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灰かぶりの毒薬  作者: 青月クロエ
Everybody's Fool
50/110

Everybody′s Fool (14)

(1)


『アッシュの血液と唾液以外の体液、涙、鼻汁、汗に毒成分は一切含まれていなかった。あと残すところは、性交時に分泌される愛液のみだ。それを調べるためにだな……』

 

 シャロンが先日観た夢の後半部分――、六年前、レズモンド博士から研究の為と称し、まだ十二歳の少女だったグレッチェン、いやアッシュの愛液を搾取しろ、という、人としての倫理観からおよそ逸脱した、無理難題を突き付けられる出来事が実際に起こったのだ。

 夢の中でこそ博士に掴み掛かり、真っ向から拒否の意を示してみせたシャロンだったが、実際には立場上断ることも出来ず、ただ黙って従うよりも他がなかった。

 ところがその夜、シャロンはアッシュの部屋には訪れず、マーガレットの部屋へ忍び、彼女を抱いた。

 アッシュの愛液の代わりに、マーガレットのものを手に入れる為だけに。

 我ながら最低の行いだと思ったが、シャロンは無垢なアッシュの身をどうしても汚したくなかった。

 すでにこの頃からアッシュの存在は、彼に取って何者にも代え難い特別な存在へと変化していたから――





 翌朝シャロンが目を覚ますと、すぐ隣で眠っていた筈のグレッチェンの姿が影も形もなく消えていた。


 シャロンは慌ててベッドから起き上がり、部屋中を見回してみる――、いた。


 開けられた扉の前で、紅茶と朝食の皿が乗ったトレイを女中から受け取っているグレッチェンに気づき、シャロンは深く息を吐き出して胸を撫で下ろす。


「おはようございます、シャロンさん」

「あ、あぁ……。おはよう、グレッチェン」

 グレッチェンはすでに着替えを済ませており、襟や袖に控えめなフリルがあしらわれた白いシャツに紺色のプリーツスカート姿で、首元にはスカートと同じ色のリボンを結んでいる。

 ベッドの上で半身を起こすシャロンの膝の上にグレッチェンはトレイを置き、自分の分の皿とカップを机に置いて椅子に座った。

 皿には、ベーコンエッグ、ソーセージ、ベイクドビーンズ、マッシュルーム、スコーン、オレンジマーマレードの小瓶、ケジャリーが乗っている。

 昨夜の一件がまだ尾を引いているせいか、豪勢な朝食を前にしてもシャロンは食欲不振気味であったが、グレッチェンは神に祈りを捧げた後、食事に手を付け始める。

 昨日の今日でよくもまぁ、食べる気力があるものだ、と、半ば呆れつつ、気が進まないながらもシャロンは黙々とナイフとフォークを動かしだす。

 一口二口と咀嚼していく内、徐々に食欲が刺激され始めたからか、結局シャロンは皿の上のものを完食しきっていた。


 食事を終えたシャロンが着替えをするべく、ベッドから降りると、すでに食事を終えていたグレッチェンはくるりと彼に背を向ける。

「別にこちらを向いたままでも構わないが??」

 クローゼットから衣服を取りだしがてら揶揄うと、グレッチェンは横目でシャロンを睨みつけてきた。

 少しずつだが、普段の二人の空気に戻りつつあることをシャロンは密かに安堵していた。 


 ワイシャツの釦を全て留めてスラックスを履き、ネクタイを締める。

「グレッチェン、今日は店を臨時休業にしようと思う。それで、君さえ良ければ、今日一日私と一緒に出掛けないか??」

「…………」

 グレッチェンは返事を返さない。

 その間にも、シャロンはベストを身に着け始める。

「……昨夜の件に君を巻き込んでしまった……、せめてもの詫びみたいなものさ……。まぁ、この程度で埋め合わせできるような軽いものでないのは重々承知している……」

 グレッチェンはシャロンに背を向けたまま、無言で首を横に振る。

「勿論、強制ではないから嫌なら断ってくれればいい。そしたら、馬車で君をアパートまで送り届けるまでだ」

「…………」

 スラックスとベストと同じ、チョコレート色のジャケットを羽織りながら、シャロンはグレッチェンの痩せた背中にちらりと視線を送った時である。


「……それでは、お言葉に甘えて……」

 断るものかと思いきや、意外にもグレッチェンはシャロンの誘いに素直に応じたのだ。


「私に付き合ってくれるということかね??」

「……はい。ですが……」

「何だね??」

「……一か所だけ、どうしても足を運んでみたい場所があるので、そこに連れて行ってもらえないでしょうか……??」

「あぁ、構わない。ちなみにどこへ行きたいのだ??」

 どことなく嬉しそうに笑うシャロンとは反対に、振り返ったグレッチェンは迷うような素振りを見せている。

「どうしたんだ??遠慮などしなくてもいいのに」

 グレッチェンは、シャロンの笑顔を上目遣いで見上げながら、こう告げた。


「シャロンさんのお父様が入所されている施設へ行きたいのです」


 シャロンの笑顔は一瞬にして消え失せ、代わりに苦々し気な渋面に切り替わる。

「あのような男に君が会う必要など一切ない。それとも、阿片に溺れて身を持ち崩し、廃人と化した者がどんな姿なのか見てみたい、とでも??あの男に対して、君の知的好奇心が擽られでもしたか??」

 苛立ち紛れにシャロンはつい、グレッチェンに皮肉交じりの辛辣な言葉を浴びせてしまう。

「…………そんなんじゃ、ありません…………」

 途端に、グレッチェンは哀しげに眉根を寄せ、唇の両端をキュッと引き結ぶ。

 その傷付いた表情を見たシャロンは、大人げなく感情任せに暴言を吐いてしまったことを、すぐに悔やんだ。

 彼女が単なる興味本位のみで、軽はずみな発言をする訳がないというのに。


「……すまない、少し、否、だいぶ私は冷静さを欠いているようだ……。先程の暴言は撤回するよ……。本当にすまなかった……」

 シャロンは心から申し訳なさそうに、グレッチェンに頭を下げる。

「……いえ、いいんです……。ただ、私は、シャロンさんのお父様に、どうしても伝えたい言葉があるのです……」

「伝えたい言葉??」

「はい」

「そうか……。君の事だから何か考えがあっての事だろう……。ただ……、あの男は二十年以上も前から正気を失った狂人だ。傍に近づき、直接言葉を交わすことなど最早不可能だが……」

「構いません。私が、お義父様の顔を――、例え、遠目で拝見出来るだけでいいのです。……シャロンさんに叱られてしまうかもしれませんが、ある意味、私の自己満足と言えば、自己満足なんです……」

「別にもう怒ったりはしないよ。まぁ、私としては……、正直なところ、君のような若い女性をあんな場所に連れて行きたくないのだが……。滅多に我が儘を言わない君の我が儘だからね。これはもう、言う事を聞くしかないだろう??」

 遂に根負けしたシャロンは、肩を竦ませながらグレッチェンの願い――、ルパートが入所する施設に連れて行くこと――、に了承した。


 しかし、口に出した言葉とは裏腹に、シャロンはどうにも煮え切らない複雑な思いを抱えていた。

 彼女を施設に連れて行くこと以上に、自身が父と対面するのがどうにも躊躇われてならないだけでなく、実を言うと、ルパートが施設へ入って以来二十余年、一度も会いに行ったことがなかったからだ。

 それでも、行くと言ってしまった以上は腹を括るより他はない。


 程なくして、ストロベリーフィールドから出た二人は、ルパートが入所する施設へと馬車を走らせたのだった。



(2)

 ルパートが入所する厚生施設は、街の中心地よりもずっと北側の、老朽化した廃墟群ばかりがやたらと目立つ、うらぶれた場所に立っていた。

 地獄の門を彷彿させる、頑強な鉄の大門――、入り口の門の上には鎖で繋がれた男と虚ろな目をした二人の男の彫像が飾られている。

 入口からして異様な雰囲気を醸し出す様に、グレッチェンはいささか気後れしていたが、シャロンに促されるようにして門から中庭を通り抜け、神殿のような外装をした石造りの建物へと向かう。

 大昔は入院患者に治療と称し、拷問まがいの非道な扱いを繰り返してきた悪名高き施設だったが、三十年程前にとある慈善家が施設を訪問したことがきっかけで大幅な改善が行われたという。

 しかし、ルパートは心神喪失状態の上に起き上がることすら出来ず、手の施しようがないため、彼は個室のベッドに寝かされ、かれこれ二十三年もの間、死を迎えるその日をひたすら待ち続けている。


 二人は受付で手続きを済ませると、職員に二階の最奥の部屋――、ルパートがいる個室へと案内された。


 まだ昼間の明るい時間帯だというのに、この場所だけは夜のままで時間が止まっているのでは、と思う程に薄暗がりな階段、廊下を職員が手にする小さな灯りのみを頼りに先を進めていく。

 時折、通りがかる部屋の中から、気味の悪い呻き声やすすり泣き、扉をガンガンと叩き続ける不穏な音などが聞こえてくる。

 施設全体に漂う陰気な空気と黴臭い臭いも相まって、シャロンとグレッチェンは顔を顰めて廊下を歩いていく内に、とうとうルパートの部屋の前までやってきてしまった。

 再起不能と判断されたルパートの部屋には、職員以外、例え家族であるシャロンですらも入室することが叶わないので、鉄の扉に取り付けられた小さな覗き窓から様子を窺う事しかできない。


 シャロンとグレッチェンは覗き窓から恐る恐るといった体で、部屋の真ん中に置かれたベッドの上、ルパートの姿を窺ってみる――



 壊れた精神状態と加齢により、ダークブロンドの髪は真っ白に変わり、髪の量も半分以上抜け落ちてしまっている。

 皺とシミに塗れた真っ黄色の肌、骨と皮だけの痩せ細った姿はまるでミイラであり、針の先のように小さな瞳孔をした目は瞬き一つすらしない。

 開きっぱなしの口からはだらしなく涎が垂れ流され、想像以上の醜悪さに二人は息を飲む。


 けれど、しばらく後――、口元に両の掌を当てて、言葉を失っていたグレッチェンがゆっくりと掌を離していく。その瞳には、もう怯えの色は微塵も残っていない。

 どこか決意に満ちた、固い表情のグレッチェンと部屋の中のルパートとに、交互に見据えるシャロンの訝し気な視線を物ともせず、グレッチェンは窓越しにルパートを真っ直ぐ見つめながら、言った。


「…………ありがとう、ございます…………」


 消え入りそうなか細い声で、思いもよらない言葉を呟いたグレッチェンに、シャロンは思わず目を瞠る。そんなシャロンに構わず、グレッチェンは更に言葉を続けた。


「……あの時、シャロンさんを助けて頂いて……、本当に、ありがとうございました……。でなければ……、今のシャロンさんは存在しなかったかもしれないですし、シャロンさんと私が出会うこともなかった、と思うんです……」


 当然、グレッチェンの真摯な言葉は扉の向こう側のルパートには届いていない。

 それでもグレッチェンは、祈りを捧げるように、何度も何度も「ありがとうございます」と呟き続けた。

 グレッチェンは、わだかまり故に簡単にルパートを許せないでいるシャロンの気持ちを見越し、彼の代わりにどうしてもルパートに感謝の言葉を述べたかったのだった。


 何度も繰り返される言葉を耳にするにつれ、シャロンは長年燻り続けてきた父への憎悪の念が、少しずつ、ほんの少しずつだが、確実に融かされていく――、ような気分に浸り始めていた――、が――


 無情にも、面会(とはお世辞にも言えないが)時間は終了、と職員から告げられたため、シャロンは一気に現実に引き戻され、父への憎しみは中途半端に融けたまま彼の中に残ってしまったのだった――



(3)

 やがて二人は、職員と共に元来た廊下と階段をもう一度通っていき、建物から出て行く。

 玄関の扉を開けて外の中庭へ出ると、庭の左右に分かれて置かれた花壇には、色とりどりのアネモネが咲き乱れていた。

 そう言えば、行き道では気持ちに余裕がなくて見向きもしなかったな、などと思っていると、グレッチェンが色鮮やかな花壇に近づき、「……綺麗……」と、目を細めてうっとりと眺めている。

 年相応の、少女らしい反応にシャロンの淀んだ心は僅かに和んだ。


 シャロンは、彼女と一緒になって色ごとに花に手を添えては、それぞれの色を確認してみる。

「グレッチェン、アネモネの花言葉は知っているかね??

「確か……、無邪気、清純無垢、可能性、辛抱……だったような……」

「ちなみに、アネモネは色別にも花言葉の意味が違ってくるのだよ」

「えっ??」

 途端にグレッチェンは、淡いグレーの瞳を一際強く輝かせた。

 新たな知識を知りたくてしょうがない、と言わんばかりに。

 この癖も、出会った頃から変わらないな、と苦笑しながら、シャロンは早速語り出した。


「白は真実、希望、桃色は待望……」

「では、青と紫は??」

「青と紫は『あなたを信じて待つ』」

「素敵な言葉ですね……、では、赤色は??」

 グレッチェンは腰をかがめて、一輪の赤いアネモネに軽く手を添えながら尋ねる。

「赤は……。……うーん、すまない、忘れてしまったよ」

「……そうですか。では、赤色の花言葉は今度自分で調べてみます」

 少し残念そうにしつつ、グレッチェンはシャロンに背を向けて花壇から離れていく。



 シャロンは忘れてしまった、と言ったものの、本当は赤色のアネモネの花言葉を覚えていた。

 ただ、グレッチェンを前にして、どうしてもその言葉を口に出せなかったのだ。



「シャロンさん??どうしたのです??」

 花壇の傍で立ち尽くしたままのシャロンを、グレッチェンは振り返って呼び掛ける。

「あ、あぁ……。少し、ボーッとしてしまっただけだ。すぐ行くよ」

 シャロンは慌てて、グレッチェンの後を小走りで追う。

 不思議そうに小首を傾げ、薄く微笑みながらグレッチェンはシャロンを待っていたのだった。



「Everybody′s Fool」(終)

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