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海辺の古城

  ――いつものように、貴方は笑う。

 貴方の甘い唇が私の首筋を這い、手が慈しむように私の肌をまさぐる。最初は優しく大切なものを扱うように。もちろん、私が初めてだと知っている貴方は、急かしたりなんかしない。囁かれる甘い言葉と慣れた手つきに、私の緊張もゆっくり解けてほぐれていく。

 暗闇で輝く瞳は私だけを見つめている。肌に落とされる優しいキス。

 貴方の手や肩に、ぎこちなくではあるけれど私もキスを返す。結ばれた瞬間は喜びで、思わず涙が溢れた。


 甘い余韻に浸って一息ついていた私。

 すると貴方は狂おしいほどの情熱を、今度は直接ぶつけてくる。重ねた身体。絡み合う吐息。抑えきれないむき出しの激情。こんなに近くでこんなに心が深く繋がっているのに、目を閉じた私には貴方の顔さえよくわからない。


「愛している」とあなたは言う。

「もう離さない」と囁いてくれる。

 私も貴方に同じ言葉を返したい。

 私の望みも同じだから。

 私はただ、貴方と一緒にいられればそれだけでいい――


 満ち足りた気持ちでヴァンに身体を寄せた私は、夢も見ずにぐっすり眠った。




 *****



 大きな窓から眩しい光が射しこんでいる。気づけば朝。そういえば、昨日って……


「わわっ」


 思い出したら急に恥ずかしくなって声を上げてしまった。隣にいるヴァンとバッチリ目が合う。彼はとっくに起きていたようで、肘をついた手に頭をもたせかけて、優しい瞳で私を見ている。


「おはよう、セリーナ。今日もとても綺麗だね」


 言うなり唇にさっとキスを落とされる。

 思わず固まってしまう。

 だって、私はこういった状況に慣れていない。こんな時、気の利いたセリフの一つでも出てくればいいのに……

 残念ながら何も思いつかない。無言で俯きシーツをはぎ取ると、きっちり身体に巻き付けた。


「残念、もう隠してしまうの?」


 照れくさいので何も答えず、ごまかすように笑ってベッドを出る。そのまま、窓の方に向かった。空は昨日の大雨が嘘のようにカラリとよく晴れている。窓の外には一面に、青い海が広がっている。


 ……え? 海?


 海には不用意に近付かないと約束した。

 コレットさんから聞いた話では、『崖の上の古城』がラノベの舞台ということだった。よく晴れた日に、攻略者の一人と結ばれたヒロインが、絶望のあまり身を投げるのだと――


 そんな! まさか、ここって!


 慌てた私はそのままバルコニーに走り出た。白い手すりの向こうには、確かに海が広がっている。

 手すりに近付き下を覗き込むと、思った通り崖になっていた。打ち寄せては砕ける波の白い泡が、はるか下に見えている。


 まさに、話に聞いていた通りの場所だ!

 ここって『海辺の古城』? だったらここが、セリーナが身を投げるところ? コレットさん、何て言ってたんだっけ。ああ、そうだ。確か――


『……崖下に身を投げるシーンって読んでいる分には素敵ですけれど、実際に落下したらコンクリートに叩きつけられるような衝撃だって』


 つまり、どうやったって助からないってことだよね!?





「うわっっ」


 考えごとをしていたら、音もなく近づいてきたヴァンに後ろからギュッと抱き締められた。あっぶなー。今一瞬突き落とされるかと思って、ヒヤッとしちゃったよ。


「セリーナ、ダメだよ? 危ないし、そんな恰好を誰かに見られたらどうする」


 視線を下に向ける。

 そうだった。

 今の私はシーツを巻き付けただけの姿だ。

 外を確認している場合じゃない。

 早く着替えなくっちゃ。

 もしここが、聞いていた通りのラノベの舞台――海辺の古城なら、一刻も早くオサラバしたい。まあ、閉じ込められたわけでもないし、ヴァンもひどいことは何もしていないけれど。冷静に考えたら、私がここから身を投げる理由なんて何もない。だけど万が一ってこともあるから、できれば今すぐ帰りたい。


 急に怖くなったのでブルッと身を震わせると、寒いと勘違いしたのかヴァンが一層強く抱き締めてきた。ああもう! こんなことをしている場合じゃないのに……

「すぐにここを出たい」ってどう言えば納得してくれるんだろう?

 



 とりあえず部屋の中に戻ると、ノックと共に声がかかった。


「殿下、少しよろしいでしょうか?」


 ヴァンは、シーツを巻き付けただけの私の身体に着ていた自分のガウンを羽織らせると、額にキスを落とした。


「セリーナ、少しだけ待っていて」


 まるで恋人同士のような触れ合いが妙に照れくさい……って、もう恋人なのか? まあ、正確には婚約者だし。彼の温もりの残るガウン。前を合わせてギュッと握り、幸せな気分に酔いしれる。

 あれ? でも私にガウンを渡しちゃったらヴァンは……

 焦って扉の方に目をやる。

 良かった、下をちゃんと穿()いてるみたい。

 トラウザーズを身に着けた、ほどよく筋肉のついた彼の背中は引き締まっていて美しい。ついでに昨夜のことを思い出して一人でアワアワ照れていた私の耳に、鋭い声が飛び込んで来た。


「……何だって! で、足取りはつかめていないのか?」


 驚いた声が聞こえる。

 いったいどうしたんだろう?

 ガウンだけの姿で、側に行くことはできない。仕方がないので耳を澄ませて、二人の話を聞きとろうとする。


「それならすぐに戻らなければ。手配してくれ。……ああ、私だけでいい」


 ヴァンの声しか聞こえないけれど、何だか焦っているみたい。しばらく話をした後で、ヴァンが戻って来た。彼が口にしたのは、悪い報せだった。


「牢に入れていたローザだが、逃走していたらしい」


 私に毒を飲ませたローザ。

 彼女は隠し持っていた薬を看守に盛って、いつの間にか脱走していたようだ。すぐに見つかると思った看守達が、報告せずにいなくなった事実を隠していた。取り調べの際に判明したけれど、探しても見つからなかったそうだ。

彼女はかなり頭がいいし、内部に手引きをした者がいた可能性もある。城内にはもういないと思うが、 帰ってすぐに対策を練る必要があるのだという。


「すぐに戻るのね!」


「ああ、私はそうする。だが、君とルチアはこのままここに滞在して欲しい。大使と共に休暇を楽しんでくれ」


「嫌! 私も一緒に帰りたい!」


 このままここにいた方が危ない気がする。

 だって、ここは『ラノベ』の舞台にそっくりだ。大使やルチアちゃんの休暇を優先するよりも、私は自分を大事にしたい。落っこちて死んでしまう可能性があるなら、早くここを立ち去りたい。


「どうした? セリーナ、君らしくない。そんなに私と離れたくない?」


 笑いながら冗談を言うヴァンに比べて私は切実だ。

 ここが海辺の古城なら、セリーナは――私はここにいてはいけない!

 

「違う……そうじゃない!」


「何だ、残念。まあいい。ゆっくり着替えて後からおいで。朝食ぐらいは一緒にとれるはずだ」


 ヴァンは私の頬に触れながらそう言うと、自分で手早く着替え始めた。

 

「ねえ、だったら別邸の方に移動したら?」


 私の提案に振り向いた彼が、首を横に振る。


「せっかく老伯爵が歓待してくれたんだ。すぐに出て行くのは申し訳ない。それに、こちらの方が海にも近いし楽しめると思う。未来の王太子妃として、私の代わりにルチアと共に大使をもてなしてほしい」


 海を見に来た大使のために、誰かが残るべきだとわかっている。だけど、ここは私にとって身の危険を感じる場所だ。違う所なら喜んで残るけど、ここだけは勘弁してほしい。

そういったことを、上手く言うにはどうしたらいい?




 一生懸命考えている間に、ヴァンは身支度を終えて部屋を出て行った。

 ガウンでいいなら私もすぐに後を追いかけるけど、他人のいる前ではコルセットとかドレスとかって面倒くさいものを身に付けなければならない。王太子の婚約者は、着替え一つにも時間と人手が要るのだ。


 白いガウンの紐を結び直すと呼び鈴を鳴らした。すぐに女官が入って来る。城に修行に来て以来、私は彼女達に着替えを手伝ってもらっている。

 だけど、そこにいたのは見慣れない顔の女性。制服を着て女官用の帽子を目深に被っているけれど、いつもの人ではない。

化粧っ気のない顔。以前よりやつれて老けているけれど、この容貌は――


「……ローザ!」


 たった今話題にしたばかりの人。

 こんなに近くに彼女がいた!

 私は思わず息を呑んだ。


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