十五
「大ごとになってんなぁ」
イチさんは眉を掻きながらそう呟いた。
僕の大学の正門は、公道から小さな並木道を進んだ少し奥にある。いつもは歩く学生か自転車しかないのに、今はパトカーが所狭しにずらりと並んでいた。
いずれもサイレンが回ったまま放射状に広がっており、その後ろには、野次馬のように周りを取り囲む学生らが何十人もでごった返していた。
写真で撮ろうとしている者や電話で状況について話している者まで。
僕らは人垣をかき分けて、正門近くまで向かう。
「何を手こずっているんだっ」
ようやく警察官たちの姿が見えた時、そんな叫び声が耳に届いた。声の方を見てみると、トランシーバーを持っている年配のスーツを着た男性が、近くの制服警官に怒鳴っていた。
「たかが学生だろうっ」
たかがで悪かったですね、人生の先輩さん。というか、周りに大勢いるのによくそんな暴言を言えるな。普段から言ってるか思ってるんだろうな。
「大学講堂の出入口を完全に封鎖しているみたいで、びくともせず」怒号を浴びせられた制服警官は、少しびくつきながらそう返した。
「まったくっ」
『至急至急』車内から掠れた声が聞こえる。
「今度は何だ?」と苛立ちながら、開いた窓から上半身を入れ、長いコードのついたトランシーバーを手にした。スイッチを押し、「はい、こちらカサハラ」とスーツの警察官は、いや刑事なのかな? そう名乗った。
『中には人質がいる模様』
「何?」目の色が変わり、近くの制服警官と見合う。その表情は驚きしかなかった。
『繰り返す、中には人質がいる模様』
親指で側面のボタンを押し、口を近づける。「人質はいないはずじゃなかったのか」
『向かい建物の六号館より、至急至急』今度は女性の声が聞こえる。『二階窓にて確認のところ、講堂内に人質らしき人影を発見。複数人いる模様』
「武器など所持している様子は?」
『確認できず。現時点では不明です。動きあれば報告致し度』
「了解」カサハラさんという警官は、ボタンから指を離すと項垂れた。「なんてこった……」
これで下手に踏み込むことが出来なくなったからだろうか。
「本部からの応援、頼みますか?」
「ああ……あっいや、とりあえず、指示を仰いでおけ。こうなると、我々だけじゃ対処できんからな」
「はい」駆け足ですぐ離れていく。
「おい」イチさんに肘で突かれる。「大講堂ってどこだ?」
はい?
屋上に吹く風はなんとも強かった。僕は乱された髪をいちいち直す。ああ、もうっ。
大学内には案外容易く入ることができた。籠城が起きてはいるものの、流石に完全封鎖しているわけではなくて、大講堂の入っている五階建校舎とは二百メートル程離れた、裏門辺りにある小さな出入口から中に入れたのだ。
まあ、その小さな出入口は、U字型アーチのステンレス性の車止めが前後で交差するように設置されている。そのせいで自転車すらも通れないから、普段から利用する人も少ないし、ひと気もない。そう考えればもしかすると、見逃しちゃっているのかもしれない。
最初の予想通り、僕らは警察の目をかい潜って、大講堂の入っている五階建校舎の屋上へと向かったのだ。
「これでよしっと」
イチさんはホースをきつく引っ張って強度を確認するが、お腹に固い結び目を二個作った程度。
後は僕たちの腕力次第。一応念のため、へりに埋め込まれている金属の輪っかにうまいこと通して、ここでも大きめの結び目を作っている。最悪の場合に備えてはいるのだけれど……
「本当に行くんですか」
少なくとも、僕には怖くて出来ない。発展途上国の素人自作のバンジージャンプ並みに信頼しきれない。
「出入口が塞がれてんだろ? だったら、これしかねえ方法はねえじゃんか」
淡々と語るイチさん。だからって、屋上から飛んで窓を割って入る、だなんて。そんな、アクション映画じゃないんだから。
「しかし、どうやって中に?」
「ホテルで見てたろ。この刀が勝手に動いて、中に入れる。だから、中入るまでは掴まなくていい。危ねえからよ」
は、はぁ……言っている意味はよく分からないけど、とりあえず中に入ることは可能ということか。
イチさんはへりに立てかけていた竹刀袋から刀を出し、鞘から抜いた。
「ちょ、中にいるのはっ」愛菜花が一歩前に出る。
「安心しろ」刀を百八十度反対に持ち、刃の背面を外側に向けた。「峰打ちだ」
「時代劇好きなんですか?」
「あ?」片眉を上げるイチさん。
「いや、まるで時代劇で聞く台詞に似てるなぁと思って」
「へぇ、そうなんか」
あっ、反応から察した。好きなわけじゃないみたい。
「まあいいや。例の」
イチさんは愛菜花の方を向き、手の平を出してくる。
「ああ」
ポケットから取り出したのは、ワイヤレスイヤホン。
スマホの音楽のサブスクアプリに入っている、とにかくうるさくて、始まりと終わりの繋ぎ目が分からない音楽をループ再生させている。
目的は呪いの言葉を聞かないようにすること。苦し紛れだけど、時間がない中でできる応急策だ。
「こ、こうでいいのか?」
耳に強く押し入れたイヤホンを愛菜花に見せる。
「まあ……隙間が無いようにってことですもんね。ええ。大丈夫だと思います」
「これでよしっ」
イチさんはそのまま踵を返していく。大きな金属の輪っかに通し、結び目がぶつかるぎりぎりにまで歩き、また向き直してホースを何度か引っ張る。
そして、高々と手を挙げ、大声を上げる。「んじゃ、終わったら三回ホースを引っ張っから、引き上げ頼むぞー」
「わ、分かりましたっ!」
一瞬外にいる警察に聞こえやしないか心配になり、僕は口元に手の筒を作ってから応えた。あまり意味はないかもしれないけど。
「それじゃ」イチさんは伸ばした人差し指と中指を顔の辺りで空に向けた。「スタートっ」
九十度傾けたのを合図に、愛菜花はスマホの再生ボタンを押した。
途端、イチさんは駆け出す。へりの手前で強く踏み込む。へりに登るともう一度強く踏み込み、そして高く飛んだ。飛んでいった。
イチさんは重力のままに落ちていき、姿がすぐに見えなくなる。そして、四秒も経たぬうちに、窓ガラスが激しく割れる轟音が聞こえてくる。
へりのところで折れ曲がっているホースは、トーさんが下がっていた方がいいと言っていた通り、傍若無人に暴れている。足に引っかかってしまえばすぐさま体勢を崩して、地面に倒れてしまいそうなくらいだ。
素早く何度も擦れ、耳元にざぁざぁとまるで壊れたビデオテープの砂嵐かのような音が響いてくる。ぷちりといとも容易く、切れてしまうのではないかと、見ていてひやひやする。精神衛生上、良くない。
「心配しなくてもいいですよ」
え? 右往左往に動き回るホースを見ながら声をかけてきたのは、トーさんだった。
「ホテルの時もそうでしたけど、こういうのを普段から好き好んでやるタイプなんです、あいつ」
やはりそうなんだ。イチさんって普段からこんな危なっかしいことをしているんだ。だから、トーさんは事前に危ないと言っていたのだ。ある程度の危険性があることを、これまでの経験値から導き出せたんだ。
「極度のめんどくさがり屋で、わがままですが、こういう事はしっかりやる奴ですから、任せていいと思いますよ。それに」
「それに?」
「なんかあいつなりに気づいてることがあるみたいですし」
「気づいていること?」愛菜花が間に入る。
「ええ。まあ、詳しい話は帰ってきたら聞くことにしましょう」
ホースの動きが静かになる。何があった?
続けざまに三回強く引っ張られる。合図だ。慌ててホースを掴む。僕が先頭、その後ろに愛菜花、トーさんと続く。
「せーのっ」三人で一斉に引っ張った。思いきり、身体を地面と斜めにする形で。ゆっくりとだが、重いものが上に引っ張れている感覚はあった。
「オッケーオッケー、その調子ぃ」
イチさんの声が聞こえる。次の瞬間、窓ガラスが割れる音が聞こえてきた。
な、何?
ホースが微かに揺れる。イチさんは唐突に叫んだ。「切るぞッ」
えっ、切る?
途端、ホースが急に軽くなり、重さを失った僕らは三人全員、後ろへと倒れた。
落ちてしまった、わけじゃないよね? 僕は慌ててへりに手をつき、下を眺める。だが、誰もいない。
「あっ、あそこ」
愛菜花に肩を叩かれる。続けて、人差し指を真っ直ぐ伸ばした。目線の先には、走っているイチさんがいた。その少し前には男性が。時折後ろを確認していて、どうやら逃げているみたい。
ガラスが割れた音を考慮すると、イチさんは峰打ちした一人が気絶させられなかったか、すぐ目覚めたかで逃げ出したためにああやって追いかけている、ということなのだろうか。
左奥に二人の姿が消えていく。
「とりあえず、行ってみましょう」
トーさんの呼びかけに、僕らも慌てて降りていく。階段を使って外へ出る。そのまま、すぐに二人がいなくなった方向へと駆けていく。
走っている二人が向こうに、遠目に一瞬だけ。けど、こんな状況下で、大学構内を走っている人なんていない。僕らは追いかける。
ビルのように高い校舎を二つ越えたところから二人の姿が。どうやら校舎を支点に曲がったらしい。
僕らの姿を捉えて、男性は立ち止まった。目を見開き、滝のように汗を流している。
前にいる僕ら、後ろにいるイチさん。交互に見て、どうするかと悩んでいるよう。だが、ふと男性は右側に視線を送る。
その先に見えるは、裏門。警察が大量にいた正門とは違い、ひと気は少なかった。警察は最低限しかいないのだけど、代わりにテレビクルーがいた。
テレビカメラが隙あらばと撮影し、女性レポーターが淡々と話している様子。
男性はにやりと不敵に笑うと、裏門に向かって走り出した。
何をしようとしているのか分からない。けど、良くないことであることは間違いない。
猪突猛進に走る男性。間に小さな草むらがあるけれど、まるでハードル走でもするかのように軽々と飛び越えていく。
警察官を弾き飛ばすように除け、カメラに近づいていく。
「おらよっ」
イチさんは振りかぶって、鞘を投げた。ヒュンという空気を割く音が聞こえる。あまりの勢いに、イチさんの身体が少し浮いた。
男性はちらりと顔を後ろに向けると、真っ直ぐめがけて飛んできた鞘を避けた。
そのまま、レポーターの耳元をかすめ、鞘の先がレンズに直撃する。パリンという音とともに大きなヒビが入る。
「きゃあっ」
遅れて長い髪がふわりと浮くレポーターは身を縮めた。カメラマンはぶつかった勢いと、尻餅をついている。
だが、彼は止まらない。レポーターに襲いかかろうと飛びかかる。
「いやぁっ」
レポーターは唾をかけながら噛みつこうとする男性の肩を押して退けようとしている。
「おらよっ」
イチさんは刀を回しながら高く投げる。回転しながら飛んでいたけど、柄の方が先に、真っ直ぐに直ると、彼の首に落ちていく。素早くぶつかる。
スパンという音が聞こえると、男性はくたっと力を失った。気絶したようだ。
レポーターは男性を真横に倒し、「ひぃひぃ」と恐れ慄きながら、手をついて逃げる。
息も絶え絶えに、僕らは辿り着く。少し前に既にイチさんも。
瞬きを増やし、口を開け広げているカメラマン。
「大丈夫か?」近寄ってイチさんは尋ねる。
「あ、ああ……はい」
立ったまま落ちている刀と鞘を手に取った。
「カメラ、悪かったな」
えっ、という表情と、直後に、あっ、という表情をする。多分、怒られることだろう。
ん? なんだか騒がしい……
僕は振り返る。声がするあの方向、あっちってさっきまでいた大講堂、だよね?
「何なんだよ、次から次にぃっ」
イチさんは不機嫌そうに言い放つ。
声が聞こえてきたのは大講堂のほう。ということは、もしかしたら……
「確か、警察は複数人いるとか言ってましたよね?」
嫌な予感が厭な結末を起こしまったという、不安感が襲ってくる。
疲れに襲われている身体に鞭を打ち、僕はみんなと一緒に駆け出した。
荒くなっていた呼吸がまた乱れ始める。一度速度を落として落ち着いた瞬間があったせいで、髪やおでこにかいている汗にはもう気づいている。一歩一歩、足を前に出すごとに、その汗の量が増えていくことにも。
髪にいる間はゆっくりしていたのに、生え際に来た途端、躊躇していたのをやめたかのように、本性でも表したかのように、こめかみから一気に流れていく。
顎にまで到達するのは一瞬のことだった。服の裾で乱暴に拭きながら、無理矢理に足を動かし続ける。




