単純で楽しかった
しばらく歩くと、ふいにメルティがよろける。
僕が手を出すまでもなく、ソーニャにより支えられ、メルティはバランスを取り戻した。
しかし、立ち止まるとメルティは静かに太ももをさする。痛みでもあるのだろうか、と思ったが無理もない。健脚のハイロに付き合い走ったばかりだ。運動不足だからとは言わないが、足は疲れ、悲鳴を上げているはずだ。喘鳴音は無いが、きっと少し苦しくもあるのだろう。むしろ、ここまで文句を言わないのが昼間の様子から比べると意外だった。
僕は背嚢に手を入れ、紙の小包を取り出す。以前作っておいた薬だが、やはりこういう時には役に立つものが多い。
その紙を開き、中にいくつか入っている飴玉を見る。小指の先ほどしかない小さなもので歪な形。だがこの桃色の甘い菓子のような物体は、これでも立派な薬だ。
ネルグの南側に生えている楮のうち、赤い樹皮のものを傷つけると滲みだす樹液、それから水分を飛ばして練り固めた飴玉。僅かだが、疲労回復の効果がある。味はただ甘いだけなのでつまらないが、そこは香料を混ぜたりすれば改善できるかもしれない。
「どうぞ」
「……それは?」
メルティに差し出すと、ソーニャが反応した。
「疲れを癒す薬です。ネルグ産の素材から、私が調合した」
一粒適当に取り出し、それを前歯で噛み砕く。本当は噛み砕くものではなく舐めて溶かすものだが、食べたという証明にはこちらのほうがいいだろう。毒など入っていないということを証明したいから行った動作だが、そもそも僕には毒が効かないので参考にならない。本当に、形だけだ。
細かい破片をポリポリと噛み砕き、飲み込む。ほのかな甘みが舌に残った。
「そんなに劇的な効果はありませんが、だるさは取れるかと」
「……いりません」
ソーニャの答えを待たず、メルティがそう口にする。ポツリと言葉を吐いたその顔は、僕の方を向いていなかった。
足が縺れているのだ。一応まだ隠密作戦は継続中なので馬車等の乗り物は使えない。限界が来れば、誰かが運ぶしかなくなるだろう。
「そうですか」
だが、本人が要らないというのならば仕方がない。僕はそれをまた紙に包みしまおうとする。
そこに、軽く手を翳され待ったがかかった。
「いや、頂こう。メルティ様も、どうぞ」
ソーニャが二粒手に取り、それを口に含む。そのソーニャから一粒受け取ったメルティは、それを掌に乗せたまま無表情で見つめていた。
これは舐めるもの、と僕が言うまでもなく、ソーニャはそれを口の中で転がす。
「……白咎か。こんな味なのだな」
「差し出した僕が言うのもなんですが、毒であるとか警戒しなくても大丈夫なんですか?」
一応僕が善意で差し出したものだし、受け取るとしてもまずソーニャかハイロが食べて安全を確認してからだと思っていた。しかし、ソーニャは自分が食べる前にメルティへと差し出した。
「襲撃に対処した手際や、先ほどの隠形から見ても、カラス殿がそのような真似をする必要はないだろう」
「いや、まあそうですけど」
メルティを殺すことを考えたとしても、確かに僕なら他の方法をとる。殺す気ならばこの場で首を飛ばせばいいし、ここで殺さず遅効性のものを使うとしても自らやった方が確実だからだ。
だがそれでも、毒見も無く躊躇もなく食べるとは、信用されているのか無警戒なのかわからない。
「それにしても……」
メルティが歩き始めるのを待つように、世間話のようにソーニャが口を開く。
本当に、初対面とは随分な違いだ。
「先ほどの痺れ薬といい、カラス殿はその本草学、どこで学んだのだ? 勇者の時代より、治療師が発展していく間に本草学は徐々に失伝していっていると聞く。活殺自在なまでの本草学など、もはや伝える薬師も少ないだろう」
「……貧民街には、そういったものに詳しい名物の老人がいましてね」
視界の外で、ハイロが小さく噴き出した音が聞こえた。先ほどまで神妙な顔をしていたのに。
「生きていくため……いえ、生活をするためにそこで学びました。そこそこ物覚えのいい生徒だったと自負しております」
「……そうか、言い辛いことを聞いて、悪かったな」
「いえ」
ソーニャの気遣う言葉。言い辛い、というのは僕の言葉が『苦しい生活』を示唆しているように聞こえたからだろう。
ふと一瞬だけ目を瞑り、あの頃のことを思い出す。
グスタフさんに聞いたままに素材を取りに行き、手当の工夫をしながら持ち帰る日々。持ち帰ってくるときに薬草を雨に当ててしまって劣化させてしまったり、逆に空気に晒さなかったせいで傷んでしまったこともあった。自分の仕事を買い取りの値段で評価して、最高額を突破した時には嬉しかった。最低値が付いた日には背骨が立たず、ご飯がいつもの八割ほどしか食べられなかったこともいい思い出だと思う。
だから、『言い辛い』という言葉。それは誤解だ。
貧民街での生活は、それなりに楽しかった。
あの頃であれば、貧民街で暮らしていることを馬鹿にされるのは少し腹が立った。けれど脱出した今となっては、それについてとやかく言われようと言い返せる。それは、『言い辛い』という言葉には当てはまらない。
そこまで考えて気が付いた。だから僕は、ハイロを『貧民街の出身』と紹介してしまったのだ。
勿論、ソーニャがそれであからさまな差別をするような人ではなかったというのはただの幸運だが、僕の中で『貧民街の出身』という言葉に負のイメージはない。旧友ということで、いずれは気が付くことだろう。けれど、僕は口にした。何の気なしに、普通に。
僕は微かに首を横に振った。
「いえ、それなりに楽しい日々でしたので、僕に思うことは何もありませんよ」
ハイロのほうは知らない。僕と比べれば食べるのに事欠くことが多い不自由な生活だっただろう。けれど、僕は違う。だからそう言い切った。
僕の方も、今とは違って本当に楽しい日々だった。
今とは違う……? 何が違うのだろうか。
そう自問するが、何故だろう。即答は出来なかった。
視界の端で、メルティが飴玉を口の中に放り込む。
そしてガリガリと噛み砕くと、無言でまた歩き始めた。
一番街の門を通り抜ける。目的の館はすぐそこだ。
ここまで着いてこさせて何だが、ハイロはこの先連れて行ってもいいのだろうか。僕としては少し連れていきたい気もするのだが、ソーニャが首を縦に振るかどうか。
「どうしますか?」
ソーニャにそれについて問いかける。ソーニャは、無感情にハイロを見ると、聞こえない程度に鼻を鳴らした。
「メルティ様から離しておきたいということもあるが……」
一度、メルティの方を向く。メルティはまだ沈んだ顔で、トボトボと歩いていた。
「目を離しても、何をするかわからない。館に入り安全が確保されるまではご同行願う」
「……は、はい……」
言葉とは違い、迫力ある雰囲気がハイロを覆う。先ほどから思っていたが、もはやソーニャは付き従っているというよりメルティを護送している。そんな雰囲気だ。服は女性らしい綺麗で落ち着いたワンピースなのに、どこか厳格な雰囲気がある。
許しは得た。あとの難関は入るところだけだ。
それから少し歩き、僕の背よりも高い塀の前で、全員が立ち止まった。
「ここから少し行った裏口から入る、と?」
「そうだ。先ほど先触れを出しておいた。手はずを整えた女官が待機しているだろう。だから、カラス殿、そこまでで……」
いい、という言葉まで口に出させぬよう僕が口を挟む。
「そういったことは、後で。では今はとりあえず急ぎましょう」
危なかった。僕の流されやすいところは自分でも反省すべき点であると思うが、後味を悪くしないためにこれは必要だろう。
明日一番街の掲示板にメルティが載ったりしたら、きっとしばらくご飯の量が減るだろうし。
全員を巻き込んで透明化する。
三人分ともなれば視界の調整が難しいが、それでも何とかなる。僕の処理速度のせいで基本的に少しだけ遅れているとは思うが、戦闘でもしなければ問題ないだろう。
音もなく、視界にも映らない集団は、何の危なげもなく裏口まで到達した。
裏口の門扉。石の塀の中で少しだけ開かれたそこから、僅かにランプの灯りが漏れている。
その後ろに立っている離れの塔から館まで入れるのだろう。一番街の館は皆大きいが、離れまであるのは珍しい。
「……お、お帰りになりましたか……?」
ソーニャの合図で、まずソーニャの部分だけ透明化を解く。
その姿を見て、頼りない声で、待っていた女性がそう呟いた。
さて、最後の仕事だ。




