追憶と誓いの紫 五話
四日目の朝、異変が起きた。
『ギギギ……ギイィ……』
馬車の中。外からの異様な気配と音にジェドは飛び起きる。
(何の音だ?)
ジェドは剣を握り、馬車から出た。馬たちも怯えている。慎重に気配と音をたどった。気配は強い。重くて不快だ。魔獣や魔物から受ける威圧感に近い。
音は微かだ。ギリギリと何かを引き裂くような……。
木立に隠れながら移動した。もう少しいけば街道がある場所まで来た。結界と外界との際だ。
それを見た瞬間、心臓が嫌な音を立て血の気が引く。
『ヒッ!?』
結界の向こうに黒いモヤが広がっていた。禍々しく揺らぎ、威圧感を漂わせている。
本能的な恐怖に、身体が勝手に逃げそうになる。ジェドは歯を食いしばってその場に留まった。
(落ち着け!ちゃんと観察しろ!逃げるのは後だ!)
震えながら状況を観察する。空中には、黒いモヤと奇妙なひび割れがあった。
(あれは……結界が!)
本来なら不可視の結界が壊れかかっているのだ。信じられない思いで見ていると、またあの『ギギギ……』という不快な音がした。
(この音は結界が攻撃されている音だったか。あの黒いモヤがやっているのか?魔物か?いや、まだ朝で晴れているのにか?だが……)
黒いモヤの正体を見抜こうと目を凝らす。よく見ると、黒いモヤの中に狼に似た獣がいる。
(漆黒色……あんな獣、初めて見た。ともかく、あの【漆黒の獣】が本体だろう)
結界を攻撃できるほどの強さを持つ魔獣か魔物だ。しかも。
(結界の外の木や草が枯れている?干からびた鳥の死体も転がっている……あの【漆黒の獣】がやったのか?)
見ている内に、無事だった木に【漆黒の獣】の鼻先が触れた。大きな木があっという間に枯れていった。
また、小動物や鳥が黒いモヤに絡め取られて運ばれてくる。すでに死んでいるのか抵抗はない。【漆黒の獣】が触れた瞬間、やはり干からびていく。
(養分と魔力を吸い上げているのか?こんな魔獣も魔物も知らないぞ!)
観察している間も結界の軋む音が酷くなっていく。
(そうだ。【結界結晶】も万能じゃない。魔獣や魔物の強さや数によっては破られる。しかし、正体はなんだ?……まさか、親父たちが討伐に行った『正体不明の魔獣』と同じか?……っ!)
『ギイイィッ!』
考えに至った瞬間、今までより大きな音が響いた。結界が破られるのは時間の問題だ。
(考えるのは後だ!結界が完全に破られる前に逃げる!あの馬車じゃ身を守れない!街道には出れないから森の奥に行くしかない!)
ジェドは急いで馬車に引き返した。ティリアも起きていたらしく、馬車から出ようとしていた。
『ジェドくん、おはよう。さっきから変な音が……』
『ティリア!逃げるよ!』
『え?……ひゃあっ!?』
ジェドは、ティリアと背嚢を担いだ。
一瞬、馬に乗ろうかと考えたが、森の中で騎乗できる腕はない。逃げれるよう綱を切って放置し、走った。
ジェドとティリアが去った後。黒いモヤをまとった【漆黒の獣】は結界を壊し、動植物の命を奪いながら進みだした。
『ヒヒィーン!』
『ヒィ……。……』
逃がされた馬たちも黒いモヤに絡め取られて抵抗を無くし、【漆黒の獣】に触れられて死んでいった。
【漆黒の獣】は進む。
じわじわと森を侵食するように、そしてジェドとティリアの跡を追うように。
◆◆◆◆◆
ジェドは小さな洞窟の前で崩れ落ちた。
小一時間、道なき森の中を全力疾走したのだ。血こそ出ていないが汗まみれでボロボロだった。
もうこれ以上は走れない。
『ジェドくん!』
担がれていたティリアは、慌てて身を離してその背中を撫でる。
『だ、だい、じょぶ、きみは、なかに……おれはここで、やつを……』
『ジェドくんも一緒じゃなきゃ嫌!』
『え?ちょっ……?』
ティリアは思いがけず強い力でジェドを引きずり、洞窟の中に入った。
ティリアはジェドの汗をぬぐい、水筒を渡してくれた。
新緑色が潤んでいる。
『ジェドくん、ゆっくりでいいから飲んで』
『うん。ありがとう』
(情け無いな、俺。洞窟の安全だって確認してないのに)
しばらく経つと、ジェドも落ち着いてきた。簡単に洞窟内部と周辺を確認し、地図で位置を確認する。
元いた場所よりかなり東に逸れたが、周囲に警戒すべき場所はない。無我夢中で走った割には、悪い判断ではなかったようだ。
(それに、洞窟内も完全だった。【思いがけない物】も採取できたし。後は……)
背嚢から【結界結晶】を出し結界を張った。
洞窟の入り口を塞げるよう位置を調整する。堅牢な洞窟内で使うことで、二重の守りになるだろう。
『ティリア、しばらくここにいるよ』
『わかった。でも、何があったの?』
『うん。実は野営地の結界が、正体のわからない【漆黒の獣】に壊されたんだ。もしかしたら俺たちを追ってくるかもしれない』
ジェドは一部始終を説明した。
ティリアは目を丸くする。
『黒いモヤで獲物を引き寄せる。獲物が抵抗しないなら操ってるかも知れない。触れただけで木が枯れた。……まるで【闇夜喇叭花】みたい』
『【闇夜喇叭花】?』
『闇属性の魔法の花だよ』
ジェドの知らない魔法植物だった。
【闇夜喇叭花】
ルディア王国にしか生えない闇属性の魔法植物だという。
エンジェルトランペットに似た優美なラッパ状の花を咲かせるが、花弁は漆黒色で非常に危険な闇属性の魔法を香りとして放つ。
魔法の香りで動物や虫の精神に干渉し、誘き寄せて花に触れさせる。そして、獲物が死ぬまで養分と魔力を吸い上げるのだ。
確かに、正体不明の【漆黒の獣】に似ている。
『そうだ。あれは闇属性の魔法だ』
闇属性の魔法は、精神干渉に優れる。また、命や魔力を奪う魔法もあるという。
『ティリアのお陰で頭が冴えてきたよ。【漆黒の獣】が魔獣か魔物か知らないが、あの攻撃は闇属性の魔法で間違いない。【蝋燭雛菊】を採取した時と同じだ。属性と特徴が分かれば倒し方を考えられる』
闇属性の魔法ならば、速効性があるのは光属性の【浄化】だ。手持ちの魔道具を使えばジェドでも放てる。
『よかった。じゃあ倒せるね』
『けれど、相手は結界を破壊できるほどの力を持つ存在だ。光属性魔法の適正のない俺の【浄化】がどこまで通じるか……』
(いや、魔道具でどんなに底上げしても難しいだろう。イジスが居れば話は変わってくるけど)
万能型の魔法使いである幼馴染の顔が浮かぶが、彼はここに居ない。ジェドは愛剣の柄を握った。
『光属性ほどじゃないけれど、他の属性でも闇属性の対抗にはなる。ティリア、協力して欲しい』
『わかった。なんでもするよ』
頼もしい。ジェドは口角を上げ、戯けて言った。
『本当は、親父たちに押し付けるのが一番だけどね。根暗の闇属性野郎が来る気なら、俺たちでちゃっちゃと倒してやろう』
『うん!私たちで倒しちゃおう!だから……』
『ティリア?』
ティリアは急に涙ぐみ、ジェドの手を握った。
『……私も戦うから、ジェドくんだけが傷つくような真似はしないでね。さっきみたいに私を担いでボロボロになるまで走るのも無し!私だって走れるよ!』
胸が燃え上がるように熱くなった。ティリアの手を握り返し、誓う。
『うん。二人で戦おう。本当はティリアを守りたいけど、俺はまだまだ未熟だから……ティリアは俺を守って欲しい』
『任せて!』
(でも、いざとなったら君だけでも助ける。ティリア、俺がそうしたいんだ。もちろん二人とも生き延びるのが最善だけど、俺は君を守りたい。君のことが大切だから)
ジェドの心に恐怖はまだある。だがそれ以上に奮い立ったのだった。
◆◆◆◆◆
ジェドとティリアが諸々の準備をしてから半日が経った。
洞窟周辺が夕闇に沈む。木々や獣が倒れる音が響き、異様な気配が近づいてきた。
(来た)
闇より深い黒いモヤと、それをまとう【漆黒の獣】が近づいて来たのだ。
『ジェドく……』
『ティリア、静かに』
ジェドはティリアと共に息を潜め、洞窟の入り口を見張った。二人の身体は影になっている。外からは見えないはずだが……。
ジェドは冷や汗をかいた。
(やっぱり、この洞窟に近づいてきてる。俺たちを狙っている)
この世界には、魔力を探知できる存在は多い。
理由は様々だが、捕食対象を探す場合はより魔力の強い物を狙う傾向にある。
この森には強い魔獣は少ないので、魔力が多いジェドとティリアが狙われているのだろう。
『ギギギッ!ギーッ!』
結界にヒビが入る音がする。予想通り、黒いモヤが結界を攻撃し始めたのだ。背後でティリアが息を呑む音がした。
ジェドは振り返り、ティリアに微笑んだ。
(君だけは俺が守る》
ジェドはティリアに、その場にいるように合図して再び前を向いた。そして懐から片眼鏡を取り出し、入り口に近づきながら目にかざした。
黒いモヤの向こうに、恐らく本体である狼に似た形の【漆黒の獣】がいるはずだ。探すために片眼鏡……魔道具に魔力を込めた。
(少しの間でいい、しっかり発動してくれよ……。我に光を与え、全てを見通す眼を与えよ【遠見眼】)
ジェドの琥珀色の目が輝く。
本来なら黒いモヤで見えないが、光属性魔法の【遠見眼】を発動させた。これで黒いモヤの向こうまで見える。
(居た。近づいてくる。あと少し……もう少し……今だ!)
ジェドは愛剣を抜き、切先を【漆黒の獣】がいる方向に向け、魔力を込める。
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