115.奇跡の壁をぶちぬいて
ぼくらの目の前で、フカビトの肉体がぐにゃぐにゃと揺らぐ。
さっきよりもすごいパワー。危険が危ない、そんな局面。
「こ、これは何が起きて……」
アリッサちゃんが、目の前の光景に驚愕する。
まるで内部でケンカをしているような機能不全。まとっている魔力の色がめぐるましく変化し、その表面がさざなみのように波打ち、揺らぐ。
その揺らぎの中心にあるのは、おそらく……。
ならば、ぼくたちがやるべきことはひとつだ。
「先輩、危険です! 無茶です!!」
フカビトに挑もうとするぼくらを、アリッサちゃんが呼び止めようとする。
フカビトは混乱こそしてはいるものの、パワー自体はアップしている。アリッサちゃんの言うとおり、挑むのは無茶な試みなのだろう。
混乱してくれているなら、プルセナ先生がこちらに戻ってくるまでの時間稼ぎをしたほうがよほど安全だ。
けれど、ウィルベルは静かに首を横に振った。
「アリッサちゃん。この子はうちに言うたんよ」
「?」
いぶかしげにアリッサちゃんが首を傾げるのを見て、ウィルベルはうなずきながら笑った。
「うちらに向かって、”助けて”ってね」
あれは恐らく、溺れている人が藁を掴んで縋るようなものだったに違いないけれど。
「そ、それだけのことで……ですか?」
それができるかどうかはわからない。最初にレアさんが言ったとおり、助けられる可能性はとても低いのだろう。
怒りから生み出される力は強い。だけど、その持続力は短く、儚い。
でも、そこに一縷の望みがあるのならば――あの娘が瘴気に抗っているこの一瞬に、すべての力を振り絞る!
「ふぅぅぅぅ……」
ウィルベルが集中力を高め、ぼくの尻尾の付け根をもって、正眼に構える。瘴気が最も薄いのは頭部。おそらく、あそこに少女が――
本日2度目の中トロモード。魔力残量はほんの少し。持続時間は――約10秒。
「それだけあれば、充分や!」
ウィルベルがぼくの尾を引っ掴んで、甲板を駆ける。
『ドツキタオォォォォォッス!!!』
フカビトがぼくたちを叩きつぶそうと、大きく両の腕を振り回す。
混乱していると言っても、相手は顔だけでウィルベルの身長ほどもある巨体。その威力は計り知れない。だけど、その動きはどこか鈍重で、狙いも甘かった。
「しっ!」
集中力を極限まで高めたウィルベルが、即死級の攻撃を潜り抜け、にゅるりとしたフカビトの肉体を足場にして、その体を駆け上がる。
胴、胸、肩、そして揺らぎの中心、顔の目の前に迫り――ウィルベルはさらに、とーん、とその顔よりも高く跳躍する。
『……ア?』
あっけに取られたように、絶対に手が届かない高さまで跳躍したウィルベルの姿を、フカビトが見上げるようにして追う。
ぼくらのほうも、初めて見るフカビトの全体像をじっと観察する。
お互いに手出しできない一瞬。戦場に、静寂な凪のような時間が訪れる。
「ふふっ」
ウィルベルが笑みを浮かべる。
いや、ぼくらを見ているのは、フカビトだけではない。
フカビトも、リヴィエラの人々も、ゴブリンたちですら。全員がぼくらを見ている。視線の圧を感じる。
さっきまでフカビトを恐怖の目で見ていたはずの視線が、ウィルベルに向けられている。
期待と不安が入り混じった視線が集まる。
だけど、ウィルベルってば目立ちたがり屋で、お調子乗りだからね。そんな視線に晒されてすら、やる気をみなぎらせていく。
跳躍が最高点に達し、一瞬だけ慣性がゼロになったとき、ウィルベルが犬歯を剥き出しにして、野生的で、でも心底から楽しそうに笑った。
「あの子を解放する。リヴィエラの人らも守る。ゴブリンも逃がす。勇者候補生っていうんは大変な仕事やな!」
「でも、そういうのが好きなんでしょ? ウィルベルは」
「そらそうよ!」
狙うは顔面、揺らぎの中心。魔力を全開にしながら急降下!
迎え撃つはフカビト。雄叫びをあげながら、ぼくらを見失わぬようしっかりと視線を向ける。
――ところでみなさま、ご存じでしょうか。
マグロも含めた魚のお腹が銀色なのは、海の底の方から見上げたときに発見されにくくするためだってことを。波にキラキラと反射する太陽光に同化するためだってことを。
『イギイィィィ!?』
太陽を背負ったウィルベルを凝視しようとしたフカビトが、そのまぶしさに悲鳴を上げ、手で目を覆う。
その顔面にめがけて、
「ぉぉぉぉおおおおお!!!」
たったワン・スイングに全力を。角度は0度。真上から真下への一直線!
気分は、あんこうの吊るし切り!
中身を傷つけないような繊細に。かといって、取り出せないようでは意味がないので大胆に!
「マホォォォオオオオ!!!」
べきぃぃぃぃっ!
ウィルベルの放った一撃が、脳天からアゴまで、フカビトの顔面をまっぷたつに叩き割る!
「やったか!?」
レアさんが"やってないフラグ"のセリフを叫ぶ。でも、
「まだや!」
ウィルベルの行動はそこで終わりじゃない。
ぽいっとぼくを放り捨てると、フカビトの顔にできた断面に手を突っ込む!
「でええぇぇぇい!!!!」
ぶちぶちぶち。
フカビトの体液がウィルベルの顔を濡らすけれど、そんなことは気にしない。
繊維質のモノをちぎりながら、その奥にいるはずのものをつかみ取る。
「おった!」
ずるりと、力いっぱい引き出したのは――塩水の民の少女。
少女はまだ意識が混濁しているようだったけれど、それでもウィルベルの手を温かさを感じたのだろう。視線をウィルベルに向ける。呼吸は浅いけれど――ちゃんと生きてる! それとほぼ同時に。
「フカビトの体が……」
アリッサちゃんが呆然とつぶやく。
少女が引きずり出されたのをキッカケに、フカビトの肉体が崩れはじめていた。腐敗したクジラの死体が、重力に負けてボトリボトリと腐肉を朽ちさせるように、どろりと溶けていく。
「アリ……ガトウ……」
少女はその光景を見ると、安心したように気を失った。その身の半分を、魔獣のように変質させたままにして。






