第36話 取捨選択
轟々と燃え盛る炎の壁に囲まれ、双葉芽衣子は純粋に命の危機を覚えた。
身を焦がすような灼熱を感じるが……幸い、その火炎が実際に体を焼いているワケではないことに気づく。恐らく、入り口を塞いだ炎のように、自分の周囲にだけ燃えあがっているのだろう。
「うっ、く……早く、ここから出ないと」
体に火こそついていないものの、このままずっと立ち尽くしていれば、ジワジワと余熱だけで炙られて死んでしまいそうだ。
炎の壁が芽衣子に大きなプレッシャーを与えるのは、それだけが理由ではない。小太郎達はかなりの苦戦を強いられているだろう、悲鳴やら怒号やらが聞こえてくること。高熱に苛まれる芽衣子は、その叫び声がよく聞き取れなかったが、とにかく、今すぐにでも戦線に復帰しなければ、全滅の危険性があると思われた。
急がなければ。けれど、小太郎が言ったように、無理に炎の壁を突破しようとすれば、戦闘に支障をきたすレベルで負傷する可能性もある。
脱出すると同時に、火傷のダメージも最低限に抑えなければ。
無理難題とも思える条件、だが、すでに勇気を得た芽衣子は、この土壇場でも冷静に機を待った。
小太郎の言葉を信じれば、火の勢いは短時間で減少し始める。
そして、芽衣子にとって彼の言葉ほど、この残酷な世界で信じられるものはない。
「そこっ!」
僅かに自分を囲む炎の勢いが弱まったのを見て、芽衣子は意を決して火炎の牢屋からの脱出を図った。幸い、一瞬の熱さを感じたことと、制服の裾が少し焦げた程度で、無事に抜け出すことに成功した。
勢いよく飛び出したせいで、二度三度、硬い石の上を転がった芽衣子は、立ち上がるなり、その絶望的な光景に唖然とした。
「嘘、でしょ……桃川君」
視線の向こうに、血塗れの桃川小太郎がボロ雑巾のように転がっていた。手足を投げ出して、ピクリとも動かない。
死んでいる……のだろうか。一目では、とても判断がつかない。否、そもそも、彼の死など、芽衣子にとって到底、受け入れられるものではない。
――ガァアアアっ!
と、呆然とする暇もなく、ボスの獰猛な咆哮が響きわたる。
すでにして狂戦士の肉体と感覚を得ている芽衣子は、鋭くボスへ視線を向ける。恐ろしい双頭のオルトロスはしかし、全身血塗れで、先ほどのような力強さは感じられない。
深刻なダメージを負っている。ボスが弱っていることは、一目瞭然だった。
「あっ――」
ボス撃破のチャンスを喜ぶよりも、芽衣子は気が付く。血塗れなのは、小太郎もボスも同じ。その傷痕はどれも同じように見えて、そして、この場にはもう一人、同じく血塗れで倒れる者がいた。
「……『痛み返し』」
その呪術の効果を思い出して、芽衣子の中では全てが繋がる。
「西山さん、桃川くんのこと、撃ったの?」
芽衣子の柔和なたれ目からは、想像もつかないほど鋭い眼光が発せられる。その先には、血だまりの中で、杖を抱えて震える女子生徒が一人。
「い、痛い……何で……私、そんな、つもりじゃ……」
西山の、取り返しのつかない過ちを犯してしまったような絶望的な表情だけで、十分だった。
幾筋もの切り傷が刻まれた体。小太郎と、オルトロスと、西山。『風連刃』と『痛み返し』。
オルトロスに組みつかれた小太郎ごと、西山が撃った。それ以外に、この状況はありえなかった。
「そう……桃川くんのこと、裏切ったんだ」
冷ややかにそうつぶやいてから、芽衣子は動き出した。手にした斧を油断なく構えて、ボスと西山、双方の位置関係を冷静に見やる。
芽衣子が動くのと同時に、オルトロスも牙を剥いて駆け出す。流した血を求めるように、新たな獲物を食らうべく。
餓えた狼が狙ったのは、自然、より近くにいる、それでいて、楽に捕食できる獲物。何ら超人的な身体能力を誇らない、脆弱な風魔術士の少女である。
「う、あっ――『風刃』っ!」
自分自身も風の刃で負傷しているにも関わらず、反撃の風魔法を撃ち出せたのは、多少なりともダンジョン攻略をしてきた経験故か。しかし、血に飢えたボスは今更、わずかに体を切り裂く風の刃をものともせず、そのまま非力な少女を押し倒した。
「きゃああっ! いやぁ! 助けて! お願い、双葉さんっ!」
芽衣子はどこまでも冷静に、餌にがっつくボスを観察した。裏切り者の悲鳴など、いくら聞いてもまるで心は痛まなかった。
冷静に、冷徹に、どこまでも心は澄んでいく。眼の前の戦いのみに集中。敵を、殺すためだけに集中するのだ。それが、狂戦士としての基本的な心構え。純粋にして合理的な、殺意。
「ふっ――」
呼気を整え、静かに、鋭く、斧を振り上げ、一歩を踏み出す。
「きゃぁーっ! あぁあああああっ!」
ボスは殺意を研ぎ澄ませた自分に見向きもせず、一心不乱に倒した獲物を貪る。荒々しく喰いかかる牙と爪は、西山の体を制服ごとズタズタに裂きながら、乙女の白い柔肌を刻む。
腸を食い破るように、二つの首が彼女の腹部へ食らいついたその瞬間。
「――はあっ!」
気合い一閃。それが必殺のチャンスとみた芽衣子は、凄まじく速く、それでいて重い踏込みでもって間合いを侵略し、斧を振り下ろす。
ガアっ! と鋭く鳴き声を上げて、ボスは慌てて回避に動く。だが、最高のチャンスを窺って繰り出された狂戦士の一撃を、避けきることはできない。
苦しげに、甲高い鳴き声をあげながら、オルトロスは胴を深々と切り裂かれた。
「いっ、ぎぃいああああああああああああああああっ!」
同時に、西山の絶叫が轟く。
芽衣子の振り下ろした斧は、オルトロスだけでなく、食らいつかれていた彼女の脇腹をも断ち切っていたのだ。
噴き出す赤黒い鮮血と共に、ドロリ、と細長くうねった肉の塊が傷口から零れ落ちる。腸が、大きく裂かれた腹から飛び出てしまっていた。
運悪く、手元が狂ったワケではない。そこに当たると分かっていた。けれど、やった。オルトロスを切るために、仲間の体ごと、芽衣子は断ち切った。
その選択に、後悔など、あるはずない。
「はっ、あぁああああああああっ!」
死に体の西山を超えて、芽衣子は猛然と手傷を負ったオルトロスに追撃をしかける。
ギャン、と悲痛なうめき声をあげるボスの動きは、完全に衰えている。あまりに血を失い過ぎたのか。最大の武器であり、盾でもある機動力は見る影もなく落ち、足元さえおぼつかない。
今や双頭の狼は、ただの大きな的にすぎなかった。
嵐のように振りまわされる斧の連撃を前に、オルトロスは足を叩き切られ、首を切られ、脳天を割られる。瞬く間に、芽衣子の圧倒的な暴力の前に惨殺された。
「ぬんっ!」
最後に、残った頭を足で踏みつけて、頭蓋ごと砕いて、ボスの息の根は完全に止まった。両の頭はどちらも、無残にも脳漿をまき散らしている。もう二度と、蘇ることはないだろう。
「あ、うぅ……あぁああ……」
最大の脅威を排除した芽衣子は、すぐにでも小太郎の元へと駆けつけたかったが、瀕死のくせに、必死に動こうとする西山の姿が目に入ったことで、優先順位を入れ替える。
彼女は腸を零したまま、手元に転がった鞄に手を突っ込んで、一つの小瓶を取り出していた。
「ふーん、そんなモノを隠し持っていたんだ。ねぇ、ソレってポーションっていうんでしょ?」
「ふ、双葉さん……お願い……助けて……」
ポーション。それは宝箱から入手できる、魔法の回復アイテム。その存在は魔法陣の情報で明らかとなっているし、盗賊クラスの伊藤がパーティにいたから、二人が隠し持っている可能性を、小太郎は前に指摘していた。
「やっぱり、桃川くんの言う通りだった」
「お、お願い……痛い、の……」
仰向けに倒れ込む西山の元へ、芽衣子はそっとしゃがみ込む。そして、彼女が手離すまいと固く握りしめたポーション瓶を、あっけなく奪い取る。
「あっ、あ、あぁ……やめて、返して……お願い……」
さっと封を開けて、やや青みがかって透き通った液体に指先をつけ、芽衣子は毒見。次いで、手の甲についた僅かな火傷の跡に一滴だけかけてみる。
「うん、間違いなく、魔法の回復効果があるみたいだね」
なるほど、これはそのまま飲んでも、患部にかけても、どちらでも治癒効果がある。
その高い治癒力を確認して、満足したような表情の芽衣子は、もう西山の存在など忘れてしまったかのように、さっさとその場を反転。
「待って……お願い……お願い、します……」
「桃川くん、今、私が助けるからね」
グッタリと倒れ込んだ小太郎に向かって、芽衣子は瓶の中身を引っくり返してぶちまけた。キラキラと光の粒子が舞い散ると共に、青い液体は小太郎の小さな体に降り注ぐ。
その効果は劇的であった。
見る見るうちに、手足や首元に見える悲惨な傷痕は塞がり、少女のような綺麗な白い肌へと戻っていく。
「よかった、桃川くん……」
可愛らしい小さな寝息を聞いて、芽衣子はお昼寝する子猫を見たように温かい微笑みを浮かべた。呼吸はしているし、顔の血色も良い。念のために脈拍も測ってみるが、正常に鼓動を刻んでいる。
桃川小太郎は、無事であった。
「あとのことは、全部、私に任せてね」
静かに小太郎を寝かせたまま、芽衣子は面倒な上に血生臭い後始末へ、笑顔で向かう。
斧の代わりにナイフを抜いた彼女は、あっという間にオルトロスの死体を捌き、腹の中からゴロっとしたコアを摘出する。血塗れた結晶をかざせば、すぐに、ボスは最初に寝ていた壇上に描かれている魔法陣が反応した。大カエルの湖と同じように、赤い光が室内を満たしていく。
転移の魔法陣が無事に発動することを確認してから、芽衣子は小太郎にならって、抜け目なく二人分の荷物を回収。使えそうなモノは全て、拾っていく。
そうして、芽衣子は戦利品と、あどけない寝顔を晒す小太郎だけを抱えて、ボス部屋を後にする。暗い室内に、首元から大量の血を流して力尽きていた平野と、もう呻き声一つもらさなくなった西山の、二人のクラスメイトを置き去りにして。




