第十三話
(1)
歓楽街の中においても、この界隈は一際うらぶれた場所だった。
まるで、便所がついていないアパートにある汚物溜めかと思う程の悪臭が漂い、酩酊しきった酔っ払いが路上や建物の隙間に寝転がっている。
その酔っ払い達が溜まり場にしている、手入れが粗末で狭苦しく、酒のすえた臭いが立ち込めるばかりの薄汚い酒場で、男が一人きりでドライジンを飲んでいる。
男は余程面白くないことでもあったのか、酔いも手伝って余計に怒りっぽくなっているようだ。
赤ら顔を最大限に醜く歪め、事あるごとに指先でテーブルをトントン叩き、誰に言う訳でもなく「くそったれが……」だのと小声で悪態をついたり、チッと舌打ちを鳴らしたりしている。
顔だけ見ると剽軽さを含んだ、人が好さげな印象なのに、据わった目付きといい狡猾そうな表情といい、いかにも堅気でないのが丸分かりの風体のこの男こそ、歓楽街で最も評判の悪いポン引き、ドハーティであった。
ドハーティの機嫌の悪さは昨夜から続いている。
原因は、彼の店の稼ぎ頭シルビアが、彼を殺す為に毒を手に入れようとしていたから――
――だからいつものように、いや、いつも以上に殴ってやった。そしたらあの年増女、気絶しちまいやがったんだ――
――これまたいつもだったら、散々殴りつけた後は阿片をたっぷりと吸わせて大人しくさせていたし、客を多く取った場合にも褒美代わりに阿片を吸わせてやることにしている。
そうすれば、阿片欲しさに死に物狂いで働いてくれる。
ただ問題があるとすれば、働きが良いとその分阿片を与えるせいで中毒で早死にしちまう奴が多いことか――
――まぁ、あいつらの代わりなんぞ吐いて捨てる程存在するし、別に死んだら死んだで次の馬鹿女引っかけりゃいいだけの話だ――
――あぁ、話の続きだが、あの時の俺は怒りが過ぎる余り、シルビアには殺意の感情しか湧かなかった。
いつまでも気絶したまま目を覚まさないでいたあの女を、深夜三時過ぎに店から担ぎ出してヨーク河へ放り込んでやったんだ――
――罪悪感??はぁ、そんなもん、ある訳ねえだろう??――
――所詮、あいつらは牛や羊と同じ家畜みたいなもんだから、死ねば代わりを補充すればいいだけだ。
警察だって、格が最低な売春宿の娼婦の一人や二人死んだところでろくな捜査をする訳がないから、俺に足がつく可能性は極めて低い――
――大体、あいつら、俺に騙されただの、金を必要以上に奪われるだの文句ばっかり扱きやがるが、『騙す方より騙される方が悪い』という歓楽街の矜持を全く分かっていない。
食うものと住むところは確保してやっているんだから、それだけでもありがたく思ってもらいたいもんだってのに……。
俺が育った救貧院なんてもっと悲惨な生活だったし、救貧院飛び出してしばらく浮浪孤児として生きてきた環境と比べたら、てんでまともさ。
今日食うものを得るだけでも命懸け、雪が降り積もる真冬の野外で一晩過ごすこともザラだった。
とにかく生きることに必死で、あれはまさに地獄の日々だ。
あの生活に比べりゃ、あいつらの境遇は恵まれている方だと思って欲しいんだがな――
そんなことを思いながら、ドハーティはひたすらドライジンを飲み続けていたが、やがて飲み代をテーブルに置くと酒場から出て行った。
一刻も早く、シルビアの代わりとなる、新しい女を店に引き入れなければ。
残っている奴らじゃいまいち当てにならない。
身を売り始めたばかりの若い街娼に目星をつけるか、などと考えていると、「お兄さん、アタイと遊ばない??」と背後から女が誘い掛けてきた。
声の感じからして若そうだ。
こりゃあ、ついている!
ドハーティはゆっくりと振り返る。
視線の先には、鴉の羽根を思わせる、濡れたような漆黒の長い髪を無造作に下ろした派手な化粧の女が佇んでいる。
少し痩せすぎの身体つきが気になるものの、厚化粧でありながら全く下品さが感じられない、むしろどことなく気品漂う美しさを湛えている。
下手な高級娼婦よりもうんと上玉だ。
「あんた、いい女だなぁ。幾らだ??」
女は指を使って料金を差し示す。
予想以上の安さにドハーティは驚く。
「あんたくらいの別嬪なら、もっと金取れるんじゃないのか??」
すると女は小首を傾げながら、「いやー……、アタイ、この商売始めてからまだ日が浅くてぇ……、相場がよく分からなくてさぁ」と、舌っ足らずな喋り方で、曖昧に微笑みながら答える。
見てくれは良いが、頭は鈍そうである。
これは上手く丸め込んで、うちの店で働かせることにしよう。
「姉ちゃんよぉ、それだったら、俺が経営する売春宿で働かないかい??個人で売春するよりも、うんと稼げるぜ??特にあんたは別嬪だから、すぐにうちの店で一番人気が出るだろう」
街娼を店に引き込む際の、お決まりの宣伝文句だ。
通常ならば女を何回か買い、信用を得てから使う台詞だが、シルビアを失った今は時間を掛けている余裕などない。
「それは本当かい、お兄さん」
女は即座に話に乗っかってきた。
反応の速さに面喰いつつ、「ああ、本当さ」と答える。
「それじゃ、兄さんの言葉を信じてぇーー、働かせてもらおうかなぁ??」
随分と乗りが良い女だ。
正真正銘の馬鹿なのか、それとも腹の中で何か企んでいるのか。
誘っておきながら、猜疑心が人一倍強いドハーティは女の真意が掴めず戸惑った。
「その前に……」
ドハーティは厭らしい目付きで、女の全身を舐め回すようにじろじろと眺める。
「見てくれの良さと、あっちの具合の良さはまた別物だ。だから、どっちにしろ試させてもらおうか」
「あぁ、どうぞぉーー??何なら、あそこの陰で一発ヤッてみるぅ??」
女は潰れた宿屋と、宿屋に隣接する、経営しているのか不明な酒場の間を指差す。
「あそこなら人気がないからぁ、じっくりと楽しめるわよぉ??」
何が可笑しいのか、うふふ、と楽しそうに笑いながら、女はドハーティを建物の影へと誘い込む。
意味なくヘラヘラと笑うあたりがやはり馬鹿そうだと、ドハーティは内心鼻白んでいた。
影の最奥まで進むと、ドハーティは早速女の細い身体を壁に押し付ける。
太股を弄ろうとスカートの中に脂ぎった掌を差し入れた途端、「お兄さん、焦っちゃ嫌だよぉ」と窘められてしまう。
勿体ぶりやがって、と苛立ったものの、女が首に手を回して口づけてきたことで驚きと共に、苛立ちはすぐに消え去った。
身体は許すが唇は許さない、という矜持を持つ街娼が多い中、何の躊躇いもなく、自ら進んでキスを仕掛けてくるとは。
おまけに女は、妙に舌遣いが上手かった。
経験が乏しい男であれば、キスだけでも充分絶頂へと誘う事が出来るだろう。
あっちの具合も期待できそうだ。
ドクン!
心臓に鋼鉄の金槌で直接殴りつけられたような痛みが走ると同時に、気付くとドハーティは地面に倒れ込んでいた。
起き上がろうとするも全身に強烈な痺れが生じていて、指一本まともに動かすことさえままならない。
おまけに声帯にも異常をきたしていて、うめき声すら発することが出来ない。
全身が脂汗でぐっしょりと濡れ、加齢臭も相まって身体から不快な臭いが漂ってくるのが嫌と言う程に感じる。
そんな彼の姿を、先程のだらしない笑い方とは打って変わり、理知的さを湛えた無表情で女が見下ろしていた。
女はスカートの裾を捲り上げ、膝上に装着しているリングガーターと脚の間に挟んでいた試験管を取り出す。
蓋のついた試験管の中には、薄紅色の液体が収められている。
「餞別として、貴方のお好きなドライジンに混ぜておきました」
女は倒れているドハーティの傍に座り込むと試験管の蓋を外し、横を向いている彼の顔を掴んで少し傾けさせる。
身動き一つ取れないどころか、声すら出せないドハーティに抵抗の余地など全くの皆無であり、成す術もなく口の中に液体を流し込まれていく。
内臓が腐り落ちていくような、何とも奇妙な気持ち悪さと共に、四肢を生きたまま引き裂かれるような激痛に全身が蝕まれる。
声が出るならば、断末魔の悲鳴を叫び散らしただろうし、身体が動かせるならば、蛆虫の如く地面を転げまわるだろう。
しかし、それすらも許されない状況が却って、身体に起きた異変にますます苦しめられる事態を引き起こしている。
――!!――
背中から心臓を、鉄の大剣で一突きされるような衝撃を受けたのを最後に、ドハーティの目に映る世界の全てが暗転したのだった――。
(2)
――翌早朝――
「おい、こいつの死因、どう思う??」
ドハーティの躯を眺めながら、二人の刑事が困ったように話し合っている。
「深夜に売春婦らしき黒髪の女と一緒だった、っていう目撃情報を得たが、目立った外傷は見当たらないし、心臓発作が直接の死因っぽいしなぁ……」
うーん、と首を捻る刑事に対し、もう一人が「こいつ、歓楽街じゃすこぶる評判悪い男だったみたいだが??毒でも盛られたんじゃないか??」と尋ねてきた。
「無きにしも非ず、と言ったとこだが……。こいつの唇には口紅の痕がべっとりついているし、死ぬ間際に随分と深酒していたみたいだからなぁ。おそらく娼婦とお楽しみの最中に興奮する余り、急な心臓発作起こした。女は吃驚して、そのままこいつを置いて逃げ出した――、と、大方そんなところじゃないか??まぁ、そういうことにしといた方が、面倒な捜査に駆り出されなくて済むぞ。こんなチンケな輩のために、家に帰る時間が遅くなるのは真っ平ごめんだ」
「それもそうだな。じゃあ、死因は酒の飲み過ぎによる、急性心臓発作ってことにしておくか」
刑事達は笑いながら、手にしていた調書に『事件性は無し』とはっきりと書き記したのだった。




