏れないようにくらいはしておこうか。
「で、探索ギルドに行ってから話そうと思っていたこれからの予定ですが」
「お、おう」
僕の方を睨みながら……いや、睨んでるわけではないと思うが目つきが悪くそう見えてしまう。僕を見ながらモスクが相づちを打つ。
「そういや、あれどうすんだよ。探索ギルドで売るんじゃないとかって話だけど」
「ええ。あれは、別な場所で売ります」
一度、洗ったシャツを絞る。すぐに濡れるからあまり意味はないが、何となくだ。
「別な? 魔術ギルドにでも持ってくのか?」
「それでも探索ギルドに売るのと同じ結末になるでしょう。いえ、それよりも悪いですね。ギルドに所属していない僕はそもそも売れないでしょうし」
そっちが制限されているかは知らないが、探索ギルドが探索者相手にしか取引はしないのだ。似たようなものだろう。
「じゃあ、どこで?」
「僕が、この世界で一番信頼している店で」
モスクの方を見て、笑顔を作る。なのに、少し表情に戸惑いが見えた。
「通陽口での生活をやめて、働きに出る。勉強して、技術を身につけて、シャナさんに空を見せる。素敵な夢だと思います。そうした夢を叶えるために」
僕が指さすのは、南。感覚だけだが間違いはあるまい。
「一度この街を出て、副都イラインへ行く気はありませんか?」
僕が口にした言葉に空気が止まる。暑い風呂の中に、ひんやりとした風が吹いた気がした。




