始まりの足音
ここから新章になります。
ある朝、久々に泊まり込みをせずに、研究課へ出勤してきたイリアは、資料を借りるためにリーヨォの研究室へ来た。
朝は徹夜明けのリーヨォが寝ていることがあるので、そっと部屋に入ったイリアだが、部屋の主は起きて机に向かい、何かをじっと見つめている。
イリアが背後から近付くと、リーヨォは気付く様子もない。
彼の手に持っているのは、先日リーヨォが紙に描いた人物画だ。
「何よ、コレって街道に出たっていう【魔王】じゃないの」
「っっうっおわぁああああ――――っ!! ぐぁっ!!」
「きゃああっ!? 何っ!?」
普通に話し掛けたイリアだったが、リーヨォは盛大に驚き、イスごと後ろへひっくり返る。ひらりと【魔王】のモンタージュ絵が、イリアの足元へと滑ってきた。
「い……てて…………イリア、部屋に入ってくるならノックぐらいしろ!」
リーヨォは慌てて立ち上りイスを直す。
「別に変なもの見てたわけじゃないのに、そんなに驚くのがおかしいと思うんだけどねー」
「普通は驚くぞ…………で、何の用だ?」
「資料借りにきたんだけど」
「あぁ、勝手に持ってけ……」
拾った絵をリーヨォに手渡し、マイペースなイリアは目的の資料を探した。しかし、途中で手を止め、リーヨォの持つ【魔王】の絵に視線を落とす。
「でも……その【魔王】スッゴい美女よねぇ」
「まぁな……」
「そんなキレイな人、いなくなったらすぐ分かるんじゃないのかなぁ……」
「…………」
当たり前だが【魔王】は『悪魔』である。
そして『悪魔』というのは魔力の集合体であり、本来は人間の世界においては『実体』というものが無い。
悪魔が実体を持つためにはいくつかの方法がある。
ひとつ目は、魔力のハードルを下げること。
魔力のほとんどを身体の形成に使い、人間の世界にいても害の無い、小動物や虫ぐらいの大きさの保持であれば十分生きていける。
ただし、自然界の中で他の生物と競争しながら生きていくことになるため、悪魔の本質を持って生きることはほぼ不可能である。
ふたつ目は、人間の世界で繁殖する生命として産まれて生きることである。
この場合はこの世界に、自分の居場所が生まれた時に確保されるので、自然と溶け込むように生きていくことが可能だ。
しかし、悪魔以外の他の動物として生まれた場合は、生命を得た時点で悪魔としての記憶や魔力を失っている状態なので、下手をすれば死ぬまでその生命をまっとうして終えることもあるのだ。
みっつ目は、一番手っ取り早く、一番悪魔としての本質を失わずに活動できる方法。人間の世界に生きる『生物』に寄生すること。いわゆる【取り憑く】状態である。
死体に憑けば不死系、物に憑けば物質系と呼ばれる悪魔となる。
だが、生きている人間に取り憑いた場合は少々厄介だ。取り憑かれた人間が完全に悪魔に屈し、身体を明け渡してしまうと、悪魔はその人間に成り代わり生活を続けるからだ。
【魔王】や上級悪魔はふたつ目かみっつ目の方法をよく使う。
彼らは人間と同じかそれ以上の知識があるため、人間に擬態していると何かと便利であるのだ。
しかしどちらの方法も、人間を害するものであるため、退治の対象にされることになるだろう。
「この似顔絵で身元を探せるといいんだけど、捜索届け出てるかなぁ?」
「死体かもしれねぇぞ……【魔王】だしな」
悪魔でも【魔王】ともなると、例え死体に取り憑いたとしても不死族にならず、有り余る魔力で生前の活動を継続させることが可能だ。
その場合、一見すると普通の人間にしか見えないため、誰も悪魔と気付かずに世間に溶け込んでいることがある。
「あ、そっかぁ。【魔王】なら死体でも、それって分からないから、家族も捜してないかもね……」
「……お前、仕事してたんじゃなかったのか?」
「あー、そうそう、忘れるとこだったわ。じゃあこれ何冊か借りてくねー!」
「…………おう」
マイペースなイリアは、棚から目当てのものを見付けて出ていった。
軽い足音が部屋から遠ざかっていく。
「【魔王】…………か」
独りになったことを確認して、リーヨォは部屋のソファーにゴロリと横になり、再び自らの描いた【魔王】の絵を掲げ見つめる。
「何で……よりにもよって“人間嫌い”なんだよ……」
リーヨォは深いため息とともに、絵を持った片手を床へ投げ出した。
リーヨォが部屋にいるのと同時刻、ルーシャとリィケが合流する二日前である。
トーラストの街からある場所に連絡が入った。
リルダーナ王国の首都、聖王都リルディナ。
気候も穏やかな平野にあり、港町からも程好い位置、鉄道もここから各所へ延びている。
王都というだけあって、この国を象徴するように、農産、畜産、文化、歴史……国の全ての中心はここだろう。
そして何より、王宮に次ぐ権力ある機関、【聖職者連盟】の本部がある都だ。
【聖職者連盟】本部の一室。
その広い部屋はビロードの絨毯が豪華に敷かれ、両脇の壁には天井まである本棚が並び、何百という蔵書が納められていた。
本棚の他に目立つのは中央に置かれた机である。
一般家庭の倍はある広い執務用の机で、美しい木目に合わせたように天板の脇には彫刻が施されていて、いかにも要人しか寄せ付けないような重厚さが見て取れた。
厳格な雰囲気の部屋であるが、その硬い家具のあちこちに、花瓶に活けられた生花が品良く飾られている。その花瓶の配置も、大窓に掛けられたレースのカーテン越しの光が、それを柔らかく照らすために演出されていた。
その部屋の主は高位ではあっても、けして近寄りがたい雰囲気を持つ人物ではないと、存在する光や花が主張しているようだった。
「…………そう、解りました。私は一向に構いません。では…………当日、楽しみにしております……」
硬い執務の大仰な革の椅子に飲み込まれそうに座り、卓上の『通話石』と『水鏡』で話し込む者がいる。
年齢は16、7才。とても小柄で華奢な少女だった。
水色のクセの無いまっすぐ髪の毛が腰まで伸び、ほっそりした顔、大きな青い瞳の前には大きな丸い眼鏡を掛けている。
髪型も服も質素だが清潔感があり、一瞬見て『華やか』ではないが、『知的』という言葉の方が彼女には相応しい。
「……失礼します。よろしいですか?」
「えぇ、もう終わりました。待たせましたね」
「いえ……」
彼女が通話石を机に置くと、それを待っていたように、ひとりの青年が近付いてきた。どうやら彼は彼女の用件が終わるまで、部屋の隅に待機していたようだ。
青年は少女の今日一日の予定を読み上げると、間髪入れずに自分の用件も尋ねる。
「ミルズナ様、クラストの町への日程の方は、変えずに準備を進めてもよろしいのでしょうか?」
青年は見た目20才くらいだろう、身長は平均と同じか少し高いくらい。深い青色の瞳、目鼻立ちのはっきりした顔はとても真面目そうな、聖職に就いていると一目で分かる人物だった。
頭には十字架が描かれた縦に長い赤い帽子をかぶり、首から下は赤い法衣の襟に、白いマントで全体を覆っている。
帽子からは濃い金髪が覗いているが、唯一表に出ている肌は顔だけである。
これは聖職者連盟本部の司祭の法衣ではなく、王宮に仕える僧兵の服だ。
「話は聞いていたと思いますが、日程、時間ともにこちらの変更点はありません。明日の午後にはここを発ちますので、本日の業務が終わり次第、予定通り準備をしていて下さい」
「はい、承知しました」
青年が会釈をし頭を上げると、少女は身動ぎもせずにじっと青年を見ている。そして、頬杖をついて少し口の端を上げる。
「ねぇ? もちろん、あなたも行くのよね?」
「はい。私はミルズナ様のパートナーですから、連盟の活動は余程の事が無い限り、行動は共にさせていただきます」
少女は満足そうにニッコリと笑うと、大きく伸びをして椅子から立ち上がった。ずんずんと大袈裟な足音を立てて、部屋の扉へ向かう。
「さて、今日の仕事はさっさと片付けてしまいましょう! 明日出発して、明後日には現地到着です。忙しくなりますよ!」
「……? はい……」
青年は少女の謎の張り切り具合いを不審に思ったが、少し眉毛を動かしただけで詮索をしようとはしなかった。
……自分はこの方に付いて行くだけだ。
少女のために扉を開け後ろに付き従う青年の顔は、少女とは正反対で気さくな雰囲気とは程遠い硬い表情だった。
――――――そこには時間は無く、並ぶのは苔むした廃墟ばかりの町である。
昼間であるのか、町全体は明るい。しかし空は青空でも曇りでもなく、どこまで見渡しても平坦で白い。
舗装されていたはずの道は割れて雑草が生え、レンガと石で造られた家々は所々崩れて、苔や草の蔓で覆われてしまっていた。
その街並みは見渡す限り廃屋が並ぶが、誰かに壊されたというわけではない。どちらかというと、人が出ていってそのまま何十年と月日が経ったように、最低限の崩れ方しかしていないのだ。
サク……サク……サク……サク……サク……
廃墟の雑草の道を誰かが歩いている音がする。
サク……サク……サク……サク。ジャリ。
足音が、ある場所で止まる。
そこは比較的小さな、廃墟の教会だった。
「………………ぁ」
小さな声が微かに響く。
教会の前に、それを見上げるように立っていたのは、一人の子供だった。
短い黒髪に全身黒い服。12、3才くらいの整った中性的な顔立ちの少年。
左目には眼帯をしているが、右は深紅に近い赤の瞳。
少年は地面のある一点を無表情で見つめている。
見つめる先の地面にあったのは、石畳の上に積もった砂埃、そこに残っていた“小さな足跡”だった。
「………………」
首を傾げながら、小さな足跡の横に自分の足を置いて、大きさを見比べている。
「………………だれ……?」
明らかに自分より小さな足である。
少年はしゃがんでその足跡に触れ、そっと目を閉じた。
しばらく動かなかった少年は、やがて静かに右目を開く。
「……まちの、そと……」
立ち上り、町の入り口らしき崩れた門の柱を睨む。
ジャリ、サク……サク……サク……サク……
門に向かって、何の起伏も無い足音が始まる。
「…………やっと、きた…………ぼくの…………」
ぼそぼそと発せられる少年の言葉は、静寂に包まれる廃墟の町でさえ、響くことなく空間に流されていった。




