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訪れるその日

 朝、ルーシャは起きてからすぐに、動きやすいいつもの服で身支度を終え、家の庭の一角にたたずんでいた。


 この家には門から入って玄関までに小さな庭があるが、門から向かって左手側の奥に二つ並んだ小さな石の墓がある。


 これは本当の墓ではない。祈るための墓だ。


 この国ではこのような墓は珍しくない。本当の墓は街の墓地にあるが、その墓が遠い者や高齢であまり出掛けられない家の庭には、必ずといっていいほどあるものだ。


 この家から墓地までは徒歩で二十分と掛からないが、この五年の間にルーシャは本当の墓には近付けないでいる。祈るためのこの墓でさえ、草取りや掃除以外にはあまり触れることはない。


 ルーシャは墓の前に立って静かに目を閉じる。


 数分後、その場にしゃがみ、墓に刻まれた文字を黙読した。

 墓には二人ずつ名が彫ってあり、ひとつは義父母であるフォースラン夫妻の名だ。


 もうひとつの墓の文字をゆっくり指でなぞる。



『神の子供にして友人である者


 レイラ・ケッセル

 ■■■■・ケッセル


 天上の神の隣にて安息を得る』



 当時、レイラの名とともに、子どもの名前を刻むはずだったが、ルーシャはそれを拒んだ。


 子どもの名前はレイラが決めていて、産まれるまで内緒だと絶対に教えてはくれなかったのだ。



 たぶん『リィリアルド』……リィケの名は、ラナロアが付けた名前だろうな。

 オレの名前が『ルーシアルド』だから。



 はたして、レイラはどんな名前を考えていたのか。文字通り墓まで持っていってしまったので、ルーシャには永遠に知る術はない。


 だからこそ、子どもの名前は刻まない。

 ルーシャはずっと、そう思っている。



「…………じゃあ、仕事に行くよ……」


 ルーシャは小声でそう言うと、黒い大きめのカバンを抱えて、朝早く人通りも少ない通りに出ていった。




 街の門を抜けて、街道をいつも通り歩いて行く。


 やがて解りやすいくらいの分岐が現れ、そこにある立て看板の前で立ち止まった。


 この分岐をそのまま東へ行くといつもの宿場町。

 南東の道を進むと、駅の町へ行くことになる。


 ルーシャは小さく息を吐くと、迷わず宿場町へ向かう道へ進んでいく。



 ルーシャの背後、遥か遠くに見えるトーラストの街から、朝一番の教会の鐘の音がここまで聞こえてきた。




…………………………

………………




 昼までは、まだ時間がある。


 リィケはベッドの端で、両手でフサフサしたクマのぬいぐるみをいじりながら、部屋の天上の真ん中をボーッと眺めて座っていた。


 すると、部屋のドアが控えめにノックされる。

 リィケが返事をすると直後にドアが開いて、世話係のメイドのマーテルが顔を出した。


「リィケ様。そろそろ、馬車が来ますので、玄関までいらしてください。荷物は私が乗せておきますので」


「うん、ありがとう……マーテル」


 マーテルは一礼して、リィケの荷物を持って廊下に出ていった。


 リィケが時計を見ると、いつの間にか予定していた時刻になっている。



 伯爵であるラナロアの屋敷の、リィケの部屋。


 広い部屋に質の良い家具が揃い、全体的に大人っぽいシックな雰囲気だ。部屋の中央の天蓋付きのベッドに置かれ、その周りの巨大なウサギやその他多くのぬいぐるみだけが、変に子供らしさを強調している。


 腰掛けていたリィケは、今まで抱えていたクマのぬいぐるみを置き、掛けてあった上着を羽織った。



 大きな階段を下りて玄関に向かうと、すでにラナロアが立って待っている。

 いつもの白ずくめのマントに帽子の姿である。


「忘れ物はありませんか?」

「うん、さっきマリエルと一緒に点検したし、マーテルにも見てもらったから大丈夫」


 ラナロアと話しているうちに、外に馬車が停まる音がして、玄関の扉が開いた。


「お待たせいたしました。旦那様、リィケ様、どうぞお乗りください」


 扉を開けた人物が深々と頭を下げ、二人を馬車へ促す。


 この人物は屋敷の執事のカルベリッヒ・ケルーという。

 きっちり整えた白髪頭と、丸い眼鏡のこの老人は、ラナロアに長い間仕えているのだ。特徴的なのは、リィケよりも頭ひとつ小さく、長い耳に大きな鼻である。


「では、カルベ行ってきますね」

「いってきます……」

「はい。行ってらっしゃいませ。旦那様、リィケ様」


 ラナロアは最初にリィケを馬車へ乗り込ませ、見送りに立つカルベリッヒに声を掛けた。カルベリッヒは頭を下げながらも、今回のリィケの出張には難色を示していた。



 心配性のカルベリッヒは、まだ中身が五歳であるリィケのことをとても気に掛け可愛がっている。リィケが出掛ける度にこっそり後をつけ、大事がないか見守ってきていた。



「旦那様も本当は、リィケ様が戦いの場に出るのは、心苦しいと思っておられるのに……不安しかないのぉ……」


 どこの公爵にも負けないような前庭を抜け、馬車が屋敷の門をくぐったのを確認すると、カルベリッヒはひとりでぽつりと本音をこぼした。


「仕方ありませんわ。私たちは旦那様のお考えに従うだけですから……」

「おぉ、居たのか、マーテル。今のは皆には内緒にしてくれるとよいのだが…………あぁ、いや。今更じゃな……」


 急に横から現れたマーテルに驚き慌てるが、すぐにカルベリッヒはしゅんとした顔をする。


「まぁ……皆もそう思っているし、旦那様も分かってはおられる……が、何ともやりきれぬ。リィケ様はまだ子供じゃぞ? ワシは……できれば、ルーシャぼっちゃまとリィケ様が静かに、悪魔などに関わらずに…………」


 マーテルは下を向くカルベリッヒの横に並び、広い前庭を慈しむように見回した。


「カルベ様。旦那様の荷物、ご覧になりましたか?」

「あぁ、見たとも。だからじゃ。だから、やりきれぬ」


「大丈夫です。きっと、神も今度こそ悪いようにはしません。旦那様だってそう思っていらっしゃいますよ」

「そうだと良いが……」


 しばらくの間、マーテルとカルベリッヒは馬車の行った方角を、祈るように見つめていた。







 駅の町はリィケが思ったより小さな所だった。


 鉄道があるくらいなのだから、もう少し賑わっているかと思いきや、この国では汽車を利用する人間はあまり多くない。


 目的地付近まで早く着ける利点はあるが、運賃が乗り合い馬車の十倍以上するうえに、線路上の悪魔の襲撃が防げないのが原因だ。

 汽車の動力が他国と同じ魔力であるのも、法力を主としたリルダーナ王国ではあまり受け入れられないのだろう。

 旅をする者の大半は、浄化の効いた街道を馬車か徒歩で行く。



「でも、汽車ってスゴく大きくてかっこいいね!」


 初めて乗る汽車を目の前に、リィケは興奮気味で黒い車体をペタペタと触っている。


「そうですねぇ。今日は連盟の者たちも多く乗っていますから、途中で悪魔が出ても線路には近付かないと思いますよ」


「……じゃあ、安心だね。ラナもいるもんね」


 ラナロアはにっこりと笑うリィケを連れて、乗車券に記された車両に乗り込んだ。




 指定された座席は一般車両とは違い、『コの字』型のソファーのような物が置かれた個室になっていた。

 広々としていて、大人が四人から六人くらい余裕でくつろげそうだ。


「……汽車なのに、部屋になってる」


 リィケは窓に近い場所に座って外を見た。

 たぶん、走り出せば景色が良いと想像できる。


「リィケ、少し良いですか?」


 ラナロアは個室に入らず、入り口からリィケに声を掛けてきた。ラナロアは少し申し訳無さそうな顔でリィケに笑い掛ける。


「何?」

「急用を思い出しまして……。私は車外に出て用事を済ませてきます。発車までには戻りますので、あなたはここで動かず待っていてください」

「うん、分かった」


 少し不安ではあったが、リィケは個室から出ていくラナロアを見送り、再び窓から外を眺める。


 隣のホームでは、反対方向へ向かう貨物の汽車が荷降ろしをしているところだった。単純な作業風景だが、それさえも汽車の中から見ていると楽しくなってくる。


 ルーシャと乗っても楽しかったかな……。


 そう思ったが、ぷるぷると頭を振って消した。

 ルーシャと一緒にいることは考えてはいけないと、この数日でリィケは自分に言って聞かせていたのだ。



 ふと、向かいのホームの時計が見えて、そろそろこちらの汽車の発車時刻だと気が付いた。しかし、ラナロアがまだ戻って来ていない。


 ……大丈夫だよね。


 まさか、ラナロアに限って汽車に乗りそびれることはないだろうと、のんびり構えていたリィケだった。だが、発車を知らせるベルの音が鳴り響き、汽笛が聞こえたのに、ラナロアが戻らないことに段々焦りが出てきた。


 ラナ、本当に戻ってくるよね?


 不安になり、個室の外を見ようと座席から立ち上がった時、車両の通路をこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。


 通路の窓ガラスに一瞬、背の高い白い影が映った。


 良かった。ラナだ。


 しかし次の瞬間、リィケは目を見開いて硬直した。



 その人物をラナロアだと思ってしまったのは、全身ほぼ白ずくめで、ひざ丈までのロングコートとブーツという姿のため。


 そこから、腰の茶色の太いベルトに、大きな金の十字架が専用の留め具で固定されているのが目に入り、やっと錯覚ではないと確信した。



 リィケはゆっくり視線を上に戻す。


 ――――見慣れた“銀紫の髪”


「あ………………」


「……走り始めは揺れるから座っていろ。危ないぞ」


 リィケの向かい側に座り、不機嫌そうに腕組みをする。


「…………ルーシャ……何で……?」


 今日、ここへ来るはずのないルーシャの姿に、リィケは腰を抜かしたように席に座り込む。



「ラナロアは忙しいから、オレが代わりに行くことになった。連盟じゃ、人員の変更も多々ある。指名されるようになってから一人前だと思え」


「そうじゃなくて…………退治員……」


「五年も連盟から離れていたから、今はAランクに下がった。でも、お前のパートナーくらいは問題ない」


「…………パートナー……」

「不服か?」


 ぶんぶんと首を振って、リィケは改めて真向かいのルーシャを上から下まで見た。ルーシャは顔を背けている。


 リィケはたまらずルーシャに飛び付こうとした。


「えへへ、ありがとう! お父さ――――うわぁっ!!」


 ガタン! と、音がして汽車が走りだし、リィケはルーシャに届く前に床へ横倒しになった。


 突っ伏したままでなかなか起き上がれないでいると、揺れが小さくなったのを見計らって、ルーシャがリィケの腕を掴んで引っ張り上げる。



「だから……走り始めは揺れるっていっただろ。危ないから大人しく座れ……」

「だって…………」


 座ったリィケはルーシャを上目遣いで見上げた。

 ルーシャは横目でリィケを見た後、軽くため息をつく。


「…………オレは何処にも行かないから」

「うん……! お父さん!」


 汽車の音に消されそうな声で言うルーシャに対して、リィケは満面の笑みで応えた。




…………………………

………………




 ……シャ……パシャ……パシャ……、パシャ……、パシャ……。


 暗闇の中。


 水溜まりを踏む音が、どんどん濃い暗闇へ向かっていく。ゆっくりだが、見えない中で足取りはしっかりしている。


 その足音が、急に止まった。


「やぁ、起きたかい?」


 低いがどこか明るい口調の男の声。


 暗闇の中で掛けられた声は、辺りに反響している。

 まるでどこかの洞窟で話したようだ。


「…………今、起きた。目覚め、最悪…………」


 それに応えた女の声は気だるげに響く。


 その時、ある一転に炎が揺らめいた。

 そして次の瞬間、一個の炎はいくつもの小さな火を飛ばす。まるで、火のついたマッチの束が四方に飛ばされたようだ。


 ボッ! と、くぐもった音がして、その空間が一気に照らされる。


 晒された場所は石壁に囲まれたダンスホールのような広間だった。壁に掛けられた何百というロウソクが一斉に燃えて、広間を怪しく照らし出している。



 広間の真ん中、そこには彫刻が施された石の祭壇があり、そこにひとりの女が座っていた。女は伸びをしてふらりと立ち上がり、声のした方を向く。


「あ~あ……しくじったわぁ……。悪いけど、アタシは少し休ませてもらうわよ…………まだ魔力が戻らないの」


 長いウェーブの掛かった黒髪、美しく整った顔に、左目の下にはホクロがある。一目見て絶世の美女だ。


【魔王ベルフェゴール】は再び身体を伸ばす。街道にいた時は質素なローブを羽織っていたが、今の彼女はレースをふんだんに使った漆黒の絹のドレスを身に纏っていた。



「本当に珍しいね。君が精神体だけだとはいえ、魔力を抜かれて戻るなんて…………」


 薄暗がりからベルフェゴールに近付いていくのは、頭から爪先まで真っ黒な全身鎧(プレートアーマー)で覆われた、背の高い男性と思わしき人物。彼の中身が露出しているのは鼻から口元とアゴだけだ。




「半分はあんたのせいよ。あんたが殺した女の旦那と子どもにやられたわ。しかも子どもは、とんでもない『神の欠片』を使う【サウザンドセンス】だった」


「あぁ、やっぱり生きていてくれたのか。で? 魔王殺し(サタンブレイカー)の子どもは可愛い子だったかい?」


 男の口の端が含むようにつり上がる。

 ベルフェゴールはそれを見て眉をしかめた。


「…………あんた、あの子のこと知ってたでしょ?」

「さぁ、ね。君が報告してくれないと話せないな」


 ベルフェゴールは男を睨み付けたが、すぐに諦めたように息を吐いて、スタスタと暗がりへ歩きだした。


「あっちで話すわ。熱いお茶が飲みたい」

「あぁ、いいよ。用意させよう」




 二人の会話はどんどん広間から離れていく。



 声が聞こえなくなった瞬間、広間のロウソクの火は一つも残らず消えた。


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