147.最強の武器
更新が大変に遅くなってしまったこと、誠に申し訳ありません。
ぼくらを乗せたエレベーターが動く。世界樹の頂上から下へ下へと下りていく。5階、4階、3階、階層を示すディスプレイがぼくらの位置を教えてくれる。
2階、1階、そして地下1階――
ぞくり。
地下へと入った瞬間、背筋が総毛立った。いままで嗅いだことのないほどのツーンとした刺激臭。あまりにも強い腐海の臭い。
これ以上進むのはやばい。
危険を感じとって、本能が警鐘を鳴らす。これ以上進むのはやめるべきだ、と。だけれど、エレベーターはそんな心情など構わずにさらに地下へと進んでいく。ぼくらを乗せて。
やがて、 エレベーターは最下層である地下5階の表示を灯して停止した。
「ここが……?」
ドアが開くと、そこにあったのは薄暗く、狭い空間だった。床には無数の文字が描かれており、そのうちのいくつかがぼんやりと光を放っていた。
薄暗い空間のなかでランプを明滅させる壁を見て、ぼくは思い違いをしていたことに気づいた。
あれは、ただの壁じゃない。隔壁だ。 このフロアが狭いのではなくて、何重もの分厚い壁によって区切られ、閉ざされているのだ。
「……やっぱり、あなたたちがここに立ち入るのは早すぎると思うのかしら」
エレベーターの操作盤の前に立っていたシアンがぼくらのほうへと振り向き、ぼくとウィルベルの顔色を見て、心配そうに眉をしかめた。
「ここで引き返す決断をするのは恥ずかしいことではないの。現役の勇者ですらここに立ち入れる人は限られているのだから」
おそらく、シアンの言う通りなのだろう。ぼくらの実力からすれば、これ以上進むのは自殺行為だ。
平衡感覚を失ってしまいそうになるほどの濃密な瘴気。並の者なら抵抗もできずに、一瞬で正気を失って成れの果てになってしまうだろうほどの圧倒的な憎悪がこの先には、ある。
隔壁が閉じている状態ですらこれなのだ。これ以上進むのが危険だというシアンの意見はまっとうなものだろう。でも、
「大丈夫です。いきます」
ウィルベルの手がぼくのマグロボディを力強く抱きしめる。ちょっと痛いほどに。でも、その微かな痛みと腕から伝わってくる温かさが、染み込んでこようとする瘴気を阻み、前に進む勇気を与えてくれる。
シアンはそんなぼくらの様子を見て、うなずいた。
「精霊の衣を絶対に解除しないこと。魔力が切れそうになったらすぐに逃げること。それだけは約束するかしら」
言って、シアンが壁の横にある隔壁の操作盤に触れる。すると、重低音とともに隔壁が動き出した。
1枚、2枚、3枚と重厚な隔壁が順番に開くたびに瘴気の濃度が増していく。
そうして、すべての隔壁が開いて、地下5階の全貌が明らかになった。
その部屋は驚くほどに広く、高かった。
半球状をしている天井は、先ほど戦った怪獣《ゴブリンたちの集合体》が入れそうなほどに高く、中央から奥にかけて、ガラスのような透明な材質で区切られたスペースは部屋の暗さもあいまって、葛西臨海水族館のクロマグロが回遊している水槽を彷彿とさせる。
壁や天井を覆う材質は金属だろうか、不思議な光沢を帯びた壁のあちこちには、モニターやコンソールが並んでおり、それらの光が水槽に反射して、どこか幻想的な光景を生み出していた。
そして、その部屋の中央、透明な壁で区切られた向こう側にそれはいた。
「これが、フカビトの王」
「……の欠片かしら」
それはとても単純な形をしていた。
一言で言うならば、黒いトゲトゲの球。海栗と言えば想像しやすいだろうか。球体部分に比べて棘は長く、ムラサキウニやエゾバフンウニではなく、海のギャングことガンガゼに近い。
……とは言っても、海栗のような愛らしさは皆無だ。歪みのない真球状の肉体は非生物めいた不気味さを誇っており、その身を覆う無数の棘は守りのためのものではなく、他者を攻撃する意思に満ちていた。
そして、何よりもその色がおぞましい。もしも、この世界に存在する憎悪をすべての憎悪を集めて煮詰めればこんな色になるかもしれないと思うような、複雑な黒。
水槽の中、8方向から伸びた太いチューブが突き刺さり、拘束されているにも関わらず、それは魔王然とした風格に満ち溢れていた。
ぜんぜん甘かった。
正直に言おう、ぼくらは自分たちの力をちょっと過信していた。あの怪獣に勝利したんだから、もしかしたらどうにかなるんじゃないかって思っていた。
だけど、これを相手にするなら、あの怪獣をダース単位で相手したほうがマシだ。
いや、ヴァンのおっさんや、ククル学園長。プルセナ先生たちが束になってもまだ敵わないだろう。文字通りの絶望がそこにいた。
「……」
眼球すら存在しない本体の代わりに、棘が感覚器としての役割も果たしているのだろうか。ぼくらの存在を感知したかのように動き、そして――ふと目が合った。
――深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている。
ホォォォォォ……
不気味な重低音とともに、すさまじい量の瘴気が吐き出される。フロア中のコンソールがオレンジ色に変わって、警告音が鳴り響いた。
「や、やばいかしら!」
シアンが慌てふためき、部屋に備え付けられた装置のコンソールに指を走らせる。チューブの拘束を通して薬剤が注入され、水槽の水を緑色に染める。だけれど、放出される瘴気はおさまることなく、さらに濃くなっていく。
「この濃度はシャレにならないかしら! ウィルベルちゃん、逃げ――」
警告を発しようとしたシアンは言葉を止めた。なぜならば、
「よかった」
ウィルベルが柔らかい表情で微笑んでいたから。
ホォォォォォ…………
その様子が気に食わないとばかりに、フカビトの王から放たれる瘴気の濃度が増す。その勢いは先ほどまでの比ではなかった。
冬に降る雨水のように冷たい、負の感情に染まった魔力。そのあまりにも圧倒的な力はウィルベルが纏う未熟な精霊の衣を貫いて、骨の髄まで染み込もうとしてくる。
あっかーん! この瘴気、すっごくヒエヒエ! 誰にでもわかるようにオホーツク海で例えると、さっきまでの瘴気の宗谷岬だとすれば、いまはサハリン沖って感じ!!
誰か助けてヘルプミー! やだー! 成れの果て(冷凍マグロ)になるにしてもせめてマイナス50度くらいの冷たさのなかで美味しく凍りたーい!!
なんてね。並の人間ならそうやって慌てふためいてしまってるところなんだろうけど、ところがどっこいぼくマグロ。
――みなさま。ご存知でしょうか。クロマグロが深海魚であることを。
深海っていうのは、生物学的には水深200メートルよりも深い場所のことをいう。太陽の光がほとんど届かず、植物プランクトンもおらず、水温も一桁になる、ほとんどの魚が生きていけないハードな場所だ。
そして、クロマグロの生息域は一般的に水深40〜400メートル。表層から深海まで行き来するから深海魚の条件を満たしてるってわけ。
ひゅーっ。さすがクロマグロ! 水深100メートルで音をあげるサーモンなんかとは格が違うぜ!!
と、驚くのはまだ早い。
クロマグロの生息が観測された最も深い場所は、なんと! 水深1200メートルにもなるのだ!!
そこは光のまったく届かぬ無光層と呼ばれる、深海のなかでもさらに過酷な場所。水温もほぼ0度に近くなる、ヒエッヒエの海の底である。
そんな過酷な場所で、クロマグロが凍死せずに生きていける理由は強靭な心臓だ。
普通の魚の脈拍が30~45拍/分程度なのに対して、クロマグロは約60拍/分。他の魚よりも優れた心臓で血液を温め、全身に巡らせることで、0度に近い水温のなかでも活動できるのである。
ドクンドクン。
心臓が脈打つのを感じる。他の魚にない力強い鼓動が、冷たい瘴気のなかでもぼくを付き動かそうとする。
――いや、この熱さはそれだけじゃないな。
体の奥底から湧き上がるこの熱は――瘴気のもつ仄暗い冷たさとはとは真逆の、太陽のような眩しいほどの暖かさの源は、
「よかった……」
口を開いたのはウィルベルだった。
その吐息は熱く、心臓の鼓動はぼくにも聞こえるほどに力強く、そして生命力に溢れていた。グツグツと煮え立つ海底火山の熱水噴出孔のような生命エネルギーが滾っていた。
ホォォォォォ…………
周囲を取り巻く瘴気がますます濃さを増し、ぼくらを絶望の淵へと誘おうとする。きっと、その誘惑に少しでも傾いちゃうと成れの果てとなってしまうんだろう。
でも、瘴気が濃くなればなるほどに、ぼくらの熱は増していく。
なんでって?
「よかった。ここに来て。みんなを治すためのヒントがつかめたんよ。なんとなくやけどね」
『深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ』って言葉は『より深く相手の事を知るために踏み込めば、それだけ自分も影響を受けやすくなるから注意しようね』って忠告の意味で使われることが多い。
例えば、ニーチェは「怪物と戦う時は自らも怪物にならぬよう、心せよ」と書いているし、犯罪行動研究の権威は「事件の近くにいる警察官は、薬物や凶器に接しやすく、知識も持っているので誘惑されやすい」と言って言葉を引用している。
だから、この言葉を『危険なことに近づくのはやめようね』って意味で捉えている人は多い。
でもね。その言葉を引用した人々は、同時に口を揃えてこうも言っているんだ。
『誘惑に負けない強い正義の心があれば、敵を深く理解することこそが怪物に対する最強の武器になるのだ』と。
そして、ウィルベルは勇者だった。『誘惑に負けない強い正義の心』の持ち主だった。それも、とびっきりの。
「「熱い」」
ぼくとウィルベルの言葉が重なった。
腐海とは何か、フカビトとは何か。なんの為に、腐海の病を広めているのか。元凶に直接に触れたからこそ――深淵を覗き込んだからこそ、ぼくたちはそれを一端だけとはいえ、理解し始めていた。怪物と戦うための武器を得つつあった。
ドクドクドクン。
クロマグロの心拍数は約60拍/分。そして、人間の心拍数もまた約60拍/分という偶然。
ぼくらの心臓の鼓動が響きあって、凍てついた瘴気のなかでもアッチッチ。
その熱は、むしろ瘴気を飲み込んで――そして、唐突に。部屋に充満していた瘴気が消え失せた。
「こ、今度は何が起きたかしら!?」
めぐるましく変わる状況に、シアンが混乱してあたふたとする。でも、ぼくは何が起きたのか正確に理解していた。
「びびったな?」
こいつはぼくらなんかよりも遥かに強い。ガラスのような透明の防壁がなければワンパンチで即死だ。それくらいに圧倒的な差がある。でも、こいつは――逃げたのだ。力の差を恐れないぼくらから。
ぼくは獰猛な肉食魚としての笑みを浮かべた。もはや、ぼくらにとってこれは圧倒的な絶望を振りまく恐怖の魔王ではなかった。
「ぼくらはいつかお前に勝つぞ」
物理的な戦いであれば敵うはずもない相手に、びしぃっと腹びれを突き付けて宣言する。
「人間には知性がある。受け継いできた知識がある。誰かを守りたいって思いがある。そういったものが人間を弱者のままにしておかないんだ。いまは敵わなくても、すぐにお前に追いつめるようになるんだ」
この世界の魔力とは心の力。なので、相手が弱みを見せたら傷口に塩を塗り込みにいくのが鉄則なのである。
というわけで……
「へいへい、王様ビビってるぅ! しょせん、ガンガゼなんて害獣だからね。トゲトゲ引っこ抜いてイシダイのエサにしてやっからな! ぷっぷくぷー!」
勝手に勝利宣言&マグロダンス!
見よ、プリプリっとしたこのクロマグロの腰つきを!
ねえねえ。指先ひとつで倒せる相手に手も足も出ないってどういう気分??? ぷー、くすくす。
ほら、ウィルベルもなんか言ってやりなよ。
ウィルベルは「せやな」と同意して、フカビトの王にびしぃっと中指を立てた。んまっ、お下品!
「うちらは、絶対にあんたなんかに負けんかんね! 覚悟しとくんよ!!」
ぼくらはまだまだぜんぜん未熟だ。
だからこそ、成長する。いつかこいつを倒せるようになる日がやってくる。だから、いまはこんくらいにしといてやらぁ!
フカビトの王がぼくらの宣戦布告をどう受け止めたのかはわからないけれど――そんなぼくらを見て、シアンは引き攣った表情を浮かべていた。
★☆★☆★☆★☆
――後日、レヴェンチカの学園長室で。
「マシロ様。楽しそうですね」
学園長であるククルは、窓から空を見ているマシロが、めったに見ないレベルで上機嫌なことに気づいて声をかけた。
「ええ。6番目の姉から面白い連絡があったもので」
そのときのマシロの笑みは”にまにま”という擬音が似合いそうな、心底から楽しそうなものだった。
「姉、ですか?」
マシロの姉とは、かつてリゼットとともにフカビトの王を封印した精霊たちのことを指す。
それぞれ、世界の維持のために役割を与えられて、各地に散らばっており、ときおりこうやってマシロに連絡をもたらすのだが――
(確か、2番目の姉というと……リヴィエラの番人か)
とすると、何か事件を起こしたのはリヴィエラの演習に出ている教室か。
「なにか粗相でもありましたか?」
「勇者候補生の一人がアレに相対して、中指立ててケンカ売ったそうです」
「……は?」
一瞬、思考が停止して、ククルはペンを取り落とした。
アレとはもちろん、フカビトの王の欠片のことだろう。
驚くべきことはいくつもある。
まず、あそこに入れるのは番人が認めた者のみ。その審査は厳しく、並くらいの勇者では追い返されるほど。勇者候補生が立ち入ることを許したことなど聞いたこともない。
(いや、それは些細なことか)
よくもまあ、アレを見て戦意を失わなかったものだ。番人の審査が厳しいのは意地悪などではなく、単純に危険だからだ。精神的にも肉体的にも。
いや、とククルは首を横に振った。
ダメだ。根性は認めるが、勇者候補生の職分を超えすぎだ。アレが暴れればその勇者候補生も無事では済まなかっただろう。それどころか、もっと大きな被害が出ていたかもしれない。
「それは浅慮でしたね。その生徒には厳重注意をしておき――」
「逃げたそうです。アレのほうが」
「は?」
「アレはいつも通りだったそうです。あそこに立ち入った者に攻撃をしたのだそうです。むしろ、いつもより念入りに。瘴気を放って。でも、その勇者候補生に逆襲されて引っ込んだのだと」
「……。……。は?」
今度こそ、クルルは言葉を失った。
その様子を見たマシロが耐えきれなくなって、思わず「あはは」と笑いだした。
「楽しいですね、ククル。わたしはね、生徒たちがクエストに出発するたびに”想像を超えた成果”を出してくれるんじゃないかって妄想するんですが……いやはや、さすがにこれは埒外です」
そして、まだ固まったままのククルに向かって言った。満面の笑顔で。
「でもね、人間ってのはこうでなくっちゃいけません」
ここまでお読みいただきありがとうございました。第二部についてこれで完となります。第三部については活動報告に記載しましたのでよろしければご確認ください。
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