第十六話
(1)
――数週間後――
秋もいよいよ本格的に深まり始めたある日。
薄手の黒いカーディガンを羽織ったグレッチェンは広場の中を一人散策していた。
地面には茶色い絨毯を敷き詰めたように、緑の芝生の上には様々な木々の枯葉が大量に落ちている。
落ち葉と言えども、種類によって同じ茶色でも微妙に色味が違い、形や大きさもまちまちだ。
落ち葉の絨毯を踏みしめると、カサカサ、カサカサと乾いた音が聴こえてくる。
ふと頭上を見上げてみる。
まだ紅葉の時期には早いらしく、周りの木々はまだ辛子色や深緑のままだった。
グレッチェンは少しだけ残念そうに、眉尻を下げて口元を僅かに緩めてみせた。
深い木々よりも更に上、空を見上げてみる。
空は大きな灰色の雲に覆われていたが、雲の隙間からは所々青空が垣間見えている。
その雲の下を、逆三角の形をした水色の凧が泳ぐように風になびいていた。
あれは、確か……。
見覚えのある凧から、それを操る者の方へと恐る恐る視線を移動させる。
新たな視線の先には、痩せ気味の中年男性と彼の息子であろう、これまた見覚えのある少年が寄り添いながら凧を上げていた。
遠目だったにも関わらず、少年はグレッチェンの視線に気付くと父の腕を叩く。
そして凧を引き上げるやいなや、彼女の元へ駆け寄ってきた。
父親もすぐに彼の後を追うが、左半身が悪いのか、左側を庇うようにひょこひょことゆっくり走ってくる。
「お兄さん、こんにちは!!」
思っていた以上に元気そうな少年の姿に、グレッチェンはひどく面喰った。
その間にも、息子に追いついてきた父親が「知り合いなのか??」と彼に尋ねた。
「父ちゃん、このお兄さんがね、前に凧を拾ってくれた人なんだよ」
「へぇ、この人が……、って……。こらティム、こんな別嬪さんに向かってお兄さんなんて失礼だぞ!!」
「えぇっ!?」
「すいませんねぇ、こいつ、そそっかしくて……」
少年がグレッチェンを男性だと勘違いしていたことを、父親がしきりに謝罪する様子が可笑しく、グレッチェンは思わず噴き出してしまう。
「髪も短いですし、こんな格好なのでよく男性と間違えられるんです。だから、全然気にしていませんよ」
クスクス笑いながら、グレッチェンは軽く受け流した。
この街に来たばかりの頃は長い髪と女性の服装をしていたグレッチェンだったが、シャロンが研究の為とはいえ独身を貫いている姿(時々、適当に女と遊ぶことはあれど)を見ている内に、自分も身体が治るまでは女性として生きることは止めよう(どちらにせよ、この特異体質では恋愛や結婚は難しいだろうし)、という決意の元、髪を切り、男装するようになったのだ。
「おに……、お姉さん。あのね……」
少年がやや切迫した顔付きでグレッチェンに話し掛ける。
「オレの母ちゃん、死んじゃったんだ……。オレ、良い子にして、ずっと待ってたのに……」
「そう……」
返す言葉が見つからず、グレッチェンは言葉を詰まらせる。
「……でもね、父ちゃんと新しく約束したんだ!母ちゃんの分まで、一緒に頑張って生きていこうな、って!!」
泣きそうになりながら無理矢理とはいえ、少年は明るい笑顔をグレッチェンに向ける。彼のいじらしさに胸を打たれ、今度はグレッチェンの目頭が熱くなったが、そこはグッと堪え、代わりに「……そっか。ティム君は強いねぇ……。でも、貴方は今でも充分すぎるくらい良い子だから、そのままでいいと思うわ」と、柔らかい栗毛をそっと撫でてあげたのだった。
(2)
父子と別れた後、いつものようにグレッチェンは店に向かっていた。
本来ならば今日は休みなのだが、昨日の帰り際にシャロンから「君の身体を治す手掛かりかもしれない、新しい事実が掴めそうなんだ。だから今夜中掛けて、調べようと思う。また無駄足に終わるかもしれないが……、明日来れたらでいいから店に顔を出して欲しい」と言われ、血液を始めとする体液を採取した後、アパートに帰宅したのだ。
店に到着すると裏口の錠を開け、二階へ上がる。
「シャロンさん、グレッチェンです。昨夜言われた通り、ここへ来ました」
返事が返ってこない。
これは間違いなく、力尽きて眠っているに違いない。
グレッチェンは音を立てないよう気を遣いながら、そーっと扉を開ける。
相変わらず、部屋の中は足の踏み場がない。
当のシャロンはベッドの中でシーツを頭まで被り、眠りこけている。
(今日は休みだし、このまま寝かしておいてあげた方がいいかしら……)
起こすべきかどうか迷いながら、シーツに包まっているシャロンに近づく。
次の瞬間、シャロンが突然起き上がった。
かと思うと、グレッチェンをぎゅぅぅーと痛い位の強い力で抱きすくめてきたのだ。
グレッチェンの頭の中は驚きと混乱で真っ白になり、言葉を発することも抵抗することも出来ずにただ身体を硬直させるしかなかった。
「……んー……、エミリー、君、ちょっと痩せたんじゃないかね??」
グレッチェンの額に青筋が一本浮かび上がり、一気に現実と普段の冷静さが引き戻された。
ドスッ!!
シャロンの鳩尾を思い切り拳で殴りつけると、氷の如く冷え切った、蔑んだ目つきで彼を見下ろす。
「……おはようございます、シャロンさん。目は覚めましたか??」
「……あぁ、君の強烈な一発のお蔭でね……」
「だったら、三分で支度を済ませてください」
「さ、三分だと?!」
すかさず反論しようとしたシャロンだったが、グレッチェンの鋭い睨みに圧倒され、黙って着替えを始めたのだった。
支度が済んだシャロンは、グレッチェンと共に長椅子に座り、彼女の身体に関する新たな事実について報告し始めた。
「君の身体を治すことに直接繋がるかは不明だが……、どうやら君の唾液には媚薬としての成分、血液には精力強壮剤の成分と成り得るかもしれない可能性が判明した。つまり、薬としての成分を強め、毒性を抑える方法が見つかれば……、少なくとも人体への殺傷能力を消すことは出来るだろう。毒物からは毒しか生まれないが、毒薬は使い方次第では薬となる。君の体液は決して有害なだけのものではなかったみたいだ。ただし……、毒薬をどう薬に転じさせるかの方法は、これから探さなければいけない。まだまだ道のりは気が遠くなるくらいに険しいがね……」
「それだけ分かっただけでも、大いに前進したと思います。本当にありがとうございます」
「九年掛かって、やっとこれだけだ。君も二十歳を超えてしまったし、最低でも十年以内には何としてもカタをつけたいものだ。私は、君には女性として人並みに幸せになって欲しいんだよ」
「……ありがとうございます。ただ、一つ言わせていただきたいことがあります」
「……何だね??」
表情を強張らせるシャロンに向かって、グレッチェンは静かに、それでいてはっきりと告げる。
「……私は、今の自分を決して不幸などとは思っていません。今でも充分すぎるくらい、幸せです」
グレッチェンはシャロンの隣で穏やかに微笑む。
その控えめな笑顔はどことなく満ち足りていて、誰よりも美しかった。
(終)
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
次話以降からのお話は、今回の事件以前の二人の周囲で発生した様々な事件を描いていく形となります。(お話ごとに時系列にばらつきがあり、読みにくい部分があるかと思いますが……)
今回の事件以降の二人の関係や発生する事件につきましては、シリーズ続編の「灰かぶりの不純物」にて描かれております。




