#072 親の事情
アカリの父であり、マコトの祖父である八代照幸。
彼は日本列島が激変していく中、八代家の三男坊として生を受けた。
工場に勤める父と専業主婦の母、二つずつ年の離れた兄たちに囲まれ、ごくごく平均的な暮らしをしていたテルユキ。
そんな彼の人生が変わり始めたのは、彼が三歳の時だった。
父が死んだ。
仕事中の事故に巻き込まれてのことだった。
当時幼かったテルユキは父が帰ってこない理由を十分に理解できないまま、家は母子家庭となった。
幸いにして貯蓄と補償金によっていくらかの余裕はあった八代家は、すぐに生活が逼迫するようなことはなかった。
しかし三人の子どもを育て上げるには、残念ながら足りない。
専業主婦だった母は、パートに出ざるを得ない状況になった。
一家の大黒柱がいなくなり、仕事に家事にと忙しくする母を見て、テルユキたち兄弟も次第に丸くなっていき、やがては家計を少しでも楽にするために、義務教育が終わったらすぐに働きたいと考えるようになっていた。
しかしそんな子どもたちの決意を、母は一蹴する。
「これからの時代を担うアンタたちは、しっかり勉強して、立派な職業に就きなさい。私は今そのために頑張っているんだから」
その言葉を聞いた兄弟は、苦手だった勉強を必死に頑張るようになり、全員が大学へと進学していくことになった。
テルユキたち兄弟は、より良い仕事に就くために勉学に励みながらも、自分の学費と実家への仕送りを稼ぐためにバイトに明け暮れた。
そして末っ子のテルユキが大学を卒業し、地元の企業へと就職を果たす。
子どもたち全員が就職して独立していったのを見届けると、母は体調を崩しがちになり、しばらくして亡くなった。まるで、自分の役目は終えたと言わんばかりに。
テルユキに与えた衝撃で言えば、父が亡くなった時よりも大きかった。
そして心残りだった。
母は幸せだったのだろうか。
仕事で手肌は荒れ、着飾ることもせず、たまに食べる御馳走も子どもたちに与え、テルユキたちが仕送りしていたお金も一切手付かずのまま残っていた。
もっと他にやりたいことがあったはずなのに、夫を早くに亡くして、子どもたちを育てるために自分の命を使い果たした母。
だから、テルユキは喪失感に苛まれながらも、必死に働き、生き続けた。
それが今の自分が唯一できることだと思ったから。
テルユキは妻――翠と出会い、結婚をして、娘を授かった。
そうして親になって初めて、亡き母の考えが本当の意味で理解できた。
彼は娘のため、さらに仕事に勤しんだ。
その頑張りに応えるかのように、娘はすくすくと良い子に育った。
亡き両親に誇れる、自慢の娘だった。
親の言うことをよく聞き、学校の成績も優秀。大学も卒業し、就職氷河期と呼ばれる時期にも関わらず、安定した職業に就いた。
それからしばらくして、娘が子を授かったと連絡があった。
結婚も考えていると。
娘が嫁に行くのはもちろん寂しかったが、それ以上に嬉しかった。
両親も天国で喜んでくれているんじゃないかと。
そんな幸せもつかの間。
アカリと結婚を考えていた男がいなくなったと聞いた。
そして、アカリは一人でも産みたいと主張した。
そう聞いたテルユキの脳裏には、母の姿が蘇る。
子のために片親で働き続け、最後は若くして命を終えた母。
当時と状況が違うことはわかっている。
今は女性でも安定した職業の正社員になれて、福祉制度も大きく変わった。
それほど余裕があるわけではないが、テルユキも妻も娘を支える準備はある。
それでも、娘の姿が亡き母の姿と重なる。
まだ見ぬ孫と、今ここにいる娘。不器用ながらも、大切に、精一杯育ててきた一人娘。
そう考え始めたら、テルユキは娘が一人身のまま子を産むことに賛成できなかった。
「産むことは……許さん。おろしなさい……」
娘が早死にする道を歩んでしまうかもしれないという不安から、娘に接する態度も強まる。
そうして、父と娘は初めて言い争いをし、その間には深い溝ができる。
***
そんな不器用な父親と娘を見守るミドリ。
彼女は冷静だった。
それとも、腹を括るのが早かったと言った方が正しいか。
妻として、支えてきた男の心情は分かる。
おそらく本人も自覚していないだろうが、大切に育てた一人娘を傷ものにされ、あまつさえその責任を放棄された。そんな男との子どもだ。子どもに罪はないとは分かっていても、同じ男側として、モヤモヤとしたものを抱えてしまっているのだろう。
そして母として、娘の気持ちも痛いほどに分かる。
まだ生まれてもおらず、姿も見ていないのに、お腹の子が尊く愛おしい存在に思える。自分の中に新たな命が宿るということは、それだけ特別なものだ。
だからミドリは娘に厳しい言葉を掛けた。
働きながら母になるなら、甘い考えは捨ててほしかった。
親になることを、命を育てることを、簡単には考えてほしくない。
今までは上手く事が運んだが、学力と真面目さだけでは親は務まらない。
そして今までのように、自分たちが決めるべきことではない。
自分で決めて欲しい。
子から親になりたいのであれば。
ミドリはあえて夫の意見に乗り、冷たい言葉を掛け、娘を焚きつける。
育児を経験した先輩として。
それに、ここで心が折れてしまうのであれば、きっと世間の目からは耐えられない。
法が整備されていても、世間の意識が変わりつつある世の中でも、片親であることをとやかく言う人間はいる。
親しい人たちにどんなに肯定されても、知らない誰かの否定が心を折るきっかけになる。
だからたとえ親に否定されたとしても、自分の意志を貫くだけの覚悟をしてほしかった。
今なら心が折れても引き返す選択肢がある。
別に娘を見捨てるというわけでは無い。
どちらにしろ全力でサポートすることはすでに決まっている。それが親なのだ。
進むのであれば、それで良い。
引き返すのであれば、一人でその責を負ってしまわないように……
なお、そこに夫の意志は必要はない。八代家の家庭内においては、母が最強であるのだから。
「あ、ミオちゃん? 久しぶり――」
そして娘の古くからの友人に連絡をする。
きっとこれが娘にとって、今の自分たちが出来る最大の助けだと思って。
ミドリも孫に会いたいという気持ちが無いわけではなかった。
***
アカリも両親の心情が理解できないわけではなかった。むしろ予想通りだった。両親が自分を大切に思ってくれていることはわかっているし、父の実家のことも知っている。
それでも、孫が出来るならもしかしたら……
だがそれは甘えだ。
昔からアカリは、重要な決断はいつも親に頼っていた。
高校も、大学も、就職先も。
厳格な両親に言われてきたから、そう決めてきた。決めてもらってきた。
だから今回も決めて欲しかった。無意識に頼った。今までがそうだったから。
キャリアと育児の両立は無理だ。
育児が始まれば、確実に出世レースからは脱落する。
就職してからも資格取得や業務のため、睡眠時間を削りながらコツコツと勉強を続けている。今まで積み重ねてきたものを手放したくはない。
ではお腹の子は……?
決意が堕ろす方向へと傾きながらも、そのことがどうしても引っかかる。
今まで通り、両親の言う通りにしようと思っていたのに、最後の最後に自分の意思が抵抗してくる。
母子家庭でもやっていけると、仕事との両立も可能だと思いたくて、手当や支援制度を調べもした。自分の意思がそうさせた。
この時のアカリは孤独を感じていた。
今まで厳しくも優しくしてくれた両親が、急に遠くに感じるようになった。
反抗するなら、親には頼れない。
その状況が、アカリをひどく不安にさせた。
だからアカリは無意識かつ必然的にミオを頼った。
いろんな苦楽を共にしてきた唯一無二の親友に。
アカリは自分より一足先に母になろうとしている親友の姿を見て、自分の姿を重ね、改めて思った。
やっぱり産みたい。
この子に会いたい。
そして覚悟を決めた。
たとえ一人でもこの子を育てる。
何があってもこの子を守る。そのために自分をしっかりと持とうと。
”守られる側”から”守る側”になろうとするアカリを、親友は応援し祝福した。
やがてマコトが産まれると、業務連絡程度だった両親とのやり取りは頻繁に行われるようになった。
母からは子育てのやり方についてアドバイスを受け、父からは隣人に迷惑をかけないようにとマコトの面倒を実家で見ることを提案されたり。
それらは全て、親になろうと頑張るアカリとその息子のことを思っての発言だった。
だが当事者にとっては違った。
両親との距離が分からなくなっていたアカリには、別の意味にも聞こえてしまった。
自分の選択が否定されているように思えてしまった。
自分の元から子どもを取り上げたがっているように思えてしまった。
親身になってくれた親友と比較してしまって、些細な言葉が気に障ってしまって。
育児が上手くいきすぎていたことも、確執が深まる原因の一つだったのかもしれない。
マコトが普通の赤ん坊ではなかったこと。
手がかからず、アカリや親友夫婦の負担が想像以上に軽かったこと。
それ故に、両親からの気遣いが余計なものだと感じるようになってしまい、煩わしくなってしまった。
何が正解か分からない育児に、職場の同期に置いていかれている不安、隣人に掛ける迷惑から生じる罪悪感。
それらが積もりに積もって、アカリは母との電話越しに怒鳴ってしまった。
「いちいち連絡してこないで!」
それから実家からの連絡は最低限になり、両者の溝はさらに広がった。
アカリも仕事に復帰して忙しい毎日を送るようになり、両親の話となると息子が不安そうな表情をすることもあって、その関係の修復は後回しになっていった。
長らく実家と疎遠になっていたアカリだったが、時間と距離を置くことで、両親に対する感情も冷静に整理できるようになった。
何より息子の成長する姿を見て、このままズルズルと先延ばしにすることは、誰のためにもならないと思うようになっていた。
そして、つい最近のことだった。
転職の件を両親に直接報告するべきだと、親友の手によって強制的に実家へと連行されたアカリ。
そこで今までのこと、そしてこれからのことを腹を割って話した。
お互いの距離感を確認し合い、父と母と娘の関係から、祖父と祖母と母の関係へ変わろうと。
子どもに余計な気遣いをさせないためにも、大人たちは今も陰ながら関係の修復に努める。
そして一度はボロボロになった八代家は、元の形に戻ることはなく、新たな形へと生まれ変わっていくことになる。
読んでいただきありがとうございます。
とりあえず無駄に拗らせてしまっていた設定の消化は以上になります。
連載開始時の後先考えていない設定(伏線?)ほど怖いものは無いと実感しました。
改稿履歴
2021/02/03 21:35 サブタイトルを変更しました
2021/02/04 02:21 祖母のシーンにおいて、育児経験者としての立場が明確になるように、アカリをサポートすることに関してすでに決定しているという旨の文章に修正しました。
2022/04/29 19:05 祖母の意図について補足文章を追加しました
2022/05/08 09:09 アカリの心情描写を追加




