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後悔なんてしていない

 ドンッッ


「きゃっ!」


「うわっ。とと、あっぶねー」


 肩を突き飛ばされて、危うく手すりの向こうに落っこちそうになってしまった。ギリギリで避けたから、背中側に折り曲げ過ぎた腰が痛い。……って、あれ? ローザは? 彼女はどこだ? 痛くて涙の滲むショボショボした目で探すけれど、彼女の姿がみつからない。


「助けて!」


 声がしたのは手すりの向こう側。

 近付いて痛む目を細めると、柵の下の部分を白く細い手が掴んでいるのが見える。


「……! ローザッ」


 私は慌てて駆けよると、柵越しに彼女の手首を掴んだ。


「助けて、落ちそうっ!」


 ローザが金切り声を上げる。


「ヴァン!」


 私は振り向くと、さっき聞こえた声の主……扉近くに立つヴァンらしき人影に向かって声をかけた。


「セリーナ、その手を離したら? 君まで巻き添えになったら大変だ」


 凍るような冷たい声は、彼のものではないみたい。


「ヴァン、ふざけてないでお願い! 私の力だけでは支えきれないっ」


 ただでさえ私は、目が痛くて開けられないのだ。目を閉じ、歯を食いしばってローザを引っ張るのにも限界がある。

 けれど彼は、その場を動こうともしない。冗談ではなくこのままでは本当に、ローザが崖下に落ちてしまう。ヴァン、貴方はそれでいいの?


「どうしようか? 再び君に手をかけようとしたローザを、助ける必要なんてあるのかな」


「そんなこと関係ないでしょう! いいから急いで!」


 ローザを引き上げようと努力をしながら、背後の彼に声をかける。さっきから尋常ではないくらい涙も出ているし、視界がぼやけてよくわからない。

 ヴァンの表情が見えない。

 彼が何を考えているのかも。

 ローザを掴む私の手も、だんだん疲れてきた。手を離せば、彼女は確実に海に落下してしまう。だからヴァン、早く動いて!


「のろまっ! 早くしてよっ!」


 ローザも必死だ。声の調子から彼女が焦っていることがわかる。


「ヴァン!」


 ――私が叫んだ、その時だった。




 ガゴッッ


「うわわっっ!」


 それは、一瞬――

貴方が慌てて駆け寄るのと、手すりの根元の(もろ)くなった石が二人の重みで崩れるのが同時。掴んでいた手は足下が崩れた時に離れ、私たちは宙に放り出されていた。

 

「――っ! セリーナッッ!!」


 真っ直ぐ下に落ちていく私。

 声に向かって手を伸ばしても、もう届かない。

 私は痛む目を何とか開き、最期に貴方の姿を映す。身を乗り出し、驚愕している様子のヴァンが見える。その姿が遠くなり、徐々に小さな点になる。

  

 ああ、きっと――


 貴方はこれからずっと自分を責めるのだろう。自分のせいで悲劇が起こったと信じて。

 それだけが、私の心残り。

 結局『ラノベ』の通りになってしまったね。現実ではまず、私は助からない。


 先に落ちたローザのものだろうか。

 大きな水の音が聞こえてくる。

 次は私の番だ。

 悲痛な叫びが遠くに聞こえた気がした。


 海に包まれ、呑み込まれる。苦しくって息ができない。こんな結末は予想もしていなかったけれど。


 ヴァン、貴方に会えて良かった。

 愛し合えたこと、後悔なんてしていない。貴方は私の大切な人。


 ねえ、お願い。

 私を忘れてとは言わないけれど、大好きな貴方には幸せになってもらいたい。

 だからお願い。

 この先もどうか貴方は笑っていて。

 そして、海を見たら、私のことを思い出して――



 そのまま、私の思考は闇に沈んだ。




 *****




「セリーナッッ!!」


 崩れた場所ギリギリに走り寄り、助けようと伸ばした手が、虚しく空を切る。私は咄嗟に、下にいた人物に向かって大声で助けを求めた。


「――カルロッ、頼むっっ!」


 状況に気づいたカレントの大使、『水』の魔法を使える彼は、テラスの端によると両手を前に突き出した。

 彼の魔力の程を知らないが、他に頼る術はない。先に落ちたローザが海面に到達するやいなや、大きな水飛沫(しぶき)が上がって、二人を包みこんだ。


「セリーナッッ!!」


 大声で愛しい人の名を叫んだ。

 彼女さえ助かれば後はどうでもいい。

 交渉が決裂しようがローザが逃げようが、私にとっては些末なことだ。

 すぐに部屋を出て、階段を駆け下りる。大きな音を聞きつけた護衛や女官も何事かと階下に集まっている。


「馬の用意を! 婚約者が転落した。すぐに捜索隊を出せ!」


 出口まで走りながら怒鳴るように指示を出す。早く助けないと、永遠に彼女を失ってしまう!

 走り寄ってきたカルロに尋ねる。


「――助けられたのか?」


 彼も同じように走りながら、私の問いに答えてくれた。


「わからない。衝撃を和らげるのに力を使ってしまったから、何とも言えない」


 海面が一瞬、持ち上がったのが見えた。

 細かい水煙のようなものがセリーナを包んでいた。

 だが、見えていたのはそこまでだ。ここから海までの距離は遠すぎる。


「そうか、すまない」


 カルロのせいではない。全ては激しい恨みのために、すぐに動けなかった自分の罪だ。セリーナを苦しめたローザが許せなかった。けれどああなることがわかっていたなら、早く手を貸し助けるべきだった。


 心優しいセリーナが、ローザの手を離すわけがない。目を閉じていたから必死だったのかもしれない。そんなこと、少し考えればわかったはずなのに。だが、怒りに駆られた私の頭では、正常な判断ができなかった。


 いい気味だと思った。

 自業自得だと。

 ローザさえいなくなれば、過去の恨みも未来への憂慮も全て消えると思ってしまった。

 これでもう安心、セリーナが害されることはないと。


 罰があたったのだ。

 けれど、私の一番大事な女性(ひと)が、奪われるなんて耐えられない!


 馬に飛び乗ると同時に坂を駆け下りる。後ろを気にしている余裕はない。気ばかり焦り、海に着くまでがやけに長く感じられる。

 

 セリーナさえ助けられればそれでいい。他には何も望まない。だから、頼む。どうか無事でいてくれ!!




 願いはどうやら、聞き届けられなかったようだ。海に呑まれたセリーナの姿だけが、どこをどう探しても見つけることができなかった。




 ――二か月後。


 今日も私は、海を見ながら悔やんでいる。あの日に戻ってやり直したいと、何度願ったことか。

 

『嫌! 私も一緒に帰りたい!』


 あの時、珍しくそう言ったセリーナの言葉を、どうして笑って受け流してしまったのだろうか? 

『わかった。大使のカルロには悪いが、次の機会にまたここに来て、皆で楽しもう』そう言うこともできたはずなのに……

セリーナを一人にしなければよかった。片時も離れず、側にいればよかった。


 月日が経った今でも、私はどこかで期待している。君が元気な姿でひょっこり戻ってくることを。『ごめんね、ヴァン。お待たせ』そう言って私の名を呼び、笑いかけてくれることを。

照れくさそうにしながら、「大好き」だと言ってくれる君。可愛らしく素直で優しい君を、私は今でも待ち続けている。

 オーロフは私に「一生あなたを許しません」と言った。私もそうだ、自分で自分が許せそうにない。



「お兄様、もういいでしょう? 雨もひどいし帰りましょう」


 悪天候の中、灰色の海を見つめ続ける私に、妹のルチアが声をかける。

 

「離さないと誓ったんだ。決して捨てはしないと……」


 妹に泣き言を言うなんて、少し前の自分からは考えられなかったことだ。ルチアもセリーナのことを『お義姉様』と呼んで慕っていたせいか、未だに心を痛めている。


 皮肉なことに助かったのは、ローザだけ。 一緒に沈んだはずのセリーナの姿が、どこにもなかった。どうして……なぜ、彼女だけが犠牲になった?


 答えはローザが白状した。

 私が声をかける少し前に、目に作用する毒の粉をセリーナに投げつけたのだという。あの時、彼女が目を閉じていたのはそのためだった。ローザを助けようと必死に力を入れていたからではなかったのか。


すぐにでもローザを処刑したかった。しかし、「毒を中和できる薬は、自分にしか作れない」と彼女は言う。

 私は希望を捨ててはいない。

 いつかセリーナが戻った時、薬がきっと必要となる。ローザの言葉を全面的に信用するわけではないが、それならセリーナが戻るまで、生かしてやってもいい。


 

 

 ねぇ、セリーナ。

 君は、どこにいるのだろうか?

 暗く寒い海の底で、何も見えずにたった一人で泣いているのではないだろうね?

 

「セリーナ。私のものだと言っただろう? なぜ勝手にいなくなった……」


 海に向かって呟く。

 ますます激しく叩きつける雨。

 空が――私の代わりに泣いてくれているようだった。

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