#144 台風
運動会の練習に精が出る九月末。
(不気味だ……)
マコトは流れ行く黒い雲に覆われた空を見上げる。
朝見たニュースでは、今晩あたりに台風が最接近すると天気のお姉さんが言っていたことを思い出す。その進路は予測ではあるが、マコトたちが住んでいる地域と完全に重なっていた。
それでも幼稚園は今日も通常稼働だ。
幼稚園側も子どもたちが帰られなくなるリスクを負いたくはないが、預けられないと困る家庭もある。朝の段階では幼稚園を完全に休みにすることは出来なかった。
そのため三人の学年主任は常に台風情報をチェックし、今も子どもたちを帰すタイミングを見誤らないようにと気を張っていることだろう。
しかし昼を過ぎても天気が大きく崩れることはなく、徐々に風が強くなるだけ。
強風でも危険がないわけではないが、強制降園に踏み切るだけの理由には少々弱い。
午後最後の授業が運動会の練習であるうさぎ組も、雨が降ってきたら体育館へと移動する予定だったが、結局授業終わりの自由時間まで外で活動ができてしまっていた。
それどころか残暑を吹き飛ばし、運動するには快適とさえ思えてしまうのだから、マコトが不気味と思うのも無理はないだろう。
(それにしても……、お前らは楽しそうだね……)
静かに迫る台風に警戒する大人たちやマコトとは違い、園児たちは無邪気にはしゃいでいる。
怖いもの知らずか、はたまた未来へ立ち向かうエネルギーが有り余っているのか。
「なぁマコト! たいふーにのったらそらとべるか!?」
「……頑張れば出来るんじゃない?」
「まじか!」
「じゃあがんばってみる!」
「ふぁいとぉー!」
「オレもそらとぶ!!」
「いっぷぁつ!」
「オレがさきだぁ!」
「にぱぁつ!!」
「ねぇ! いまとべた!?」
「さんぱぁつ!!!」
マコトの雑な返答――されどボスの返答を聞いた男の子他たちは、追い風を背に走り、ぴょんぴょんと飛び跳ね、そして両腕を羽ばたかせては人の身だけで空を目指そうとする。
しかし当然ながら飛ぶこと叶わず、せいぜい地上三十センチほどを跳ぶのが限界である。それでも十分楽しそうではあるが。
「にんげんはそらとべないし」
「たいふうってあぶないんだよ! うしさんとんできたりするんだよ!」
「これだからおとこのこは……」
「ユウマくんがんばってー!」
そんな同級生男子他を呆れた様子で見る女の子たち。
どうやらすでに男女で精神年齢の違いが出てきているようだ。一部を除いて。
「マコトくんがへんなこというからだよ! けがしたらどうするの!」
「……申し訳ない」
しっかり者の子どもに注意される大人。
彼もまた男の子であることには変わりないということだろうか。
(釘だけは刺しておくか……)
万が一彼らが暴風の中遊びだして怪我をして、その原因が自らの発言と言われては困る。念のためマコトは友人たちに声を掛けておく。
「お前ら危ないことはするなよー」
「だいじょーぶだ!」
「けがしたらあそべなくなるからな!」
「かーちゃんにしんぱいかけたらダメなんだろ!」
「よーちえんやすみたくないからむりはしないんだよ!」
「なら良し」
そんな返事をしながら、なおも挑戦を続ける友人たち。
マコトは彼らが目指す空をもう一度見上げる。
(家に帰るまで降らないといいんだけど……)
相合傘のチャンスを待ちわびているであろうスズカには悪いが、この強風の中で傘をさすのは少々辛いものがある。それにバス停で我が子の帰りを待ってくれている親も大変だ。お母さま方は色んな意味で湿気が大敵であるからして。
そんな母を想うマコトの祈りが通じたのか。
雨が降り始めたのは家に帰り、そしておやつを食べ終わる頃だった。
「おー……、急に降ってきたねー……」
「ほんと、凄いね……」
ベランダへと続く掃き出し窓を、一層激しく叩き始める音にミオが反応する。
「アカリも休んで正解だったね」
「そうね……」
本来平日で出社しているはずアカリだったが、会社側から『帰れんなら来るな』と言われ休みを取っていたため、この風雨の中の帰宅を免れていた。
昼過ぎまでは休まなくても大丈夫だったんじゃ……と思いかけていたが、現在の窓の外を見ると判断は正しかったと思うしかない。
ミツヒサは育休ワーク期間中だったため言うまでもなく。
「あぅま!」
「まぁ、ぶっ!」
「んー、二人は台風怖くないの~?」
「今はお外は我慢しようね~。色んなものが飛んできて危ないからね~」
一歳の誕生日まであと一ヶ月を切ったフウカとキョウカは、台風を怖がるどころか興味津々のようだ。それぞれミオとアカリに抱きかかえられ、窓をペタペタと触っている。
そんな双子の姉はと言えば……今日も逞しく淑女道を歩んでいた。
「まーくんこわい♪」
「……」
潜り込むようにマコトのお腹に顔をうずめるスズカ。
本当に怖がっているのかと指摘するのは野暮というものである。マコトも何か言いたげな表情ではあるが、とりあえず安心させるように無言でスズカの頭を撫でる。
「抱き着くならパパの方が良くないか? 体も大きいし頑丈だぞ?」
「パパはママをまもる」
「今度はそう来たか……」
日に日に父を断る言い訳が上手くなる長女。
別にミツヒサが嫌いなわけではない。父と娘の関係は非常に良好だ。ただマコトの方が良いというだけで。
「マコト、身を挺して守れよ?」
「うん、もちろん」
「骨は拾ってやるから」
「え、ちょっ……」
もちろん仲の良い男同士のウィットに富んだジョークである。はず。
◇◇◇
そして台風の激しさが増す夜。
いつものように全員で夕食を一緒に取った後、多少濡れながら自宅に帰ってきたアカリとマコトはお風呂に入っていた。もちろん一緒に。四歳の息子とその母であるからして。
頭と体を洗い終え、湯船に浸かって二人が一息ついた次の瞬間――
「きゃっ!?」
「!?」
突如暗闇に覆われる。
それは浴室だけではなく洗面所も。おそらく他の部屋、お隣さんも似たような状況だろう。
「まーくん大丈夫?」
「僕は大丈夫。お母さんは?」
「うん、お母さんも大丈夫……」
視界がゼロの中、アカリは何よりもまず我が子の身を案じ、マコトも母を心配させまいと落ち着いた声音で返事をする。
「えっと、どうしよう……」
停電の中、何かしらの行動を起こさなければと思うも、上手く考えがまとまらないアカリ。
一人っきりの状況ならどうとでもできるが、ここにはまだ四歳のマコトがいる。しっかりしているとは言え、お風呂に一人置いていくのも不安だし、暗闇の中連れ回すのも危ない。
念のために懐中電灯は用意してあったものの、防水仕様ではなかったために着替えの横に置いたまま。こんなことになるなら密閉袋にでも入れて持ち込めば良かったと思うも後の祭りである。
「お母さん、入ったばっかりだし、とりあえず温まろ? しばらくしたら目が慣れるかもしれないし」
「……そうね」
妙に冷静な息子に、戸惑っていたアカリも落ち着きを取り戻し、浮かせかけていた腰を完全に下ろす。
「まーくんは落ち着いてるね?」
「うーん、ほら、すーちゃんとよく停電ごっこしてたから」
停電ごっことは布団を被り、真っ暗な中でイチャイチャする遊びである。
もちろんこれは方便であって、マコトが落ち着いている理由ではない。
「それにお母さんが一緒だし」
「まーくん……」
こんな状況ではあるが、その言葉にアカリは顔をほころばせる。
マコトは賢くしっかり者で、育てるのに手が全くと言っていいほどかからない。片親でかつ仕事をしながら育てる身としては、この上なくありがたいことなのだろう。
でも親としては寂しくなることもある。それが贅沢な悩みであることは自覚している。
もっと頼って欲しいし、もっと甘えて欲しい。もっと一緒に遊びたい……けど、日中はスズカがマコトを独占してしまう。
(顔見えなくて良かった……)
最愛の息子に頼られたことで、嬉しさのあまりだらしなく緩んでいるであろう今の自分の表情が、マコトには見えていないことに安心するアカリ。親としての威厳は保っておきたいのである。
「あ、お母さんは僕が守るから安心していいよ」
「ふふっ、ありがと。でもそういうのはすーちゃんに言ってあげなきゃ」
「……でもお母さんも守りたい」
「もう、まーくんはカッコいいね」
そしてマコトが落ち着いている本当の理由は、単純にアカリに格好悪いところを見せたくなかっただけだったりする。体は子どもであっても、しっかり男ということなのだろう。
「じゃあ、まーくんぎゅうしていい?」
「……充電しても人は光らないよ?」
「頑張れば光るかもよ~? ほら、私の名前アカリだし」
「……お湯冷めてきた?」
「そんなすぐ冷めないよ。まーくんの意地悪……。じゃあ、ぎゅうしてあっためてあげよっか?」
「ぅもっ!?」
暗闇の中だからだろうか。妙に聴覚と触覚が敏感になる中、急に体を引き寄せられ包まれる感触にマコトの口から変な声が漏れた。
「どう?」
「……うん、あったかい」
「そっかそっか」
背後からマコトを抱きしめ満足そうなアカリ。
そして抱きしめられる当人もまんざらではないのであった。
読んでいただきありがとうございます。
最近アカリの影が薄かったので…




