もうすることはない
「メルティ様は問題なく完治されたのだな?」
「はい。《魅了》による影響は、問題なく消えているはずです」
メルティが床につき、侍女たちが解散する。一応、騎士と何人かの侍女はメルティの寝室に控えてはいるが、他は休憩やその日の事務仕事に入っていった。
ソーニャも一応は休憩時間だ。
小さなクローゼットとベッド以外は何も置いていない、女性としては寂しい気もするソーニャの寝室。そこで僕らは落ち合っていた。
ソーニャは木戸を開けて、外を見る。
何事もない日常の庭が、そこにあった。
外を見ながら、僕には視線を向けずにソーニャは呟く。
「カラス殿に謝らねばならない」
「確かに、いくつか頭を下げてほしいですね」
僕が軽口で応えると、ソーニャは不満げに、それでも笑顔で振り向いた。
「ハハ、本当にな」
風で長い銀の髪が揺れる。銀の髪といえばオトフシもだったが、手入れをする余裕もないのか、ソーニャの髪の方が幾分か傷んでいる気がする。
その長い髪を一度頭の後ろでまとめて、それから軽いため息をついた。
「その、レヴィンの《魅了》は、思考力を制限するのだろう?」
「ええ。専門家の話を信用すれば、ですけど」
そうはいうが、僕には信用出来る。エウリューケの見立ては、僕の見立てと一致している。それに、脳が萎縮していたのは確かだ。情動面にも影響は必ず出ているだろう。
「そして、運動能力が向上する。体力が増すわけでもないですが、巧緻性が上がると思います」
運動神経の向上。それだけ見ればきっと、子供であれば誰しもが欲しがる効果なのだろう。
「運動能力についてはよくわからない。けれど、考える力が低下していた、ということ。それは、姫様が子供に戻っていたということに等しい」
「まあ、言い方を変えれば……」
とはいうものの、ちょっとだけ承服できない。子供だっていろいろと考えているだろう。
「その子供を、私は思い詰めさせていたのに気がつかなかった。その結果、悪意を持ってカラス殿に接していたことにも気がつかなかった。姫様の一番近くにいたのが私なのに、な。姫様の笑顔を前にして、他の全てを視界から取り払ってしまったのだ」
目を伏せて、ソーニャは苦笑する。
「だから、すまなかった。カラス殿。仕事とはいえ、迷惑をかけた」
「いえ。その迷惑がなければ、私は《魅了》の除去を出来るようにはなろうとしなかったでしょう。……それに」
レヴィンの顔を思い出す。あいつが全部悪いとは言わないが、半分くらいはあいつのせいだろう。そして、その暗躍に気づかなかった僕も。
「未熟な人間は、悩んで人に迷惑をかけなければいけないと思うんです。そして、自分で悩んだ結果を出して、成熟するものだと」
「……見た目通りの子供とは思えぬ言葉だな」
肩をすくめて、ソーニャは笑う。僕も思った。少し爺くさい気がする。
だが、言葉の通りだ。そして、未熟なのはメルティだけではない。僕だって、人に迷惑をかけてばかりだ。成長しなければいけないのに。
「だが、至言だ。私は姫様からあらゆる災いを取り払ってきた。あらゆる悩みを、事前に全て処理してきたつもりだ。……意外か?」
「いえ……そうですね」
否定しかけると、ソーニャの目が一瞬据わった。自分でも甘やかしていた自覚はあったのか。
「今回革命軍の手にかかろうと行動し、結果的に自裁を望むなど、そこまで追い詰めてしまったのは私だ。人はそう極端には走らない。折り合いをつけて、どうにかやり過ごすはずなのに。その手段を考える機会まで奪っていたのだ」
「じゃあ、今度からはいろいろと考えさせる機会をあげてください」
「そうしなければいけないようだな。今回のことで痛感した」
寂しそうにソーニャは笑う。これは所謂、親離れというやつだろうか。いや、子離れかな。
会話の途中だが、僕の耳が遠くの音を拾う。これは、メルティの寝室のほうからか。
「………! …ニャ……ソーニャ!」
メルティが起きたらしい。あの寝不足の様子であればもっと寝ているはずだが、それほどまでに眠りたくないのか。意識の覚醒が早すぎる。
「呼ばれてますよ」
「……誰にだ?」
「メルティ様にです。お目覚めになられたようで」
「!! 行かねば!」
ソーニャが駆け出す。そのまま廊下を走っていくと思ったが、扉を開けようとして一度振り返った。
ドアノブはまだ回されていない。
「カラス殿。マリーヤのことは……」
「僕の口からは言えませんが、きっともうメルティ様を狙うことはないでしょう」
今どうしてる、などは言わない。その代わり、ソーニャが気になっていそうなことだけを伝える。
そしてソーニャはその言葉に反論しない。最初からそう思っていた。そんな雰囲気で微かに頷いた。
「……本当に、姫様にとって、いや、私たちにとってはいい休日になったようだ。落ち延びて以来、たぶんイラインが一番の都だった。……世話になった。この礼は、またいずれ」
「はい。私はちょっと遠くに行く予定なので、どこかでまたお会いしたらたっぷりと礼をお願いします」
「どこへだ?」
「イラインより北方。リドニックへ。四色目の雪を見に」
僕の言葉にソーニャは目を丸くした。今日も、ころころと表情が変わる。
それから、からかうように微笑む。
「……そうか。魂まで凍るほど寒い故、心して行かれることだ」
「それは怖い。厚着していきますね」
ソーニャは僕の返事に鼻を鳴らすと、思い切りよく扉を開けた。それから振り返らずに、廊下の奥へと消えていった。
女性の部屋に長居するわけにもいくまい。
僕も出よう。ここに僕は、もう必要ない。
姿を隠し、僕は館を後にした。
さて、することが終わったのは館でだけではない。
この街ではしばらくすることがない。もう昼は過ぎているが、早々にイラインを発とうか。
と、そう思ったがもう一つ。まだ見ていないものがあることを思い出した。
正直、なんかどうでもいい気がするのだが、それでもやはり友達だ。助けはしないが、結果だけでも見ていこうか。
といっても、殊更に探す気もない。一番街から北へ向かう前に、五番街と貧民街を経由していくだけだ。そこで目につかなかったらもういいや。
ハイロはどうなったか。
グスタフさんはもう興味もないようだが、僕はほんの少しだけ気になっていた。
物乞いでもしていたら、からかってやろう。
と思い五番街を歩くが、やはりといっていいかハイロの姿は見えない。
いや、さすがに物乞いでもしていたら僕もなんというか反応に困るので、そういう意味で姿が見えないのは良いことなのだが。
安心半分不安半分で道を歩く。
だが、貧民街近くに来てもとうとう、ハイロの姿は見えなかった。
うん。僕は見ていない。そういうことにしておいてあげるのが優しさだろうか。
「……よっ」
力なく僕に話しかけてくる影。緑の大きな肩掛け鞄には書類らしきものが大量に詰まり、成人男性であっても重いだろう。
見た目は十代中盤から後半くらいか。細身で僕よりやや背が高い。
その声には、聞き覚えがあった。
「……ど、どちら、さまですか?」
「笑ってんのがわかるんだよちくしょー!!」
僕が懸命に真顔を作って応えるが、目の前の男は鞄を地面に叩きつけんばかりに叫んだ。
涙目で震えながら顔を赤く……多分、赤くしているのは、やはり。
「すごい顔ですね、ハイロ」
「いうなよバカー!」
大きな声で注目を集めたハイロの顔は、何というか、分厚い白粉で真っ白に塗られていた。
歩きながら手短に事情を聞く。どう見ても仕事中だ、手を離すわけには行くまい。
「親方に謝りに行ったらさ、許してくれるって話だったんだけどさ」
「謝り、行ったんですね」
僕とグスタフさんの予想は外れという訳か。残念でもなく、むしろ嬉しいことだが。
「その代わり、仕事中に女といちゃつけないようにって、眉が生えそろうまでこの顔でやれって」
「眉も剃ってるんですか」
白粉の下でわかりづらいが、なるほど、眉毛もない。まるで、化粧をしていないおたふくのような顔。いや、あれも一応白粉か。
「……まあ、その顔ならどこかで勝手に休むわけにもいきませんしね」
それに、今まで通り働けるのだ。何も文句は言えまい。
「それでもあんまりだよ!!!」
「眉毛が生えてきても、……今までのように怠けたりはしないよう……にしてください」
目の周りの白粉を涙で落としながら叫ぶハイロ。その様子に笑いをこらえながら、そう言うのが精一杯だった。
「またお前街を離れるって」
「そうですね。リコももうすぐ帰ってくると思いますし、よろしくお伝えください」
僕がリドニックまで行くのを簡単に伝えると、ハイロは残念そうに眉を顰めた。白粉の筋が出来ている。
「ま、気をつけろよ」
「ハイロも。リコにもその白粉姿を見せないように」
勤務態度は真面目に。その意図は伝わっているだろうか。
それはわからないが、忠告はした。真面目なリコを見習って、勤務態度を改めてくれれば良いけど。
「だー! 考えないようにしてんのに!!」
「ハハハハハハ、ま、また三人でなんか食べましょうよ。ハイロの奢りで」
次に会うときには、奢れるようになっていてほしい。上から目線ではあるが、それは僕の友達への願いだ。
「あー、まあ、なんとかするよ。んじゃな」
「ええ、また」
重い荷物によろけながら、ハイロは去って行く。その顔を見た通行人の笑い顔を残して。
まあ、これでいいだろう。次にどうなってるかは知らないけれど、今はどうにか首がつながったらしい。
笑われながらも懸命に勤めるとか、あいつの性格だと無理そうだけれど、リコが帰ってくればなんとかなるだろう。
僕よりも昔なじみのリコに、その辺は丸投げしよう。
少しだけ清々しい気分で、僕は足を北に向ける。
今度は寒いところだ。雪景色、楽しみだな。




