第227話 滾る魔王の瞳に映るもの
«“Benedictus qui venit in nomine Domini”»
(主の御名において来る者は祝福されますように。)
「なんで鴉紋が魔物を……えっ?」
おろおろと困惑し始めたセイルに構わず、鴉紋の足元からヌッと現れた雌鹿は、おずおずと彼を足下から観察して口を開き始めた。
「依代ヲ取リ込ミ、全盛ヲ取リ戻スノデハナク……調和スル事デ、種トシテ更ナル進化ヲ遂ゲタカ」
堂々と彼等を見下ろす鴉紋に、魔物達はかしずく様にして頭を垂れた。
「ええっ、えええーッ魔物従えてるの鴉紋!? え、え? ぅええ〜っ……訳が分からないよ」
「オ前ガ正シカッタ。ルシル、我等ガ古ノ王。傲慢ノ悪魔ヨ」
「ル、ルシル? それってもしかして、鴉紋の中に居たもう一人の名前……」
鴉紋は賑やかしくなって来たセイルの頭を撫でて微笑した。そこにあった彼そのままの素顔に気付いた彼女は、頬を赤らめながら黙して下がっていく。
そして鴉紋は赤黒い陽光の最中で、右の赤目を灯らせながら魔物に告げる。
「人間共を皆殺しにしろ。この都に残る全員を」
途端に狂気を宿らせた王の表情に、魔物は追従の意を示している様に頭を下げる。
そこに一層と強く残るコーラスが差し込んだ。
«“Benedictus qui venit in nomine Domini”»
(主の御名において来る者は祝福されますように。)
「いけ。ここに残る奴等は俺がいたぶって殺す」
「願ッテモ無イ。コノ時ヲ如何程ニ待チ望ンダ事カ」
カルクスとエルバンスの奏でる長き楽想の中途で、微弱ながらもそこに苛烈な意志を宿した声音が割り込んで来た。
「待て、民に……手を出すな……!」
激痛に顔をしかめながら、ギルリートがフラフラと立ち上がって魔物を睨む。
「ぅウウウ……ッ」
そして間髪入れずに赤目の豹に変化すると、口元から暗黒を放って魔物の群れを貫いた。
「フゥ……まだ、ゥ……俺がここに立っているでは、無いか……!」
息を荒げた豹は最早魔物達との見分けが付かなかった。相違する点があるとすれば、その豹がメキメキと冷たい闇の羽を天に伸ばし始めたという事だけだろう。
雌鹿が貫かれた仲間に何の動揺も示さぬままにギルリートへと鼻先を向ける。
「自分モ見定マラヌ張リボテノ男ヨ。オ前如キニハ、モウ何モ止メラレハシナイ」
「ダマレ……このッ魔物ごときガ――!!」
雌鹿に打ち出された闇の波動は、鴉紋の拳にいとも簡単に叩き落されていた。
崩れ、炎に呑まれていくホールから、魔物は地に溶けて姿を消していった。
「おの……っオノレェエッ!!」
憤激したギルリートは、天に立ち上らせた翼で柳の影を作り出し、鴉紋とセイルの姿を包んだ。
「――――夜垂れ!!」
その翼の影を踏んだ者は、それぞれの過酷なトラウマの姿を映し出す。先程この能力の現実さながらの臨場感によって、二人の精神をギリギリまで追い詰めたギルリートであったが。
「――――く!」
陰の下に悠然と佇んだ二人の姿に、目を白黒とさせながら歯噛みするしか無かった。
「……嫌になるっ!」
そしてギルリートは獣の視線をセイルへ、そして鴉紋へと移していく。
曲調は転調し、力強い再現部へと移行する――――
«Hosnna, in excelsis.»
(いと高きところにホザンナ。)
熱波に巻かれたギルリートが目撃したのは、闇夜よりも濃い晦冥の中で、燦然とした炎の翼を灯して佇む赤目の女――
「女は俺の夜垂れを切り払い……」
“Hosnna, in excelsis.”
(いと高きところにホザンナ。)
――赤き片目を滾らせた黒の異形は、十二枚の暴虐を不気味に蠢動させながら空に開いていく。
“Hosnna, in excelsis.”
(いと高きところにホザンナ。)
「鴉紋にいたっては……」
«Hosnna, in excelsis.»
(いと高きところにホザンナ。)
覚醒を果たし、自らに干渉を及ぼす魔を払い除ける反魔法――邪滅の炎を発動したセイルとは違い、確かにその影を踏み、暗黒のトラウマへと引きずり込んでいる筈の男を、ギルリートは冷や汗を垂らしながら見つめていた。
«Hosnna, in excelsis.»
(いと高きところにホザンナ。)
「……もうその眼には、何も映り込んじゃいないんだろう?」
«“Hosnna, in excelsis.”»
(いと高きところにホザンナ。)
――ギルリートが見抜いた通り、トラウマや善悪の葛藤すらをも克服した鴉紋には
もう恐れるものなど無かった
故にギルリートの夜垂れは、もう彼に何の影響すらも及ぼせない。




