Stand My Ground (5)
(1)
「――して、時の女王エリザベス一世は、×××国の無敵艦隊を――……。……グレッチェンさん??……聞いていますか、グレッチェンさん!」
「……え??……あっ!す、すみません!」
机の上に広げた教科書を眺めていた――つもり、だったのに。
いつの間にか、物思いに耽っていたグレッチェンの頭上から厳しい叱責が降り注がれる。
恐る恐る顔を上げると、髪をきっちりと高く結い上げた、いかにも厳格そうな女性が眼鏡の奥から鋭く見下ろしている。
「勉強中に、他事に気を取られるなど言語道断ですわ」
「……申し訳ありません、ワトソン夫人」
厳重な注意を受けてしまったグレッチェンはしゅんと項垂れ、教科書の項をささっと捲りあげる。
以前は、シャロンが薬屋の仕事の合間を縫って勉強を教えてくれていたのだが、切り裂きハイド事件のせいで店に行けなくなって以来、ワトソン夫人という家庭教師が付くようになった。
勤勉で真面目一徹なワトソン夫人は一見とっつきにくかったが、へらへらと媚び諂った笑顔を見せたり調子の良い世辞を一切述べたりせず、淡々と授業を進めていくところが、却ってグレッチェンには馴染みやすかった。
裕福な中流家庭の養女ではあるが、その実、得体の知れない訳有りの陰気な小娘に対し、必要以上に憐憫の情、と見せ掛けた畏怖や侮蔑の目を向けてくる者も少なくない。
他の生徒がどう感じているかは知らないが、ワトソン夫人の必要以上に慣れ合おうとしない、少々潔癖とも言える接し方のお蔭で、グレッチェンも集中して勉学に励むことが出来ていた――筈なのに。
ここ一週間近く、グレッチェンはどうにも気に掛かっていることがあり、小さな胸の中では靄が掛かったように、違和感ばかりが日に日に大きく成長していたのだ。
グレッチェンの気掛かり――、それは――、シャロンの様子がどことなくおかしい――、ということだった。
例えば、今までは朝食後に応接間で読んでいた新聞を、自室に持ち込んで読むようになったこと。
シャロン曰く、明け方の冷え込みで朝早くに目が覚めてしまうようになった、だから、エドナに直接部屋まで新聞を持ってきてもらい、朝食までの時間潰しがてら読んでいる、とのこと。
グレッチェン自身も寒さに身震いし、明け方近くに目を覚ますことはしばしばある。
けれど、一旦シャロンの元へ渡された新聞が、応接間及び他の部屋に戻された気配がないのだ。
(……もしかしたら、シャロンさんは私の目に新聞を触れさせたくないのかしら……。私に読まれたら不都合な記事でも掲載されているの??)
ふとそんな考えが過ぎったが何故彼が自分に新聞を見せたくないのか、理由を未だに尋ねることが出来ずにいた。
理由をはぐらかされてしまうのも、答えを知ってしまうのも、何だかとてつもなく恐ろしく思えてならなかったのだ。
更に、新聞の件以上にグレッチェンが密かに気にしていることがあった。
(……何故、シャロンさんは私と視線を合わせようとしてくれなくなったの??……)
シャロン自身は以前と変わらず、グレッチェンの目を見て話し、笑い掛けているつもりでいるのだろう。
しかし、視線の方向は自分に合わせてはいる――、が、焦点がぎこちなく微妙に泳ぎ、定まっていない。
知らず知らずの内の無意識に、シャロンの気に障るようなことを仕出かしてしまったのだろうか。
もしくはいつまでも甘ったれた子供でいる自分にほとほと嫌気がさしてしまったのか。
一度悪い方向へと向かうとどこまでも突き進んでいってしまう。
(……でも、勉強が疎かになっては元も子もないわ!頭を切り替えなきゃ……)
ワトソン夫人の授業に集中するべく、グレッチェンは教科書の見開きの間に挟んであるペンを手に取った――
パタン!
「……えっ??……」
グレッチェンがペンを握ると同時に、ワトソン夫人が手にしていた教科書を徐に閉じてしまう。
授業中うわの空でいたことが、生真面目な女家庭教師の機嫌を損ねてしまったのだろうか。
「……五分程、休憩を挟みましょう。授業内容の一言一句も聞き漏らすまい、と、常に真剣に勉学に励む貴女が集中力を欠いた態度を見せるのは、きっと疲れているからに違いありません。お手洗いに行かれるなり、お庭に出て外の空気を吸うなりして、気分転換でもしてきては如何ですか」
「…………」
ツンとした冷たい無表情でありつつ、余りに意外過ぎるワトソン夫人の気遣いに、グレッチェンはポカンと呆けたように、口を半開きにさせた。
「……あ、お、お気遣い、ありがとうございます……。それでは、お言葉に甘えて……」
戸惑いながらもグレッチェンは席から立ち上がり、二、三度ワトソン夫人を振り返りつつ部屋を出て行く。
グレッチェンの部屋は邸宅の二階に位置し、廊下を真っ直ぐ突き当りの壁まで進むと、左側に一階へと続く螺旋階段へと繋がっていく。
頭を冷やすために一階の洗面室へ顔を洗いに行こうと、階段の手すりに手を掛けた時だった。
階段の一番下の段から少し離れた場所――、家の正面玄関にて、出掛ける間際のシャロンがエドナからオーバーコートを受け取っていた。
そう言えば、時間帯的にシャロンが仕事に出掛ける頃であった。
階段から二人を見下ろしているグレッチェンに、どちらも全く気付いていない。
(……あら??シャロンさんが着ているスーツの色がいつもと違うわ)
シャロンは普段、瞳の色に合わせてか、茶系色のスーツを好んで着ている。
だが、今日彼が着ているスーツは鴉の羽根のように真っ黒であり、更には黒い手袋まで嵌めている。
(……ひょっとして、あれは喪服……??だとしたら、一体、どなたのお葬式に行かれるの??)
シャロンが今日葬式に出掛けるという話などグレッチェンは全く聞かされていないし、家族間での話題にすら持ち上がっていない。
しかし、シャロンを見送るエドナの様子からして、彼女は前もって話を聞かされていたのだろうし、エドナが知っているのであれば、当然マクレガー夫人も周知しているに違いない。
(……一体、どういう、ことなの……。どうして、私には何も……)
実の家族、否、それ以上にシャロンを始め、マクレガー家の人々を心の底から慕っていた分、グレッチェンは手酷く裏切られた気分に陥った。
更に追い打ちを掛けるように、エドナの口から俄かに信じ難い言葉が飛び出した。
「シャロン様、グレッチェン様はただ今お部屋でお勉強中です。さ、見つからない内に早く……」
何とエドナは、グレッチェンに出掛けるのを悟られぬよう、一刻も早く外へ出て行くようにシャロンを急き立てたのだ。
階段の手すりを掴んだまま、グレッチェンは表情を凍り付かせ、床に足を縫い止められたかのように、その場から動けなくなってしまった。
(……どうして??何故……、私に黙ってこそこそと秘密にするの??私が、血の繋がった本当の家族じゃないから??それとも、まだ子供だから??)
思いつく限りの理由をいくつか頭に浮かべてみても、到底納得など出来ない。
喉の奥が灼けるように熱く、口の中がカラカラに渇いていく。
ぎゅうっと心臓がきつく締め付けられ、キリキリと音を立てて激しく痛み出す。
何故、どうして。
二つの単語が馬鹿の一つ覚えみたく、頭の中で浮かんでは消え、また浮かんでは消え、と、延々と繰り返される。
グレッチェンに階段から見下ろされていることに気付くことなく、シャロンは玄関から出て行き、エドナも他の仕事に取り掛かるためにすぐに場を離れた。
二人の姿が玄関の前から完全に消え去ると、ワトソン夫人が掲示した五分、という時間がとっくに過ぎ去っていることが急に頭の片隅に過ぎる。
ここでようやく、授業中だったことを思い出したグレッチェンはハッと我に返ると、青ざめた顔色はそのままに慌てて自室へと引き返していった。
(2)
大幅に時間に遅れて戻ったグレッチェンに、ワトソン夫人は一瞬だけ片眉をピクリと吊り上げてみせただけで、特に叱責されることはなかった。
申し訳なさとほんの少しの安堵を覚えながら席に着いたグレッチェンに、ワトソン夫人はふぅ、と軽く嘆息してみせた。
かと思うと、やけに気遣わし気な、困惑したような視線と思いがけない言葉を投げ掛けてきたのだ。
「……随分と顔色がお悪いようで……。やはり、体調が優れないようですので、本日はここまでに致しましょう」
「……えっ?!わ、私なら、特に気分など悪くありません。ですから、授業を続けて……」
「いいえ。グレッチェン様は余り身体がお強くないので、決してご無理だけはさせないようにと、奥様やご子息様からはよく言い含められておりますから。続きは、また明日ということにしましょう」
引き留めようとするグレッチェンを尻目に、ワトソン夫人は持ってきた教科書類をさっさと鞄の中へ仕舞っていく。
「……あの……」
「奥様には私の方で事情を説明しておきますから、今日の所はゆっくりお休みください」
では、失礼致します、と、部屋から去っていくワトソン夫人を、グレッチェンは成す術もなく、肩を落として席に座ったままで見送る。
口では体調を心配してみせていたが、きっとグレッチェンの授業態度の悪さに腹を立ててしまったのだろう。
それならそれで、正直にちゃんと叱って欲しいのに。
先程のシャロン達といい、ワトソン夫人といい……、どうして、誰も彼も自分に本心を隠そうとするのか。
再び昏い考えがグレッチェンを支配し始め、教科書を拡げたままの机の上に突っ伏した。
しばらくその状態で居続けていると、ワトソン夫人から話を聞いたらしいマクレガー夫人とエドナがグレッチェンの様子を見に部屋に訪れた。
青白い顔をして机に伏せるグレッチェンを見た夫人達は、慌ててすぐに彼女をベッドに運んで寝かせた。
「いいこと??グレッチェン。今日一日はしっかり休んで、安静に過ごすようにね」
ベッドに横たわるグレッチェンの顏を、心配そうに覗き込む夫人からさりげなく視線を逸らしながら、小さく頷いてみせる。
夫人はグレッチェンの前髪や頬を撫でると、「何かあったら、必ず私かエドナを呼ぶように」と告げた後、程なくして部屋から出て行った。
夫人達が部屋からいなくなったのを見計らい、グレッチェンはベッドから起き上がった。
依然、顔色は悪いものの、決して体調が悪い訳ではないのだけど……、と、夫人達の過保護振りに当惑し、歯噛みする。
家族同然に大切に扱ってくれているのに、一瞬でも愛情を疑ってしまったのは猛省すべきだが、どうも必要以上に子供扱いされている気がしてならない。
これまでの境遇を慮ってくれるゆえの優しさだと理解してはいるが、反面、辛い事や自分が傷つく事などから過剰に遠ざけようとしている感も否めない。
『別に良いんじゃないかしら??大人になったら、嫌でも辛い現実やままならない出来事と向き合わなきゃいけなくなるもの。そんなに焦って大人になろうとする必要もないと、私は思うけどなぁ』
これも、あの夏の日に行った市場の帰り道で、子供扱いされる事への不満めいたものをつい吐露してしまった時、アドリアナから言われた言葉だ。
(……アドリアナさんに、会いたいなぁ……。切り裂きハイドが早く捕まってくれさえすれば……。…………って…………、あ…………)
――突然、グレッチェンの脳裏に、考えるだに悍ましい予想が浮かび上がる――
(…………まさかと思うけど…………、いいえ、そんな……)
でも、これがもし事実であれば――、シャロンが新聞を見せないようにしている事、目を合わせてくれなくなったこと、葬式の件を家族ぐるみで黙っていたことの全てのつじつまが合ってしまう。
グレッチェンとしては、この予想がまるっきりの間違いであって欲しい、と、切に、切に願っている。
だからこそ――
今すぐ、確かめに行かなければ――
心に決めたとあれば、素早くベッドから抜け出す。
クローゼットから深い青色のケープを取り出し、身に着ける。
さっきまで座っていた机の三段目の引き出しの奥から、兎を追い掛けるアリスの絵が描かれた、宝石箱の形を模したお菓子の箱を取り出す。
蓋を開ければ、箱の中には金、銀、銅の様々な種類の貨幣と何枚かの紙幣。
シャロンや夫人から貰っている小遣いをお菓子の箱の中に仕舞っているのだ。
手にした財布の中に入るだけ紙幣と貨幣を詰め込むと、夫人やエドナ達に見つからないように、グレッチェンは静かに部屋を飛び出したのだった。




