『夜明けの薔薇〜赤と青の輪舞曲』〜終章
今日も波の音を感じる。
あてがわれている部屋はいつでも潮の香りがする。記憶の中のあの人は遠く、からかうような優しい笑みを二度と見ることはできない。
私はどれくらい、ここでこうしているのだろう? 回復するまで何週間もかかったと聞く。手足も自由に動くし、記憶が無くなったなんてこともなく、至って健康だ。ただ、あの時かけられた粉のせいで、目だけが霞んでいる。
私を救ってくれたのは、漁師の夫婦だった。
崖から遠く離れた岩場に引っかかっているところを、見つけて助けてくれたのだそうだ。海に深く沈んだ後、そのまま遠くに流されでもしたのだろうか? あんなに高い所から落ちて、助かったのは奇跡だと思う。
人のいい漁師のご夫婦は「自分達に娘が出来たようだ」と言って可愛がってくれている。役に立たない私でも、いるだけでいいと言ってくれる。そう言ってくれたのは、あの人以来。青い瞳と銀色の髪の私の大好きな人。
ここに来てから私は、聴覚が鋭くなった。
音で大体わかるから、日常生活にもそれほど支障はない。漁の手伝いができるようになるまでもう少し。元々頭を使うより肉体労働の方が向いているから、慣れるまでもう少し、ここで頑張ってみようと思う。
その日の夜のこと――
漁師のご主人が、漁師仲間からこんな話を聞いたと語ってくれた。
「二か月ぐらい前に隣の港町を訪れた王太子様の婚約者ってのがよう、すっごく綺麗でお優しかったんだって。賎民――ああ、もうこんな呼び方しちゃいけねーんだっけか? その子供にも手を差し伸べて丁寧に話かけたんだとよ。何でも水色の髪に緑の瞳をしてたっていうんだけど……。行方不明になったまま、まだ見つからないんだとさ。お前さんも瞳が緑で見えていたら、別嬪さんだしおんなじなのに、何だかもったいねぇなぁ」
そうか、あれからもう二か月経つんだ。ヴァンの話を聞くだけで、未だに胸が苦しくなる。
「その後ヴァ……王太子様は、どう過ごされているのでしょうか?」
「さあねぇ。あたしら下々には、雲の上のお方のことはよくわからないねぇ。そうだ、あたしが聞いた話によると、始めは狂ったように婚約者のことを探し回っていらしたんだとか。でも、こんだけ探しても出てこないから、いい加減諦めたんだろうよ」
夫婦の言葉を聞いて、引っかかったことがある。そうか。私の瞳はもう、緑色ではないのか。
「えっと……私の瞳って何色ですか?」
「ごめんね、気がつかなくて。あんたよく見えないのに、この人ったら。あたしが見たところ、白っぽい青かな? 緑に見えなくもないけんど、やっぱり青だね」
そう。それなら良かった。
万一見つけられたとしても、別人だと言って押し通せる。この状態の私を見たら、貴方は自分を責めるでしょう? 好きというより同情から、私を引き取り世話を焼こうとするかもしれない。そんな関係はお断りだ。私は貴方に相応しく対等でありたかった。
青は私の一番好きな色。
たとえ白く濁っていたとしても、青は大好きな人と同じ色。「離さない」と言ってくれたあの人の瞳の色だ。
「男の子の方は、その後どうなったんですか?」
「おや? 今度はお綺麗な婚約者様より子どもの方が気になるのか? けんど、お前さんよりかなり年下だ。結婚相手にゃ向かないよ。それにあの子は、今度新しくできる『こーこー』ってのに入るんだって。今からすっごく張り切ってるって聞いたけどな」
良かった。
シンの町で出会ったアルト。
差別もされなくなったようだし、彼には自由に生きて欲しい。将来、自分の力で好きな仕事を選べるようになればいいのにな。
そして、貴方も元気そうだ。
私がいなくても確実に前を向いている。ひどい差別をなくすために、『高校』を作ることに決めたのね?
「あれ? でも今、『男の子』って……。そんなこと言ったっけか?」
「嫌ですよ、自分の言葉を忘れるなんて。あたし達ももう歳ですかね?」
二人の掛け合いに、思わずクスクス笑ってしまう。こんな風に自分がまた、笑える日が来るとは思っていなかった。
ここで意識を取り戻したばかりの頃――助かってすぐの私は、何も見えずに怯えていた。愛する人の婚約者として、もう支えになれないとわかった時は、絶望のあまり我が身を嘆いた。
あの日、ローザが私に投げつけたのは毒の粉だった。私の目は今はもう、ほとんど見えない。側にいて貴方の足を引っ張るくらいなら、私はこのままここにいたい。私のことは亡くなった者として、忘れてくれればそれでいい。
ある晴れた日。風がいつもと違う匂いを運んできた。
裏で手探りで洗濯物を干していた私は、戸口でおばさんが男の人達と言い争っているのを聞いた。
「……だから、それはあの人が隣町で話したからでしょう? 騎士様、あの娘は違いますよ。だって、目が見えないし瞳の色が違うもの」
「噂を聞いて来たんだ。一目だけでいい。会って確認させて欲しい」
心臓が大きく音を立てた。
何人かの声に混じってはっきり聞こえた声。間違えようのないその声は、私の好きなあの人のもの。急に痛んだ胸の前でギュッと手を握りしめる。
どうしよう?
どこかに隠れるところはある?
それとも、人違いだとシラを切り通せるかな?
慌てたせいで、足下に置いていた洗濯物のカゴに躓いてしまったようだ。私は大きな音を立てて、地面に倒れ込んでしまった。
音を聞きつけた誰かが、真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる。足音が――すぐ目の前で止まった。
「……セリー……ナ?」
絞り出すような声で、貴方が私の名前を呼ぶ。
聞きたかった声。
ずっと会いたかった人。
けれど、私は否定する。
「いいえ。思いっきり人違……」
言い終わらないうちに大股で近付いた貴方が、手を引っ張って私を立たせた。そうかと思うと苦しいくらいに、私をしっかり抱き締める。
「良かった、セリーナ! 無事でいてくれて」
かき抱く手が力強くて、腕の中から逃げられない。髪に頬をすり寄せてくる貴方。けれど、今の私は転んで泥だらけのはずだ。貴方まで汚れてしまう。
「だから人違……」
「こんな時に冗談を言うの? 私が間違えるはずがない。ずっと……君に会いたかった……」
頬に触れる手と想いのこもった掠れた声。微かに震える彼の指先に、私は思わず泣きそうになってしまう。
だけど、このままではいけない。
だって私は王太子の婚約者として、この先貴方を支えられないもの!
「ほら、見て! 瞳の色が違うし、私は目が見えない。他の人と間違えないで!」
自分で見たわけではないけれど。貴方の声の方に顔を向けた私は、必死に自分の目を指差し力説する。
「だから何? それがどうした。関係ない、君は私のものだろう?」
懐かしい言葉に、涙腺が緩んでしまう。歯を食いしばって何とか耐える。我慢しているはずなのに、頬に温かな滴が当たる。
あれ、雨?
さっきまで晴れていたと思ったのに。
まさかこれって――
「ヴァン。貴方、泣いているの?」
「ああ、やっと。私の名前を呼んでくれたね?」
「うわ、しまったぁ~~!」
人違い作戦は失敗だ。
せっかく貴方を解放してあげようとしたのに。この先貴方と、上手くいく自信なんてないのに。
「おや、まあ。あんたにも、心配してくれるイイ人がちゃんといたんだねぇ。それじゃああたしは家に戻るよ。終わったら、挨拶しに寄っとくれ」
おばさん、そんな殺生な!
この状況でこの先私にどうしろと?
「でも、私は……」
「目を治す薬を作らせよう。治らなくても構わない。君を捨てないと言っただろう?」
「いや……でも、邪魔になるのは嫌だし」
「邪魔? 君を邪魔に思うわけがない。愛しているんだ、セリーナ。一緒に帰ろう」
青く煌めく瞳と、泣きながら微笑む貴方の姿が目に浮かぶようだ。甘く掠れた声で私の名を呼ぶその唇が愛しくて。抱きしめられた腕の強さが切なくて。私はとうとう涙をこぼす。
ああ、私も。
今すぐ貴方の心を抱き締めて「愛している」と言いたい。
ヴァンは今、どんな顔をしているのだろう。私の目が今だけでも、見えたらいいのに――
もう、自分に嘘はつけない。
私は貴方を愛している。
貴方と共に在る未来を心から望んでいる。
「私も。本当は、貴方と一緒にいたい……」
泣きながら訴える。
叶わぬ願いだと思っていた。
これ以上を望んではいけないと。
役に立たないのなら、これからは離れていようと覚悟を決めていた。
それなのに――
「もちろんだ、セリーナ。離さないと誓っただろう? 君は一生、私のものだ」
そう言った貴方の晴れやかで嬉しそうな顔が、一瞬だけ、見えたような気がした。




