ずっと離さないで
気がつけば雨も小降りになり、馬車がまた動き出していた。どこか泊まれそうな所が見つかったのだろうか?
本来の目的地は丘の上の王家所有の別邸だった。けれど、雨だし暗くて遠くまで移動ができないために、別の場所に行くらしかった。少しだけ潮の香りがしているから、海が近いのだろうか? 真っ暗な道をカンテラの灯りだけを頼りに馬車が坂を上っていく。
とうに夜も更けている。
それもこれも、私が初めての仕事を張り切り過ぎて、雨で足止めされてしまったせいだ。もちろん私は、寝る場所さえあれば馬小屋か、なんなら馬車の中でも構わない。だけど王太子や王女、カレントの大使はそういうわけにもいかないのだろう。
到着したので馬車を降りた。
今日泊る所は、意外に大きな建物のようだ。
ただし、暗いためによくわからない。
中に案内されたけど……豪華だ!
「いいの!?」
「ああ。いい所を見つけてくれたようで良かった」
そういえば、ヴァンはこの国の王太子で、国王に次いで偉かったんだった。不意の訪問とはいえ、王太子一行が一泊すると聞いた城の持ち主は、たいそう喜んだ……っていうか感激して泣いていた。
少々古めかしい造りではあるけれど、建物内は清潔で居心地がいい。主人が慌てて用意させた晩餐も、予想以上に豪華だった。新鮮な海の幸やスープ、瑞々しいサラダや肉汁の滴るチキンなど、どれもが本当に美味しかった。お腹いっぱいになった今でも、思い出しただけでヨダレが出そう。
食事の後で部屋に落ち着いた。
王太子とカレントの大使、城の主人である老齢の伯爵は国のこれからについて議論をするらしい。難しそうな話だしボロが出てもいけないので、私は早めに失礼して先に休むことにした。
与えられた部屋は豪華だった。
たぶん主人の寝室を整えたものだろう。
高価な家具や調度品、上質のリネンが使われた天蓋付きの広いベッドまである。
「一番いい部屋なんじゃない?」
私は王太子の婚約者で、王太子本人ではない。
それなのに二階の一番いい部屋を譲ってくれるだなんて、屋敷の主人も気前がいい。広いので、せっかくだからとルチアちゃんも誘ったら、笑顔できっぱり断られてしまった。ちぇっ。
湯浴みの後の着替えも終わり、女官が下がったところでホッと一息。後は寝るだけなのでベッドに座って足をプラプラさせていたら、ノックの音が響いた。
「はい?」
「ああ、ごめん。待たせたね? 遅くなってしまったようだ」
部屋に入ってきたのは、何と王太子であるヴァンフリード本人だった。
「どうかしたの?」
夜も遅い時間に訪ねて来るとは、何か用事でもあるのだろうか?
「どうって? ここは私の部屋でもあるけれど」
「……え? だって聞いてないし」
「言ってなかったかな? 滞在するにあたって、当主が気を効かせてくれたようだ。私たちが婚約中だということは、国中が知っているしね」
「は? だ、だめでしょ。だったら私が移動する。さすがに一緒の部屋はまずいでしょう?」
「どうして? 私は構わないよ。それに、急に押しかけたから部屋数が足りないんじゃないのかな」
「じゃあ、女官かルチアちゃんと同じ部屋で。あ、馬小屋! 馬小屋なら空いているかも」
焦る私を見ていたヴァンは、手を口元に当ててクスクス笑っている。でも、私は必死だ。婚約しているとはいえ、同じ部屋っていうのはやっぱりちょっと気になる。
「落ち着いて、セリーナ。同じ部屋に泊まるのは、初めてのことではないだろう? それに、屋敷の主人の好意を無下にもできまい。大丈夫、手は出さないから安心して。それとも、もしかして期待している?」
「ま、まままさか! と、とんでもない!」
「そう、残念だ。まあいい、明日に備えて休もうか。どうしてもって言うなら、相手をしてあげてもいいけれど」
「言わない!」
私をからかうヴァンは、すごく楽しそう。
青い瞳が照明に当たってキラキラ輝いている。その魅力にうっかり引き込まれて頷いてしまわないうちに、今夜はさっさと寝ることにしよう!
私はベッドに潜り込むと、一番離れた端ギリギリに寄った。
「気をつけて、セリーナ。ベッドから落っこちないようにね?」
上機嫌なヴァンのおかしそうな声が、部屋に響いた。
*****
――これは、きっと夢だ。
だって、小さな頃に戻って父親に遊んでもらっているから。
兄の青や妹の紫と手を繋ぐ母。
父にまとわりつく自分。
当たり前の家族の幸せな光景。
けれど少し不思議な気がする。
もう戻れないとはっきりわかっているから?
こんなはずはないと、どこかで理解をしているからなの?
抱き上げてくれた父親の温もりを逃したくなくて、私は必死にしがみつく。父の肩に手を回し、願った。
「どこへも行かないで。ずっと側にいて、私を捨てないで……」
きっと、夢だから――
あの時口にできなかった言葉が、今ならスラスラ出てくる。
大きくて安心できる胸に、私は頬を寄せた。
夢の中の父は優しく、笑って答えてくれる。
「当たり前だ、捨てるわけがない。君は私のものだろう?」
掠れた甘い声と髪を撫でる優しい仕草に安堵して、満ち足りたため息をもらす。父の声とは違うような気がするけれど、私の大好きな声。彼の声が聞きたくて、もっと甘えてみたくて、私は更に身を寄せた。
「ねえ、セリーナ。そんなふうにされたら、さすがに私も苦しいよ」
え? 私の名前は紅だけど?
呼び間違えているんだけど。
父のはずだと確認したくて、相手の顔に手を伸ばす。
手を捉えられ、キスをされる。
思わずクスクス笑ってしまう。
おかしいよ、父ちゃん。
そんなの今までしたことがなかったよね?
「まったく、人の気も知らないで。それなら私も好きにさせてもらうよ?」
もちろん構わない。
抱き締めてくれる腕は頼りになる。
そこから広がる温もりも、安心できるから。
抱っこも好きだけど肩車やおんぶ、両腕を持って振り回される遊びも大好き。
髪に柔らかい何かが触れる。
おでこに、まぶたに、頬、そして唇に。
何だかとてもくすぐったい。
父ちゃん、くすぐりっこはあんまりしたことがなかったよね? 今日はどうして?
さっきまで背中に回っていた手も、何だか別の所を撫でている。
嫌というわけではないけれど……
父親とは違うその触れ方に、違和感よりも甘く切ない胸の痛みを覚えてしまう。近づいてほしいのに、近づくのが怖い。触れてもらいたいけれど、恥ずかしい。なんだかそんな感じだ。
夢とはとても思えない手の感触に、だんだん目が冴えてきた。
ちょっと待って、夢じゃない!?
私はパッと目を開いた。
目の前にあるのは端整な顔。その瞳には熱がこもっていた。
「な、なな何で? ヴァン……」
父親だと思っていたのは、遠くで寝ていたはずのヴァンフリードだった。
「手は出さないって言ったのに」
「私は出していないよ? 抱きついてきたのは君の方だ」
我に返ってよく見れば、端の方に寝ていたはずの自分が思い切り真ん中に寄っている。しかも手を彼の背中に回して、ベッタリくっついているのは私の方。慌てて外して離れようとするけれど、今度はヴァンが離してくれない。腰に回された手に力が込められる。光る瞳も私の反応を見つめている。
ヴァンは私の耳元に唇を寄せると、誘うように甘く囁いた。
「セリーナ。せっかくだから、この前の続きを教えてあげようか」
胸がキュッと苦しくなる。
顔に熱が集まるのが、自分でもわかる。
だって、間近にあるヴァンの表情がひどく真剣なものだから。からかうように言いながら、彼は私の答えを待っている。暗闇に浮かぶ好きな人の姿に、心臓がうるさいくらいに音を立てる。
夢の中で「私を捨てない」と言ってくれたのは、貴方だった。何度も繰り返される「君は私のものだろう?」という言葉。彼のその言葉にいつしか喜んでしまう自分がいる。
私を捨てないでほしい。
ずっと離さないでいてほしい。
貴方のものにしてほしい。
だったら――
彼の想いを受け止めたい。
貴方ももう、私のものでしょう?
同じように真剣に。
ヴァンの瞳を見つめた私は、微かに笑って頷いた。




