セリーナの記憶
オーロフがつらそうに口にする。
直後ギシッと音が鳴り、長椅子に脚をかけた義兄が、長い指で私の髪をかき上げた。顎に手がかかり、そのまま上を向かされる。思いつめたその表情ですら、素敵だと感じる私はバカだ。けれど――
「待って! こんなの嫌だっ」
心が伴わないのなら。
兄としての独占欲だけで、こんなふうに暴走するのはおかしい。
わけがわからず、涙が滲む。
すぐ泣く女性を、私は嫌っていたはずなのに……
「すまない、リーナ。止めてあげられない」
はい?
「ど……」
どういう意味?
そう聞く前に唇が重ねられ、いきなり舌が侵入してきた。
な、なな、何?
どどど、どーしよう。
目は? 目は閉じればいいの?
こんな長めの深いやつって、大人のキスだよね?
兄妹でするのはちょっと……じゃなくって、拒絶! 抵抗しなくちゃいけないのに……
激しいけれど優しい口づけに、頭の芯がボーっとしてきた。胸も苦しいくらいに鼓動を刻む。
息継ぎは? みんなどうしているんだ?
鼻息がかかるから、鼻で息をしたら嫌がられるだろう。もしや皮膚呼吸? 女性はみんなマスターしているのか?
それはかなり難易度高いなぁ――
「……リーナ?」
名前を呼ぶ声が聞こえたような気がしたけれど。
上手く息ができなくてそれっきり。
何もわからなくなってしまった。
*****
「ねえ、お義兄様。大きくなったら私、お義兄様のお嫁さんになりたいの」
「そうだな、考えておこう」
「えー、考えるだけー」
外の光が差す明るい部屋で、私は起き上がって話をしている。ベッドの傍らには大好きな義兄のオーロフ。まだ少年の彼が、ニコニコしながら私の話を聞いていた。柔らかそうな肩までの茶色い髪と優しく煌めく金色の瞳。つい甘えた声を出してしまうけれど、彼はいつだって優しく応えてくれるのだ。
「まだ一緒に出掛けてもいないだろう? この国の美しい景色を、お前にも見せてあげたい。元気になったら外へ行き、色とりどりの風景を一緒に見よう」
「ケホ……それって、デートって事?」
「どうかな? 私の大事な義妹は、随分おませさんだね」
「だって……ゴホ……知識だけ……ケホ……なら、一人前ですもの」
大好きな恋物語ならたくさん読んだ。
読書がたった一つの私の楽しみだもの。
ドキドキするってどんな感じだろう?
好きな人と外を歩くってどんな気分なのかしら?
「無理して話す必要は無い。ごめん、疲れさせてしまったようだ」
「ゴホゴホ……そんな……ゴホッゴホッゴホ」
「じゃあ、代わりに私が話そう。学院にいる興味深いやつについて語ろうか。童顔の彼はね……」
私の知らない世界を、面白おかしく語る義兄。
王立の学院は、貴族の中でも優秀な成績の者しか入れなかった。そこでの話を聞ける私は、恵まれているのかもしれない。二人だけの優しい時間が、このままずっと続けばいいのに――
けれど年を経るごとに、私の体調は悪くなっていく。そしてとうとう、事実を知る。
「私はもう……ゴホ、長くな……ゴホゴホ……いって」
さっき義兄が来る前に聞いてしまった。
「残念ですが、もう投薬や治療では抑えられません。このまま弱っていくのを見守るだけかと」。私が寝ていると思った医師が、小声で両親にそう話していたのだ。
「何だと! 誰がそんな事を言ったんだ? 私の大切な義妹はきっとよくなる。それにまだ、一度もデートしていないだろう? お前を城に連れて行こう。私にこれほど可愛い妹がいると知れば、みんな羨ましがるだろうな」
「私……ゴホゴホ……は、義兄様、ケホ……だけ……ゴホゴホゴホ、で、いい」
義兄以外に歳の近い男性を、私は知らない。
トップの成績で学院を卒業し、城に勤める自慢の義兄。優しい彼がいれば、他は要らない。
私にはオーロフだけ。それが紛れもない私の本心だ。
「――私も。お前がいれば十分だ」
「うれし……ゴホゴホゴホゴホ」
義兄は私の言う事を否定しない。
具合が悪い私を気遣い、望む答えを返してくれるのだ。
長くない事は薄々感じていた。家族や義兄が、その事実を隠そうとしていた事も。
死ぬことはそれほど怖くない。満足に起き上がれない今の状態から、早く解放されたいとも思う。
心残りはただ一つ。私はあなたと、離れたくない!!
朝、目覚めた私は最期の時を予感していた。窓の外、雲に向かって飛ぶ鳥を、羨望の眼差しで見つめる。
「どうした、セリーナ。遠くを見て何を考えている?」
「不思議ね。今日は咳も少ないし、何だか気分が良いの」
「それは良かった。新しい薬が効いて治ってきているのかもしれないね。治ったらどこへ行こう? お前の望むまま、旅をしようか」
「いいえ。もう……コホゴホ……わかっているから。私はここから出られない」
最後に外に出たのは、いつの事だろう?
この部屋が私の全て。
窓から見える景色だけが、私に許された世界。
いつか義兄とデートがしたい……それも儚い夢に終わる。
「違う!」
「ケホケホ……別にいいの。義兄様が、側にいてくれたから」
「ああ。それならずっと側にいる。お前が治ると信じているから」
「嘘つき……ね。無理だと知って……ゴホゴホ……いるのに」
「嘘じゃない。私がお前に嘘を吐いた事があるか?」
オーロフはいつだって私に優しい。
義妹なんかに構うより、同年代の人と過ごしたかっただろうに。
私が危ないと聞き、わざわざ休暇を取って毎日こうして側にいてくれるのだ。短い人生だったけど、私はあなたと過ごせて幸せだった。こんなに素敵な人との別れは、すごくつらいけど。
「どう……ケホ……かしら? ねえ、義兄様。最期にお願いがあるの」
私はずるい。
義兄が決して否定しない事を知っていて、無理なお願いをしようとしている。想いを口にしてしまえば、真面目なあなたはきっと、私の言葉に囚われる。
「最期だなんてお前の勘違いだ。だが、可愛い義妹の願いなら何でも叶えよう」
ほら、ね?
あなたはいつでも私の言う事を聞いてくれるもの。
義兄に甘やかされた私は、最期まで幸せに死んで逝く。
でもあなたは?
残されたあなたは、何を思うの?
望みを言えば、あなたは私を忘れない。
他の誰かを好きになっても、私の事を思い出す。
これは呪縛。
私は死んでも、あなたを私に繋ぎ留めておきたいの――
「ふふ。じゃあ義兄様……ゴホゴホ……私を、好きだと言って。絶対に……ケホ……お嫁さんにする……ゴホゴホゴホ……と、誓って」
「わかった。セリーナ、好きだよ。私と結婚して欲しい」
「私……も」
あなたが大好き!
本当は、あなたと一緒に外の世界を見たかった。本の中でしか見た事がない、デートがしてみたかった。
だけど今、この瞬間の私は、きっと誰よりも幸せだ。
好きな人が自分だけを見て微笑み、私を好きだと、結婚して欲しいと口にする。
――たとえ全てが嘘でも……嬉しかった。




