#131 追う神童
大変遅くなり申し訳ございません。
シャワーを浴び終えて一息ついたスズカとマコトは、夏休み初日に作ったタイムスケジュールに従い、お勉強タイムへと突入していた。
仲良く並んでローテーブルの前に着席する二人の目の前にはプリントが置かれている。ミオが表計算ソフトでサクッと作った”百ます計算”のプリントだ。
ただこの百ます計算、よく見るとますの数が少ない。数えてみると百問なく、八×八の六十四問しかない。
幼稚園児にとって百ますはちょっと多い……というのも理由の一つではあるが、彼らの母親が六十四ますで育ってきたということもあり、戸塚家八代家のお勉強ではこれが普通となっていた。
”六十四ます計算”と語呂が悪いのが難点ではあるが、上下左右に計算元の数字を配置することで全体の枠の数は丁度百。角のますは左上以外遊んでいるけど丁度百。であるからして、これだって”百ます計算”って呼んだっていいじゃない、とミオの主張。
そんな百ます計算のプリントを前に、マコトとスズカはしっかりと削られた2Bの鉛筆を持って準備万端。ストップウォッチを手にするミオの開始の合図を待っていた。
「それでは位置について……いるので、よーい、スタート!」
『ピッ』と鳴ると同時に、スズカとマコトは勢いよくますを埋め始める。
マコトにとって百ます計算はなんてことはない。
中身は諸事情によりそれなりの学を修めた大人。足し算の答えは息をするように自然と出てくる。
お隣のスズカはというと、左手で縦の数字を指さしながら黙々とますを埋めている。
速さを求めるあまり、字がぐちゃぐちゃになっていることもない。一人前の淑女になるためには、字も綺麗でなければならないのだ。
そうしてあっという間に時間が過ぎる。
マコトが先に鉛筆を置き、その後まもなくスズカも。
「ママ、タイムは?」
「すーちゃんのタイムは~……、一分五十九秒! 二分を切りました! おめでとうございます!」
「すーちゃんおめでとう」
「~♪」
当面の目標であった二分切り。それを達成できたスズカは隣に座るマコトの胸に顔をうずめて喜びを顕わにする。決して抱き着きたいだけではない。
「まーくんは~……、一分五十秒!」
「まーくんすごい!」
「うん……、ありがと」
自分よりも十秒近く早いそのタイムに、スズカから純粋な称賛の眼差しを向けられるマコト。その内心は少々複雑である。
「じゃあ次は掛け算ね~」
「ん!」
そのまま続いて新しいプリントが二人の前に入れ替わり用意される。そしてミオの合図。
マコトは一分五十八秒、スズカは二分十三秒。
「むぅ……、かけざん……」
先ほどよりも若干のもたつきがあった掛け算。足し算のようには上手くいかなかったと、自己新記録ながらもそのタイムにご不満のようだ。スズカはマコトのお腹に顔をうずめて悔しさを顕わにする。決して抱き着きたいだけではない。
「いちゃついてるところ悪いけど採点終わったよ~。……ではまずまーくんから。どっちもミスなし!」
「おー」
パチパチと拍手をするスズカ。
「すーちゃんは惜しかったね~。足し算の方は二つ。掛け算は三つ」
「むぅ……」
ミスをゼロにできなかったと、返された答案を見ながらスズカは眉間に皺を寄せる。
しかし五歳児にしてこれだけの計算力があれば上々だろう。
六十四問を百二十秒。つまり一問あたりにかかっているのは約二秒だ。単純換算はできないかもしれないが、百ますであれば三分二十秒。目安タイムから言えば小学二年生相当だろうか。
まだ書き取りも練習中の年中さんでこのタイムと正確さがあるなら、非常に優秀であると言えるだろう。
事実、スズカは幼稚園でも飛びぬけて優秀である。
現クラスでは勉強で(ついでに運動でも)彼女の右に出る者はいない。日曜参観でも他者の追随を許さぬ圧巻のパフォーマンスであった。
しかし彼女は調子に乗ることも、成長を止めることもない。すぐそばに自分よりも凄い子がいるのだから。
ちなみにマコトに勉強で勝てないからと言って、スズカが不貞腐れることはなかった。彼のすぐ隣で育ってきた彼女にとって、”まーくんはすごい”は最早普通の事である。
そもそも彼女はマコトに勝ちたいわけではない。大好きな彼とずっと一緒にいたいだけ。そのために必要なのは”勝利”ではなく”淑女の嗜み”だ。
そしてその想い人であるマコト。中身の割にタイムが残念すぎないか……と思われるかもしれないが、当然全力ではない。
スズカの手前、あまりにも差がありすぎると彼女のやる気にも影響してしまうだろう。マコトの背が見える位置にあるからこそ、スズカは追うことができる。そしてその追いかけるスピードは御覧の通りだ。
それに一応マコトも四歳児。まだ四歳児なのだ。成長の余地は用意しておく必要がある。大切な人たちに幻滅されないためにも。
そうしてウォーミングアップを終えた二人は、市販の算数ドリル(小学二年生)に取り掛かる。
「……まーくん、ここおしえてほしい」
「どれどれ……」
生徒兼教師役のマコト。前世では大学時代、家庭教師のアルバイトをしていた経験が生きているのかもしれない。
拘束時間が短い割に単価が高く、中学レベル程度までなら事前準備無しでもどうとでもできるし楽ちんだろう、と安易な発想で始めたものであったが、バイト選びなんて大抵そんなものである。
「まーくん、このにょろにょろしたやつなんてよむ?」
「これは”へん”って読むんだよ。このとんがってるところの線が辺ね」
「へん……。へんなの。ん、おぼえた」
これほど優秀な生徒であれば、家庭教師ほど楽な仕事はないのかもしれない。
今の二人のやり取りから何となく察しているかもしれないが、スズカたちは漢字だけの勉強はあえてしていない。
まだ就学前だからこそできる方法ではあるが、いつ使うか分からない漢字をただ詰め込むよりも、テレビや本、問題文に出てきた際に、興味を持ったり必要に迫られたりして覚える方が効率的だ。
それに漢字の書き取りの反復練習であれば、小学校に上がれば嫌になるほどやることになる。夏休みの宿題として”漢字ノート一冊”は定番中の定番だろう。就学前までは何となく読める程度で良いかな、というのが大人たちが出した結論である。
ちなみにミオはそんな二人の傍らでノートPCをカタカタと。決して教師役を取られて拗ねているわけではない。主婦の束の間の休息である。
そうして三十分ほどかけて算数ドリル一ページも終えた二人。
一旦休憩を挟み、残りのお昼の時間までは自由学習――読書の時間だ。
スズカは市の図書館で借りてきた本が入ったバッグをごそごそとまさぐりに行く。その中から一冊の本を選び出すと、マコトのすぐ隣に腰を下ろす。
「これよむ」
「あいさー」
本の両端をそれぞれが持ち、いつものように一緒に黙読し始める二人。
読んでいるのは絵本……ではなく童話だ。小学校低学年向けであるため漢字も登場するが、ふりがなも振ってあるためスズカでも難なく読める。言葉の意味が分からなければマコトに聞けば問題ない。
「「……」」
言葉も合図もなく、ぺらりとマコトがページをめくる。
スズカがどのあたりを読んでいて、どのタイミングで次のページに進めばいいかなど手に取るようにわかる。生まれながらの幼馴染は伊達ではない。
もちろんマコトもしっかり内容に目を通している。
絵本や童話から学べること――改めて気付かされることは少なくない。
大人になって、社会に出て、忘れてしまいがちなもの。大人こそ童話や絵本を読むべきではないだろうかと考えていたりいなかったり。
そして彼の言動にも、少なからず影響を及ぼしているのであった。
読んでいただきありがとうございます。
仕事の方も地獄を抜けたはずなので、更新ペースを上げ…
って言うと、おそらくフラグになるんですよね…




